稲作が行われた弥生中期の讃岐では、サヌカイト制の石包丁や石斧が使われています。
この「製品(商品)」が、どこで採石され、どのように加工され、どんなルートで流通していたのでしょうか。今回は弥生時代中期のサヌカイト制石器の加工・流通を見ていくことにします。テキストは、「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
です。
この「製品(商品)」が、どこで採石され、どのように加工され、どんなルートで流通していたのでしょうか。今回は弥生時代中期のサヌカイト制石器の加工・流通を見ていくことにします。テキストは、「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
です。
3万年前から1万年前までの旧石器時代には、サヌカイト製の石器が備讃瀬戸で盛んに使われていました。それは瀬戸大橋建設に伴って、島々の頂上が多数発掘調査され、そこから大量の石器や破片が出てきたことから分かります。与島西方遺跡では約13万点,羽佐島遺跡では約35万点を数える膨大な数に及び、全体の98%近くがサヌカイトを材料にするものでした。サヌカイトの供給地のひとつが坂出市の金山です。
金山北麓にはいまでも大量の金山型剥片が散らばっているようです。
香川大学経済学部 丹羽祐一研究室金山北麓にはいまでも大量の金山型剥片が散らばっているようです。
金山遺跡北1地点の発掘調査には、金山型剥片の堆積が報告されています。他の遺跡から金山型剥片が出てくるようになるのは弥生時代中期前葉になってからで、それが見られなくなるのが中期後葉です。石器から鉄への転換期になります。
石器生産工程
この時期の石器生産の特徴は、石核、そして石核から剥片の製作で石器生産が終わっていることです。
この剥片から打製石包丁が作られたと考えられますが、金山では石器成品までは生産していないことになります。搬出された剥片は、別の「加工地」で成品に仕上げられたようです。ここから研究者は次のように推測します。
①当時の金山での石器生産の中で、石材、石核は流通対象でなかった②弥生時代中期には、金山の石器石材(サヌカイト)が特定の集団に独占・専業化されるようになったことを示す
これは、サヌカイトを産出する奈良県・二上山でも、同じような状況だったことが報告されています。二上山では石剣の生産が盛んでしたが、その素材となるサヌカイト石材、石核が搬出されることはほとんどありません。石剣は武器であり、石材はもちろん、石剣完成までの生産過程そのものが特定集団によって厳重に管理されていたと研究者は考えています。サヌカイトが当時の戦略素材のひとつだったことを押さえておきます。
金山産サヌカイト
金山産サヌカイト
金山南側斜面の長者原遺跡からは、中期後葉の竪穴建物1棟が発掘されていて、これ以外にも数棟あったことが推測できます。ここが生活拠点だったようです。同時に長者原遺跡からは、金山型剥片剥離技術で作られた素材と石庖丁の完成品が出土しています。ここからは、次のような事が見えて来ます。
① 金山遺跡北1地点がサヌカイト素材の採石地②長者原遺跡が加工生産地であり、生活拠点
旧石器時代は、石材を手に入れると、自分たちで石器を制作し、それを自分で使う社会でした。石器を使う人達が、自分の石器を作っていたのです。ところが、弥生時代中期の金山では製品を作っていないのです。素材を提供しているのです。ここからは金山の役割は、採石と一次加工と、素材を流通ルートに載せることだったようです。それが弥生時代の中期以後には、「剥片」まで作りだすようになります。
それで、この剥片とは何なのでしょうか?
