『徳島県民手帳』の「資料編(徳島県の沿革)」には次のように記されています。
「古代、忌部氏が、吉野川流域を開拓したとき、粟がよく実ったので、この地域を粟の国といい」
ここには忌部氏の功績によって、吉野川流域の開発と粟の栽培が行われたので「粟の空」と呼ばれるようになったと書かれています。しかし、かつては阿波国は「粟国造」の「粟(阿波)凡直氏」が阿波国始祖だったので粟(阿波)とされるようになったと語られてきたように思います。徳島県では、粟氏から忌部氏への建国始祖が変更中なのかもしれません。そんなわけで、今回は史料に出てくる阿波忌部氏と中央の斎部(忌部)氏の関係を見ていくことにします。テキストは「福家 清司 大嘗祭と忌部氏について 麻植史を学ぶ21P」です。
忌部氏については、斎部広成(いんべのひろなり)が807年に天皇に提出した『古語拾遺』に詳しく記されています。彼は紀記に記されていない忌部氏独自の歴史を述べた後で、神祇面で中臣氏がしゃしゃり出すぎると不平を言っています。この書が書かれた目的は、ここにあったようです。
『古語拾遺』の中には、次のような「忌部氏=麻植開拓」伝説が次のように記されています。
天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、
読み下すと次のようになります。
天日鷲命の孫、木綿及び麻井びに織布〔古語、阿良多倍(あらたえ)〕を造れり。天富命をして、天日鷲命の孫を率て、肥饒地を求めて阿波国に遣はして、穀・麻の種を殖ゑしむ。其の裔、今彼の国に在り。大嘗の年に当りて、木綿・麻布、及び種々の物を貢る。所以に郡の名を麻殖と為る縁也。(『古語拾遺』新選日本古典文庫 七七~八〇百( 現代思想社 一九七六年)
要約すると、
天日鷲命の孫をが豊穣な阿波国にやって来て、穀・麻を植えて入植したこと。その子孫が、大嘗祭の年には、木綿・麻布など貢納品を納めていること。故に、彼らが住む郡を「麻植(おえ)」よ呼ぶ。
ここからは麻植郡が神により忌部氏に約束された聖地であり、その本貫地であることが記されています。この「建国伝説」は、後世に大きな影響を残します。
実は「古語拾遺」には、この部分の前に次のような文章があります。
太玉命所率神名目①天日鷲命阿波国忌部祖也、②手置帆負命讃岐国忌部祖也 ③彦狭知命紀伊国忌部祖也 ④櫛明玉命出雲国玉作祖也 ⑤天目一筒命筑紫、伊勢両国忌部祖也
(中略)妖気既晴、無都橿原、経常帝宅、働令天富命太玉命之孫率手置帆負、彦狭知二神之孫以斎斧斎鐘鍋、始採山材構立正殿所謂底都磐根宮柱布都之利立、高天乃原爾博風高之利氏阜孫命乃美豆乃御殿子造奉仕也故其裔今在紀伊国名草郡御木色香二郷古語、正殿謂之色香採在斎部所居謂之御木造殿斎部所玉、矛盾、木綿、麻等、櫛明玉命之孫造御祈玉古語美保伎玉、
天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、
ここには天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの地方忌部を率いたし、それぞれの始祖神を次のように記します。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)①阿波忌部氏 天日鷲命(あめのひわしのみこと)、②讃岐忌部氏 手置帆負命(たおきほおいのみこと)、③紀伊忌部氏 彦狭知命(ひこさしりのみこと)、④出雲国玉作 櫛明玉命⑤筑紫、伊勢両国 天目一筒命⑥安房忌部氏 天富命(あめのとみのみこと)、
「天富命をして、斎部(忌部)の諸氏を率て、種々の神宝・鏡・玉・矛盾・木綿・麻等を作らしむ。」とあり、地方の忌部氏が「笠・盾・金(金属)・綿・玉」などの祭礼用具を「業務分担」しながら作って、中央忌部(忌部)に納めていたことが分かります。
忌部氏がどのような仕事をしたかについては、天岩戸のシーンに次のように記します。
①銅を取ってきて鏡を鋳造する②麻を植えて青幣帛(あおにぎて)を作る③カジノキを植えて白幣帛(しらにぎて)を作る④布を織る⑤玉を作る⑥木材を採取し、神殿や笠・盾・矛を作る⑦刀・斧・鉄鐸を作る⑧榊を取ってきて鏡・幣帛・玉を懸け、称詞を唱える
