瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

第十三回 史談会へのお誘い
白川琢磨 比較宗教学へのご招待 共時的日本宗教史③ —神祇信仰~神仏習合~神仏分離—
日 時 12月21日(土)夕刻5時~7時
 会 場 四条公民館(まんのう町)
 講 師 白川琢磨 福岡大学名誉教授
 資料代  ¥200―  申込は無用
興味と時間のある方の参加を歓迎します。

端山八十八ヶ所巡礼をしていると「忌部」伝説に、よく出会いました。貞光川流域は、古代忌部氏との関係が深い所という印象を受けました。ところがいろいろな本を読んでいると、古代忌部氏の本貫は麻植郡と考えている研究者が多いことに気がつきました。麻植郡を本願とする忌部氏の氏神である忌部神社がどうして三好郡にあるのでしょうか。そこには、近世と近代の所在地を巡る争論があったようです。それを今回は見ていきたいと思います。テキストは「長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P」です。
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まず忌部氏について押さえておきます。
古語拾遺には「阿波忌部」と麻植の関係を次のように記します。

  天日鷲命の孫は、木綿と麻(を)と織布(あらたへ)多倍)を作っていた。そこで、天富命に日鷲命の係を率いて、土地豊かなところを求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖えた。その末裔は、いまもこの国(阿波)にいて、大嘗奉には木綿・麻布(あらたへ)及種種の物を貢っている。それ故に、郡の名は麻殖(おえ)と呼ばれる。

ここには、阿波忌部が阿波に定着して、穀・麻を播種し、木綿(穀の繊維)、麻の繊維、「あらたえ」といわれる麻布を製作し、これらを大嘗祭の年に貢納したこと、それゆえに阿波忌部の居住する地を麻殖郡と称したことが記されています。ここからは阿波忌部は麻殖郡に拠点を置いていたことがうかがえます。また、承平年間(920年前後成立)の辞書『和名類衆抄』にも、麻殖郡に「忌部郷」があったことが記されています。ここからも麻植が本貫であったことが裏付けられます。

天皇の即位儀礼の大嘗祭に奉仕した阿波忌部の氏神が忌部神社です。
古代の大嘗祭は律令体制下の「太政官→阿波国司→麻植郡司→阿波忌部」という行政ルートを通じて、忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われました。しかし、律令体制が解体すると、このルートは機能しなくなり、忌部氏も衰退します。忌部の後裔を称する人々は中世にもいて、大嘗祭への奉仕も続いたようですが、中世後期には途絶えたようです。やがて大嘗祭自体も行われなくなります。それが復活するのは17世紀後半の東山天皇の即位の時です。
 一方、近世に大嘗祭が復活したときには、阿波忌部は断絶していたので関与できませんでした。
大嘗祭と阿波との関係が「復活」するのは、大正天皇の大嘗祭のときになります。大嘗祭と阿波の関係が途絶えていた江戸時代後半に起きるのが忌部神社所在地論争です。古代の忌部神社の系譜を引く神社がどこにあったのか分からなくなり、考証や論争が繰り拡げられます。

延喜式神名帳阿波
延喜式神名帳の阿波国分

延喜5年(927)成立の『延喜式』神名式(「神名帳」)には、諸国の官社が載せられていて、これを「式内社」「式社」と呼んでいます。
ここに載せられた神社が当時の代表的な神社であったことになります。阿波を見てみると、四十六社五十座の神社が記されています。これらの中には、最有力なのは次の三社です
祈年祭に神祗官か奉幣する官瞥大社として
①麻殖郡の忌部神社
②名方部の天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)
③国司が奉幣する国幣大社として板野郡の大麻比古神社(おおあさひこ)
他は国幣小社です。社格からしても忌部神社は古代阿波では代表的な神社であったことが分かります。神名帳によれば、忌部神社は「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」と注記されています。ここからも、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神とし、「麻植神」と呼ばれていたことが分かります。忌部神社が忌部郷と考えるのが自然のようです。

延喜式神名帳阿波2
            延喜式神名帳の阿波国美馬郡十二座と麻植郡分
行方知れずとなった忌部神社の所在地考証は、江戸時代後半の18紀以後になると活発化します。
そして所在地をめぐる論争となります。その経緯を見ていくことにします。
文化12年(1815)の藩撰地誌『阿波志』巻七「種穂祠」には、次のように記されています。

「元文中、山崎。貞光両村の祀官、忌部祠を相争ふ。遂に中川式部に命じて此に祀る」

ここには、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)と美馬郡貞光村(つるぎ町)の神職の間で相論があって、麻植郡の種穂神社(古野川市山川町)を忌部神社として扱うことになったことが記されています。ここでは、争論となった場所が近代の論争地として再登場することを押さえておきます。以後、忌部神社を名乗る神社が以下のように次々と現れるようになります。
①寛保二年(1742)の『阿波国神社御改帳』には、宮島八幡宮(古野川市川島町所在)、種穂神社が忌部神社を主張
②種穂神社の神主中川家の史料から、嘉永六年(1853)に高越権現が忌部神社を称したこと
③この他にもいくつかの説がでてきますが、ここまでは麻植郡内が候補であったこと
この争論の背景には、国学が知識人の間に広がり古代への関心が高まってきたことと、忌部信仰の興隆・拡大があったようです。

