江戸時代に忌部神社本社を名乗る神社が、山崎・川田・貞光に現れ、阿波藩は川田の種穂神社を本社と認めます。しかし、明治維新になると、それは「ちゃぶ台返し」されます。
明治維新後の新政府の方針は「王政復古」でした。これは律令国家の時代に戻れというもので、神仏を分離し神道に一本化し、すべての国民を神道にまとめるというものでした。その一環として、律令時代の式内社復活が推し進められることになります。具体的には、各県で延喜式内大社・中社・小社を置くことになります。阿波でもその動きが明治5年(1872)頃から始まります。その一環として、式内社忌部神社の所在地決定が進められます。これは藩政下の18世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃させることになります。阿波藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返しとなり、仕切り直されるという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。
この行司役を務めることになったのが名東県の役人としてに出仕していた若き日の小杉榲邨(すぎむら)です。
彼は、穏便に済ませるために新たな神社の設立を県に提案しますが、認められません。あくまで山崎か貞光か、どちらかに決定することが求められます。いろいろな史料を出して並べて考えた上で、小杉が頼るべき史料としたのが三木家文書の中の「山崎の契約」でした。この史料は鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。
彼は、穏便に済ませるために新たな神社の設立を県に提案しますが、認められません。あくまで山崎か貞光か、どちらかに決定することが求められます。いろいろな史料を出して並べて考えた上で、小杉が頼るべき史料としたのが三木家文書の中の「山崎の契約」でした。この史料は鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。
契約阿波国御衣御殿人子細事右件衆者、御代最初御衣殿人たるうえは、相互御殿人中、自然事あらば、是見妨聞妨へからす候、此上者、衆中にひゃう(評)定をかけ、其可有者也、但十人あらは、七八人議につき五人あらは、三人議付へきものなり、但盗。強盗・山賊、海賊、夜討おき候ては、更二相いろうへからす候上者、不可日入及、そのほかのこと、 一所見妨へからす候、但この中二いきをも申、いらんかましきこと申者あらは、衆中をいたし候へきものなり、此上は一年に三度よりあいをくわへてひやうちゃうあるへく候、会合は二月廿三日やまさきのいち、九月二十三日いちを可有定者也、契約如件正慶元年(1332)十一月 日中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道赤松藤二郎太夫 永谷吉守 大坂半六三木氏村(花押)
意訳変換しておくと
阿波国御衣御殿人子細事右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23三日の定期市とする。契約については件の如し正慶元年(1332)十一月 日
以下13人の名前と花押
「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。そして以下のように理解されていきました。
①大嘗祭について麁服(あらたえ)の布を貢納する集団として「御衣(麁服)の御殿人(みぞみのあらかんど)」13人の名前が最後に連署されていること②いろいろなことを衆中で合議し、多数決制できめること③ 一年に二度、山崎で市がたつ二月と九月に集まり、その結束を確認すること④その結束の中心が最後に署名している三木氏であること。
このような理解の上に立って小杉は、この契約状を「荒妙貢進をおこなう集団が山崎の王子神社に集まって、結集していた証拠」とみなしました。そして証拠史料として「古代忌部社は山崎崎の「王子神社」が式内忌部社である」とする意見を政府に提出します。明治政府の教部省政府も。これをそのまま受けいれ「王子神社」が忌部大社と一度は決定されます。