ここでは忌部氏が祭祀に関わる一切を作る指揮を執り、祭祀を行う主役だったと主張しています。注目しておきたいのは神殿まで作る木工・大工集団も抱えていたようです。木は植えると一晩で成長したと云います。各地にカジノキ・楮・麻などを植えて育成するために、広大な山林資源を管理していたことがうかがえます。このような祭礼儀式に必要な金属加工技術や織物技術は列島にはありませんでした。忌部氏も渡来系であったと研究者は考えています。
以上から地方の忌部氏集団は、中央の忌部氏に従い、朝廷の祭礼儀式に関係する祭具や建築物の建設などを担当する技術者集団を構成していたことがうかがえます。
以上から地方の忌部氏集団は、中央の忌部氏に従い、朝廷の祭礼儀式に関係する祭具や建築物の建設などを担当する技術者集団を構成していたことがうかがえます。
地方忌部氏の分布図
これを裏付けるのが『日本書紀』第二の一書の次の所です。
これを裏付けるのが『日本書紀』第二の一書の次の所です。
即以①紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作笠者.②彦狭知神為作盾者・③天目一箇神為作金者.④天日鷲神為作木綿者.⑤櫛明玉神為作玉者.(以下略)率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿
ここに書かれている地方忌部の職務分担を整理すると次のようになります。
日本書紀の記述からも、笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」されて作成したこと、また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや正殿建築等を通じて密接に結び付いていたことが記されています。また、筑紫や伊勢の忌部が金属器の製造に関係しています。これは、神具としての金属器の製造で、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもあったと研究者は考えています。ここからは、地方忌部は中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事してたことが分かります。ここで押さえておきたいのは、中央に貢納品を納めていたのは、阿波忌部だけではなかったことです。
『延喜式』の臨時祭、梓木の条には、次のように記されています。
凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。
ここには、讃岐国から毎年11月に、柿の木の矛竿が1244本も貢納されていたことが記されています。多くの竿を納めるので讃岐は別名で竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。この竿(さお)は、武器としても使用されたことが考えられます。先ほど見た日本書紀には「手置帆負(讃岐忌部)・彦狭知(紀伊忌部)の二神の子孫は、神から下賜された斧で木を伐り山材で正殿を建てた」とありました。讃岐や紀伊の忌部氏が山林開発者であったことがうかがえます。
中央忌部(斎部)氏が朝廷の儀式に深く関わっていたことは『日本後記』大同元(806)年8月10日条からも裏付けられます。
中臣忌部両氏各有相訴。中臣氏云、忌部者、本造幣畠、不中祝詞、然則不可以忌部氏為幣畠使、忌部氏云、奉幣祈祷、是忌部之職也、然則以忌部氏、為幣畠使、以中臣氏可預祓使、彼此相論、各有所拠、是日勅命、拠日本書記、天照大神閉天磐戸之時、中臣連遠祖天児屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇真坂樹、而上枝懸八坂瑣之五百御統、中枝懸八腿鏡、下枝懸青和弊白和弊、相興致祈祷者、然則至祈祷事、中臣忌部並可相預、又祈念月次祭者、中臣宣祝詞、忌部班幣串、践詐之日、中臣奉天神寿詞、忌部上神璽鏡創、六月十二月晦日大祓者、中臣上御祓麻、東西文部上祓刀、読祓詞詑、中臣宣祓詞、常祀之外、須向諸社供幣畠者、皆取五位以上卜食者充之、亘常祀之外、奉幣之使、取用両氏、必当相半、自余之事、専依令條、