端山忌部神社
端山の忌部神社(つるぎ町)(もともとは東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
そして登場するのが貞光周辺、とくに端山(つるぎ町)の忌部神社をめぐる次のような動きです。
①宝暦4年(1754)に、神職宮内伊織広重が忌部神社の系譜を主張し、神宝を「発見」したことが「美馬郡貞光村忌部神社文書.」(徳島県立図書館編出版)に記される。
②寛政5年(1792)『阿波志』編集のために神職らが集めた旧聞等をまとめた『阿波志編纂資料』には、美馬郡西端山には「忌部御類社と申伝」える「蜂巣五社大明神」や、「忌部大神宮社床と申伝」える「古社跡」があった
④類似する内容が民間地誌『阿陽記』などにもあり、西端山の項に「忌部古社」とその関連伝承・遺跡が記載されるようになる
⑤野口年長『式社略考論』は、端山の忌部神社について「いまだたしかなる拠なければ、せむすべなし。或人忌部神社の永禄四年の棟札を持伝へたれど、これにも社の所在の証なし」
⑤永禄4年(1561)の棟札とは、近代の論争において端山側の論拠となった「天日鷲尊四国一 宮」の棟札と同一物を指すようですが、現存せず。
以上のように18世紀後半から「忌部神社=端山」説を主張する動きがあったことを押さえておきます。これが大きな運動になるのが明治維新後です。
        
明治4年(1871)5月、明治政府は、全国の神社を神宮・官国幣社・府藩県社・郷村社と格付分類することにします。
そして中央の神祗官が直接管轄する官国幣社が指定されます。その一環として忌部神社も国幣中社に指定されます。これは先ほど見た『延喜式』の神名帳に従ったもので、その所在場所が分からないままでの指定でした。そのため、多くの神社が「吾こそは式内社としての古代の忌部神社なり」と名乗りを上げます。こうして近代の所在地論争の幕が開きます。

小杉榲邨 - Wikipedia
国学者小杉饂郁
そこで重要な役割を果たしたのが阿波出身の国学者小杉饂郁(すぎむら)でした。小杉の生涯を見ておきましょう。
天保5年(1824)徳島藩中老西尾氏の家臣であった小杉明信の長男として徳島城下の住吉島に誕生
安政元年(1854)西尾氏に従って江戸に出て、
安政4年(1457)江戸の紀伊藩邸内の古学館に入門して国学を学ぶ。
           幕末期には尊王攘夷を唱えたため、藩により幽閉。明治維新に際して藩士に登用され、以後、学者あるいは学術系行政官とし活躍。
明治2年(1869)藩学である長久館の国学助教に就任
明治7年(1874)教部省に出仕し、後に文部省、東京大学、帝国博物館に勤務。『特撰神名牒』『古事類苑』などの編纂に従事
明治34年(1901)文学博士・
明治43年(1910)永眠(75歳)
大正3年(1913) 小杉編『阿波国徴古雑抄』刊行(『徴古雑抄』のうち、阿波の部の正編仝部及び続編の主要史料を収載)

忌部神社の国幣中社指定の年の明治4年(1871)8月に、小杉は、その所在地調査の報告や意見が出されています。これを見ると候補として挙げられている神社は、次の通りです。
①川田村(吉野川市山川町) 種穂社
②山崎村(山川町)忌部社  王子社
③貞光村(つるぎ町)    忌部社(東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
④宮島村(吉野川市川島町) 八幡宮
⑤西麻殖村(吉野川市鴨島町)中内明神
⑥上浦村(鴨島町      斎明神
⑦牛島村(鴨島町)     大宮

種穂忌部神社
川田村(吉野川市山川町) 種穂社
このような乱立状態を見て、小杉は「忌部神社新設」案によって打開しようという意見書を県に提出しますが採用されません。そのため官祭を開くことができず混乱が生じます。そのため一時は、忌部神社の指定を撤回し、大麻比古神社に変更するという案も浮上したようです。流石にこれには抵抗があり実現しません。

忌部神社 山崎
忌部神社(山川町山崎)
明治6年になると、小杉饂郁は「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」と主張するようになります。
「山崎村ノ神社」とは、②の王子社に祀られていた天日鷲社のことです。そして、翌年2月、教部省に意見書を提出します。この時の小杉の考証根拠は「不可抜ノ証文」で、「三木家文書」のうちの「阿波御衣御殿人契約状」(正慶元年1332)です。この文書は今は写本が残るのみですが、次のようなことが書かれています。(原文は漢文調を読下したもの)
契約
阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶死年十一月 日
以下13人の名前
この文書については、研究者は次のように評します。