ところがこれに対して美馬郡の貞光は、次のような意見書を出して反撃に出ます。
「貞光は今は美馬郡であるが古代においては麻植郡に属しており、貞光の背後にそびえる端山の友落山に式内忌部社は鎮座していた」
この貞光側の論は江戸時代後半(18世紀段階)の忌部神社本社論争で貞光の神主が主張していたことをそのまま繰りかえしたものです。18世紀の忌部神社本社論争の再燃になります。これだけではありません。貞光側は、この文書は小杉が偽造したものとして、小杉を裁判所に訴えます。その訴状内容は、次の通りです。
この契約状はもともと三木家にあったものだが、三木家の時の当主が小杉から山崎の社を忌部大社にしたいので、自分の作った文書を三木文書に混ぜてくれと言われ、不本意ながらそれにしたがったと自首してきた。
裁判所は貞光側の訴えを却下します。一方で明治政府の教部省は、小杉の論に間違いがあるとして、忌部大社を山崎においたことを取り消し、貞光に移転させる決定をします。この背後には、貞光側の中央政府への政治的な働きかけがあったようです。こうして明治14(1881)年には、政府の指示に従って、端山に式内忌部社を移動することが決定されます。ところが、今度は、その神社をどこに設置するかをめぐって、端山内部で内輪もめ起こり、泥沼化して動きが取れなくなってしまいます。そのため明治18年(1885)になって、解決のために取られた策が徳島市の眉山山麓に新しく忌部神社を建てることでした。端山には、摂社が建てられることになります。小杉は当初の段階で、争論があるので無理をして決めるのは良くないので、適切な地を選んで立てたらという提案していましたが、結果としてそのとおりになったことになります。
ここで奇妙に思うのは、「小杉による偽作」ということが、三木家当主の自首から始まっていることです。
三木家はもともとは、川田の種穂忌部神社の信者でした。その点では、山崎とも貞光とも関わりがない立場だったはずです。そのため紛争初期には、自分の家にあった三木家文書を小杉に見せたのでしょう。そういう意味では、当初は山崎側に立っていたことがうかがえます。それが、途中から「小杉による偽作」を主張するようになります。ここからは三木家当主が、山崎側から貞光側に立場を変えたことがうかがえます。その詳しい経緯は分かりませんが、地域間の紛争に巻きこまれた結果の行動と研究者は推測します。これらの動きからも明治の紛争は、18世紀にの藩政時代に起こっていた忌部神社本社論争の再燃版で、同じく地域間の紛争に、小杉も三木家当主も巻き込まれた被害者と云えるのかも知れません。
それでは、三木家文書の「山崎の契約書」は、貞光側が訴えたように「小杉による偽造文書」だったのでしょうか?
研究者は、幕末の池辺真榛が阿波の古文書を編集した『阿波国古文書集』のなかに、三木家の山崎の契約書が収められていることを指摘します。つまり、小杉が関わる以前から、この文書はすでに存在したのです。その点で小杉は、不当な言いがかりをつけられたことになります。裁判所の判断は、正しかったようです。
忌部神社所在地地論争の問題点を、研究者は次のように整理しています。
①江戸時代の所在地論争の中では、古代の郷は条里制が施行された口分田のある平野地帯だけに設定されたもので、山間地帯にはなかったことが前提条件となっていた。②それを小杉は無視して忌部郷を山間部にあると考えた。③それは三木家文書の「山崎の市に集まって評議を開くこと」という内容が大きな決め手となった④貞光側の「貞光はかっては麻植郡であった」という論は無理筋であり、忌部神社が山間部にあったという議論も成りたつ論ではない。
明治の紛争終結以後についの状況と問題点を見ておきましょう。
貞光説は内紛で忌部社を迎え入れず事が出来ず、貞光から一時は姿を消してしまいます。ところが偽作とされた「山崎の契約書」は、脚光をあびて注目文書となり、偽作か本物なのかの論議が止まったまま放置され、いつのまにか「山崎=忌部郷・忌部神社」を証明する説として定着するようになります。
山崎忌部神社 右の石柱には「式内大社 忌部神社正蹟」と刻まれている
山崎忌部神社の説明版
山崎忌部神社の説明版には、次のように記されていました。その正蹟(所在地)については、神社間に数々争いやもめごともあったが、忌部神社正蹟考の研究資料に基づく各方面からの考察に依って見ても忌部神社の正蹟は山崎の地であることはまず正しいと考えられる。