意訳変換しておくと
(古くからの神祇官である)中臣氏と忌部氏が互いに、その分担をめぐって争った。中臣氏が云うには「忌部は、もともとは幣畠の作成担当で、祝詞には関与しなかった。よって忌部はあくまで幣畠使である」と。これに対して忌部氏が云うには「奉幣し祈祷するのが、忌部の職である。」と。そこで(大同元年8月10日の)の勅裁で次のように決められた。
以下、次のように記されています。
①大同元年頃、神祗官人の忌部氏と中臣氏は、神祗官の職務分担をめぐって対立し、相手を提訴した。②訴訟については、同年8月10日に勅裁が次のように下された。③『日本書紀』の記載に基づいて、祈祷については中臣氏と斎部(忌部)の両者が従事すること④祈念祭・月次(つきなみ)祭については、中臣氏が祝詞を宣し、忌部氏が幣畠を班つこと⑤大嘗祭については、中臣氏が寿詞を奉り、忌部氏が神璽鏡剣(しんじきょうけん)を奉ること
ここからは大同元(806)年頃には中央忌部氏は、中臣氏と対立して窮地に立たされていたことがうかがえます。
三条天皇の大嘗祭関係の記事を収める『権記』には、次のように記します。
又、云はく、「大嘗会の事、其の子細、式を作る。仁和寺より伝へ取る。四条納言、之を見て云はく、『寛平に作す所か』と。角りて彼の納言、之を『寛平式』と号す。其の故に、元慶・仁和の例、注文に在りと云ふ。其の中に取るべき事有り。廻立殿に御す後、悠紀殿に還御する間、小忌の中少将一人、左右に候ずる事、両三、存す」と云々。即ち先日、見給ふる事有る文を申すなり。近きは忌部、鏡。鋼を奉ること、天長以来、其の事無き由、件の書を見ゆるか、と。
最後の部分に「先日に見た文書には、かつては忌部(斎部)氏が、鏡・鋼を奉じたが、天長年間以来、これがなくなっている」と記されています。ここからは大同元年の勅裁では、中央忌部氏は神璽・鏡鋼奉献ていたが、約30年後の天長の頃には、行われなくなっていたことが分かります。9世紀中頃の天長年間(824~833年)になると、中央忌部氏が大嘗祭に鏡鋼を奉ることがなくなっていたことを押さえておきます。これは中央忌部氏が存続の危機に瀕していたことを示します。
斎部氏への改姓と『古語拾遺』が書かれた時期と、忌部氏の衰退時期は一致します。
それは9世紀前半と云うことです。中央忌部氏はもともと「忌部」を名乗っていましたが、延暦22年880)に「斎部」と改姓します。この改姓理由を分かりやすく云うと「自分たちは地方の忌部緒氏とはちがうんだ。朝廷の儀式を担当してきた伝統的な神祗官なのだ。地方の忌部氏と一緒にしないでくれ」ということでしょうか。言い換えると「地方忌部氏との差別化」のために、それまでの忌部姓から斎部姓に改姓したようです。これと斎部広成が『古語拾遺』を書いた時期は一致します。
それは9世紀前半と云うことです。中央忌部氏はもともと「忌部」を名乗っていましたが、延暦22年880)に「斎部」と改姓します。この改姓理由を分かりやすく云うと「自分たちは地方の忌部緒氏とはちがうんだ。朝廷の儀式を担当してきた伝統的な神祗官なのだ。地方の忌部氏と一緒にしないでくれ」ということでしょうか。言い換えると「地方忌部氏との差別化」のために、それまでの忌部姓から斎部姓に改姓したようです。これと斎部広成が『古語拾遺』を書いた時期は一致します。
古語拾遺は、平城天皇の求めに応じて大同二(806)年に斎部広成が提出したものとされます。
当時の朝廷祭祀は大化の改新の功労者が中臣氏が主導権を握り、斎部(忌部)氏は衰退気味でした。このような中で、広成は忌部氏が祭祀を司る正当性を訴えます。その心情は、序の「蓄憤(積もり積もった憤懣)をのべまく欲す」という言葉によく表されています。日本書紀の情報を下敷きにして、独自の語源解釈を展開します。例えば、天岩戸の場面で大活躍するのは忌部氏の遠祖太玉命です。
古語拾遺には、次のような2つの目的があったと研究者は指摘します。①同じ神祗官人である中臣氏との対抗関係で劣勢に置かれていたことに対する己の正当性②地方の緒斎部氏との差別化を図ること
それでは中央忌部氏と地方忌部氏は、どんな関係だったのでしょうか?