中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではないと考える。

つまり完全な偽物ではなく、当時の情勢を伝える信用できる内容のものだという評価です。
内容を見ておくと
「御衣御殿人」は通例「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(荒妙御衣)のことで、これを製作する者が「御殿人」です。したがって、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団ということができます。
小杉が注目したのは、次の箇所です。

「一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」

阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「やまさきのいち(山崎の市)」とは、忌部神社の門前市のことで、山崎村に忌部神社があったことになります。この「山崎=忌部神社鎮座」説に対しては、5月に異論が出されます。折目義太郎らが小杉に対し、西端山の忌部神社を認定すべきという意見を申し出ます。しかし、教部省による小杉説の検証が行われた結果、12月には大政大臣三条実美の名において、次のような決定が出されます。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ旧忌部神社クルヲ実検候二付自今該社ヲ忌部神社卜称シ祭典被行候」
意訳変換しておくと
「麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社が認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。

これが小杉説に基づく政府決定でした。

これで一件落着のように思われたのですが、問題は終わりませんでした。讃岐国幣中社の田村神社権宮司・細矢庸雄が忌部神社の所在地を西端山とする考証を出して、政府決定に反駁を行い、小杉との論争となります。
さらに、これを支援するように明治10年(1877)になると、西端山を含むつるぎ町貞光一帯から運動が起こり、内務省に願書が提出されます。
その主張の骨子は次の通りです。
「式内忌部神社ノ儀、往古ヨリ阿波国麻殖郡内山吉良名御所平二御鎮座」

これには「忌部郷人民惣代」を称する村雲義直のほか、谷幾三郎、折目栄の連署があり、さらに戸長・副戸長計七名による奥書があります。ここからは個人の意向ではなく、地域有力者の政治運動として展開されたことが分かります。つまり、忌部神社問題が争論から政治問題化したのです。翌年に出された追願書以降は、東京在住の折目栄が「忌部郷惣代」とか「忌部郷諸(庶)民惣代」などと称しているので、彼が運動の中心にいたことがうかがえます。
 忌部神社=端山説の根拠は、次のような「物証」でした
①美馬郡は、もと麻植郡の一部であったとする郡境変更説などが記された『阿陽記』
②その系統の地誌、『麻殖氏系譜』
③永禄年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札
また、小杉が「忌部神社=山崎鎮座」説の根拠とした古文書「波御衣御殿人契約状」を偽文書とする鑑定も出されます。そして考証の結論は、「波御衣御殿人契約状」を偽文書として、「忌部神社=山崎説」を否定するものでした。こうして、明治14年(1881)に西端山御所平が忌部神社所在地と決定されます。
ところが政治問題化した忌部神社の所在地問題は、これでも終結しません。
こうなると学問的考証の手立てはなく、残された選択肢は、かつての小杉の主張であった忌部神社の新設によるしかなくなります。所在地論争は、棚上げされることになります。

徳島市勢見山の忌部神社
 徳島市勢見山の忌部神社

こうして徳島市勢見山に新たな場所が選ばれ、忌部神社を新設して明治20年(1887)に遷座祭が行われます。御所平の神社は忌部神社の摂社となりますが、山崎の神社はその系列からは外されてしまいます。その意味では、端山側の運動は一定の成果を残したと言えそうです。その後、山崎が歴史の表舞台に現れるのは、大正4年(1915)、大正天皇即位の大嘗祭の色服の「復活」の時です。織殿が山崎の忌部神社跡地に設置され、山崎の地も阿波忌部に連なる正統なな忌部神社として復活を遂げます。

忌部神社 徳島
忌部神社(徳島市)
以上をまとめたおくと
①阿波忌部の本貫地は麻殖郡で、そこに氏寺の忌部神社が鎮座していた。
②忌部氏は古代の大嘗祭において、麻などの織物を奉納する職分を持っていた。
③しかし、中世になって大嘗祭が簡略化され、ついには行われなくなるにつれて、阿波忌部も衰退し姿を消した。
④こうして阿波忌部が姿を消すと、氏神である忌部神社もどこにあったのか分からなくなった。
⑤こうした中で江戸時代後期に、国学思想が拡がると忌部神社を名乗る神社がいくつも現れ、争論を展開した。
⑥明治政府は延喜式の神名帳に基づいて、忌部神社を国幣中社に指定したが、所在地が分からなかった。
⑦そこで政府は、小杉饂郁の論証を受けて、麻植郡山崎村の天日鷲社を忌部神社と認めた。
⑧これに対して端山周辺の有志達は、組織的に「忌部神社=端山」説を政府や県に陳情し、政治問題化させた。
⑨その結果、新しく忌部神社を徳島市内に建立し、端山はその摂社とした。

ここには、ひとつの神社がどこにあったかをめぐる争論の問題があったことがわかります。忌部神社が端山にあったということは、周辺住民のアイデンテイテイの根拠になり、地域の一体化を高める動きとなって政治問題化します。このような歴史ムーブメントが端山周辺にはわき起こり、現在でも忌部伝説が語り継がれているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P
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