こうして県史・市町村史では無条件で小杉の「忌部社=山崎説」が採用され、それが拡がっていきます。これを疑う議論はほとんどされていないようです。それに対して、研究者は次のような違和感を表明します。
ひとつは天皇の即位にかかわる麁服(荒妙)貢進です。
麁服は和紙の原料と同じ格から作り出される布で、古代忌部氏がその職掌として作成していたとされます。しかし、現在麁服貢進といわれているものは18世紀になって、川田の種穂社を通して三木家作ったものを白川家に送っていることがきっかけになったものです。送っていた種穂社は、白川神道に属していました。近世の神道には吉田と白川という大きな流れがありますが、白川家は大嘗祭など朝廷の儀式を司る家でした。そこに三木家の側がその先祖が古代忌部の系譜を引いているとして、布を送っていたことにはじまります。こうしてみると今の大嘗祭の麁服貢進は、江戸時代になって川田の種穂社を舞台に作りだされたものということが分かります。古代のものとは、まったく関係がないものだと研究者は指摘します。これが、明治になってから川田の種穂社から山崎の神社でおこなわれたものに「接木」されます。明治の論争で出された小杉説「忌部神社=山崎説」にもとづいて、20世紀になって新しく語られ始めたものなのです。つまり「忌部神社=山崎説」も改めて検討してみる必要があるというのが研究者の立場です。
山崎忌部神社の麁服祈念碑
「忌部神社=山崎説」の小杉説について、最近あらためて問い直されているのが先ほど見た「山崎の契約書」です。
この文書が小杉が偽作したものではなく、江戸時代から三木文書のなかにあったことは先ほど見ました。従来は、最後の部分に署名している13人は「御殿人」集団とされ、彼らを麁服貢進の担当者としてきました。しかし、これに対しては最近になって新たな説が提出されています。三木家当主の三木貞太郎が明治2年(1870)5月1日に書いた「乍恐奉上覚」(徳島県立博物館蔵。名西郡大粟山人菜家旧蔵文書中の「古文書綴」収))は、次のように記されています。
「御衣御殿人」という称号で忌部神孫として荒妙貢進を中古以来してきているが、新政府がその称号を認めるなら今後も麻・苧を献上したい。
ここからは、「御衣御殿人」という集団称号は18世紀後期以後三木本家を中心とした三木村和紙の生産・販売をおこなう集団であったこと、川田の種穂神社の講集団の一つとして維新に至るまで活動していたことが分かります。つまり 「御衣御殿人」は、古代の麁服貢進集団ではなく、近世の和紙の生産ギルド的集団だったことになります。そうすると、山崎の契約文書に出てくる「御衣御殿人」の実態は、三木村の近世和紙製造集団を古代にスライドさせた偽作という疑念がでてきます。さらに契約状には、この御殿人集団は、年二回山崎で市のたつ日に「寄合」を開くとありますが、その場所が山崎王子神社で開くとは書いてません。
以上の情報を並べて考えて見ると、次のような事が見えて来ます。
①麻植郡山間部の和紙は18世紀以後、山崎に集められ、そこで藩の検査をうけた上で販売されていたこと
②御殿人の集団の実態は和紙にかかわり山崎の市で活動する三木家を中心とする和紙の生産・販売にかかわる集団であり、近世になって作られた集団であること。
18世紀末の三木家の分家で庄屋武之丞は、三木家本家救済のために、それまでの三木家文書に新偽作文書をつけ加えて三木家文書を再編成し、それにより三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明しようとしていたことは前回お話ししました。この契約状も、この御殿人集団が三木家と同じく南北朝期以来の伝統をもつ集団であることをしめすために、その一環として武之丞のもとで偽作されたものという説になります。つまり、「山崎契約状」は小杉が明治に偽作したものではありませんが、それ以前の江戸時代に作られた偽作の中世文書ということになます。それが後になっても偽作であると見抜けないまま今に至っていたと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事
コメント