津田左右吉は地方忌部氏を「部民(べのたみ)」として、次のように規定します。
津田左右吉は地方忌部氏を「部民(べのたみ)」として、次のように規定します。
①朝廷に特殊の地位と職掌を持つ伴造の家が、地方においてそれに隷属する部下を有した②その部下は、主家と同じ氏の名を称した。③それらは主家と同じ職掌のものではなかった。④それらは主家と血族を同じくするものではなかった。以上の規定に従って地方忌部氏を次のように理解します。⑤律令制以前から阿波など六国(阿波・讃岐・紀伊・出雲。筑紫。伊勢)に忌部氏支配下の人々がいたこと。⑥中央の忌部氏と地方の忌部は、互いに同族と考えていない。⑦朝廷が祭祀のために中央の忌部氏や地方の忌部を定めた。
この津田氏の考え方が、今でも大筋としては認められているようです。
庚午の年に、わが国最初の戸籍として作成された「庚午年籍」には、紀伊忌部氏の起源が「忌部姓」とされています。ここからは中央忌部氏の「部民」として位置づけられていたことが分かります。これは讃岐や阿波の地方忌部氏においても同じだったはずです。つまり、庚午年籍において、正式に讃岐や阿波の忌部氏は誕生したことを押さえておきます。
例えば空海を生み出した讃岐善通寺の佐伯直氏の場合を見てみましょう。
ここからは部民や直として地方に設置された氏族が、職能を通じて中央氏族と結びつき、先祖を同じくする一族として「疑似血縁的紐帯」を形作るようになっていたことが分かります。しかし、実際には、彼らには血縁関係はなかったと研究者は考えています。忌部氏も佐伯氏と同じような「疑似血縁共同体意識=一族意識」で結ばれていたこと、しかし、中央と地方では大きな違いがあったことを押さえておきます。そして、中央の忌部(斎部氏)が衰退すると、地方斎部氏との関係も次第に薄れていきます。そうすると斎部氏に代わって、大嘗祭の準備品を整えなければならなくなった神祇官氏族は、地方忌部に替わる新たなチャンネルを確保するようになったと研究者は考えています。
以上をまとめておきます。
①中央斎部(忌部)氏が、自分の職能や果たしてきた役割を記録したものが古語拾遺である。
②古語拾遺が書かれた背景には、朝廷儀式をめぐる神祇官としての斎部(忌部)氏がライバルである中臣氏に押されて、次第に影が薄くなっていたことが背景にある。
③その打開のために、斎部氏の果たしてきた役割と、地方忌部との違いを明確にするというねらいの下に古語拾遺は書かれた。
④忌部氏は、朝廷儀式に使う祭礼器具などの準備を担当し、それを地方の忌部氏に分担して準備させていた。
⑤中央の忌部氏と地方忌部は、もともとは別集団であるが祭礼用具準備という職務を通じて「疑似血縁集団化して一族意識を持つようになった。
⑥しかし、中央の斎部氏が衰退していくと、この関係は維持できなくなり、地方忌部も祭礼用具や貢納品を準備することはなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司 大嘗祭と忌部氏について 麻植史を学ぶ21P関連記事
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