古代の阿波忌部氏について、研究者は次のように考えているようです。
①古代の大嘗祭は「太政官→阿波国司→麻植郡司→忌部氏」という律令体制の行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。②しかし、律令体制が不安定となると、中央の斎部(忌部)氏も衰退し、このルートが機能しなくなった。③そこで中央の神祗官は、荒妙・由加物の確保のために「阿波忌部」を直接的に配下に置いて掌握するシステムを作り出した。④そのシステムが、「神祗伯家」→神祗官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」である。⑤中世になると阿波忌部に替わって「氏人」が荒妙の織進や由加物の調進を行うようになった。
「阿波忌部」については、研究者の多くはその本貫地を麻植郡とし、氏神の忌部神社もその周辺にあったと考えていることを前回は見てきました。今回は、考古学者が「阿波忌部」の本貫地に作られた忌部山古墳群を通して、古代の麻植郡をどのように考えているのかを見ていくことにします。
テキストは「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。
徳島県でも6世紀中葉頃になると、それまでの竪穴式石室に替わって、朝鮮半島から伝わってきた横穴式石室を埋葬施設に持つ円墳が登場してくるようになります。竪穴式石室は基本的に首長一人の埋葬ですが、横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳のほとんどが10m前後の規模の小さな円墳で、家族墓として複数の追葬が行われるようになります。
上の徳島の古墳変遷図を見ると、吉野川流域の麻植郡については、次のような情報が読み取れます。
①3世紀から5世紀の前方後円墳に代表される首長墓がないこと。②6世紀代(10期)になって、円墳で横穴式石室をもつ古墳が登場してくること
つまり、麻植郡は4・5世紀代には、古墳が造られていない「古墳空白地帯」なのです。これは強い力をもつ豪族たちがいなかった地域であった地帯とも言えそうです。
麻植郡域に横穴式石室の古墳が築造されるようになるのは6世紀になってからです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。
麻植の3忌部山古墳群・4峰八古墳群・ 5鳶ヶ巣古墳群
地図を見れば分かるように、山川町忌部の背後の標高200mの山の中にあります。そして、その麓に、山崎忌部神社が鎮座し、その里が山川町忌部になります。「里から見える見える霊山に祖霊は帰っていく。その山や谷が霊山であり、霊域となる。それを奉るために社殿が作られる。」という民俗学者の言葉通りのレイアウトになっています。この里が阿波忌部の本貫地であったことが古墳からもうかがえます。注意しておきたいのは、高越山の麓ではないことです。
200m前後の高い山の上に古墳が作られるのは徳島ではあまり例がありません。徳島県の高所造営の代表的例を挙げると、次の2つです。
①三好郡東みよし町の丹田古墳(全長約25mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室)で標高約220m②徳島市名東町の八人塚古墳(約全長60mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室?)でや標高130m
丹田古墳(東みよし町)
山の上に作られた古墳は4世紀代の前期古墳で、尾根の先端部にあって、そこからは平地の集落が見下ろせる位置にあります。つまり首長墓で政治的なモニュメントとして作られています。麻植の忌部山古墳群や峰八古墳群、鳶ケ巣古墳群が高所に造られたのは、前期古墳の首長墓とは性格がちがいますが、家族墓として一族の存在誇示する意図がうかがえます。忌部山古墳群は『和名類緊抄』の郷名「忌部」に、峰八古墳群と鳶ケ巣古墳群は郷名「川嶋」の集落に比定されます。ここには、忌部氏と、隣接した川島にもうひとつの有力者集団がいたことがうかがえます。忌部山古墳群をもう少し詳しく見ておきましょう。
図4 忌部山古墳群の測量図 『忌部山古墳群』(1983年)より
この古墳群は、吉野川市山川町山崎字忌部山123番地の標高約240mにあり、『麻植郡誌』にも載っていて古くから知られた古墳群です。
現在の忌部山2号墳
調査時の忌部山古墳2号墳
1976年から3年間の調査で分かったことは、次の通りです。①5基とも円墳で、墳丘規模は、直径10m前後、高さ2、5m前後で、墳丘規模に大きな格差はない。
②忌部山の尾根に沿って、最高部244mから1号墳、2号墳、3号墳と北方向へと下る稜線上にある。
③尾根上に並ぶ3基の古墳から、南東側の斜面約20m下に4号墳、さらに北東側に12m隔てて5号墳がある。
④ここからは、忌部山古墳群は、頂上部の1~3号墳グループと4~5墳グループに2つに分類できる
⑤忌部山古墳群は全て横穴式石室で、1号墳だけは横穴式石室に隣接して竪穴式の小石室があり、これは追葬用の埋葬施設。
⑥石室を比較すると、1号墳を最大として、次いで2号墳、3・4・5号墳が一回り小さい。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。
各古墳石室の開口方向から推測すると、一番上の1号墳から下っていく墓道と2号墳の墓道が繋がり、3号墳の南側を下って3号墳の墓道と繋がり、4号墳の西側から南側を廻って4号墳の石室前へと繋がり、さらに5号墳の石室開口部へと繋がって里へと下っていく墓道があったと研究者は考えています。
忌部山古墳群の横穴式石室は、大きな特徴を持っていると研究者は指摘します。
徳島県の他エリアの横穴式石室は長方形の石室で、天井部は水平で、全体は箱型の石室です。これが全国標準タイプです。ところが忌部山の古墳は、石室をドーム状に積み上げています。
忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている
石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。
境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室
この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている
石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。
境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室
この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
それでは忌部山型石室のルーツはどこなのでしょうか?
そのことを探る上で参考になるのが美馬の段ノ塚穴古墳群のようです。
太鼓塚古墳の石室 ドーム状に高く積み上げられている
これを探るのは次回にして、以上をまとめておきます。
①山川町山崎は忌部の地名が残り、史料的にも「阿波忌部」の本貫地であったことがうかがえる
②山崎の忌部の里の上には、忌部神社が鎮座し、さらに山の上には忌部山古墳群がある。
③忌部山古墳軍は、里の阿波忌部の家族墓として6世紀中頃に、継続して造られたもので、忌部氏の集団がいたことがうかがえる。
④忌部古墳群には、ドーム状石室という独特の構造が見られ、他エリアとは一線を画する出自や交易活動を行っていたことがうかがえる。
②ドーム状石室という点では、麻植と美馬の勢力は共通点を持ち、麻植の影響を受けて美馬でも造り始められたと研究者は考えている。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」
関連記事
関連記事
コメント