ところが、弥生時代の中期になると、金山でも剥片までを作るようになります。しかもその剥片が、金山独自の技術で作られます。弥生時代中頃になると、石器を作る専業集団が生まれたと研究者は考えているようです。
それでは、金山で採集されたサヌカイト素材や一次加工品・完成品は、どこに運ばれたのでしょうか?周囲で弥生時代中期の金山サヌカイト製石器がでてくる遺跡(集落)を地図上に示したものが次の地図です。
金山産サヌカイト石器出土の川津・坂本集落
川津遺跡は金山西方にあり、瀬戸大橋架橋の際の坂出IC工事のために、広範囲にわたって発掘が行われ、弥生から中世にかけて連続的に大集落跡があったことが分かりました。この中の弥生中期の居住地とサヌカイトの関係を研究者は次のように記します。
金山産サヌカイト石器出土の川津・坂本集落
川津遺跡は金山西方にあり、瀬戸大橋架橋の際の坂出IC工事のために、広範囲にわたって発掘が行われ、弥生から中世にかけて連続的に大集落跡があったことが分かりました。この中の弥生中期の居住地とサヌカイトの関係を研究者は次のように記します。
①の一ノ又遺跡からは、低地に囲まれた微高地上に弥生中期中葉の竪穴建物2棟と掘立柱建物1棟とともに、多量のサヌカイト製剥片と石器が出土②の東坂元北岡遺跡からも、中期中葉の土器と一緒に多量のサヌカイト製剥片を中心とした石器が出土
③の川津東山田遺跡からも、中期中葉とみられる土器と一緒に、サヌカイト製石庖丁などの石器が出土
④の東坂元三ノ池遺跡は、中期様式の土器とともにサヌカイト製石庖丁などが少量出土
ここからは飯野山の東山麓・大束川沿いの川津や坂本には、石工加工集団がいたことがうかがえます。これらのサヌカイトの石器工房は、金山からの素材提供を受けて
「小規模のグループが集落を形成して、板状剥片から石庖丁の完成品までの生産をおこない、他集落に搬出していた」
と研究者は考えています。川津・坂本は、サヌカイトの2次加工工房であり、流通中継地であったとしておきます。 それでは川津・坂本で再加工された石包丁や石器は、どこに運ばれたのでしょうか。
その候補地のひとつである善通寺の旧練兵場遺跡を見ていくことにします。
善通寺の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡は、善通寺の「おとなとこどもの病院 + 農事試験場」の範囲で吉野ヶ里遺跡よりも広い「都市型遺跡」です。丸亀平野西部の弘田川や金倉川の扇状地に位置し湧き水が豊富なエリアです。幾筋にも分かれて流れる川筋の中の微高地に弥生時代の遺構が広がります。旧練兵場遺跡で集住化が始まるのは弥生時代中期中葉で、以後、古墳時代前期前半まで集住は続きます。その中で、もっとも集落が大規模化、密集化するのは弥生時代後期前葉です。
漢書地理志野中に
善通寺の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡は、善通寺の「おとなとこどもの病院 + 農事試験場」の範囲で吉野ヶ里遺跡よりも広い「都市型遺跡」です。丸亀平野西部の弘田川や金倉川の扇状地に位置し湧き水が豊富なエリアです。幾筋にも分かれて流れる川筋の中の微高地に弥生時代の遺構が広がります。旧練兵場遺跡で集住化が始まるのは弥生時代中期中葉で、以後、古墳時代前期前半まで集住は続きます。その中で、もっとも集落が大規模化、密集化するのは弥生時代後期前葉です。
漢書地理志野中に
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」
とありますが、百余国のひとつが旧練兵場遺跡を中心とする「善通寺王国」だと研究者は考えています。
旧練兵場遺跡の想像図
調査報告書からは、次のように記されています。①中期中葉~後葉にはいくつかに居住域が分かれていること、②特に西部の一画(現病院エリア)では居住域が集中していること③この時期の旧練兵場遺跡は通常の集落とは異なり、大規模集落であったこと
大規模集落で「都市型遺跡」でもあった旧練兵場遺跡は、吉備や北九州などから持ち込まれた土器が数多くみつかっています。これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
吉備や北九州から旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
旧練兵場遺跡について、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。だとすれば金山産サヌカイトが石器や土器の「大消費地」でもあり、第2的な通センターでもあったことが予想できます。
旧練兵場遺跡から出土する石器の特徴は、素材はサヌカイトで、製法はすべて両極打法剥片で作られていることです。例えば、中期中葉~後葉の自然河川からはサヌカイト製の大型スクレイパーが出土しています。
サヌカイト製の大型スクレイパー(旧練兵場遺跡)
この大型スクレイパーは、剥離面末端に微細な剥離とはっきりと摩耗痕が残っているので、イネ科植物に対して実際に「石包丁」として使用されたことがうかがえます。これは20cmを超えるサヌカイトの大型剥が旧練兵場遺跡に「製品=商品」として持ち込まれていたことを示します。 つまり、旧練兵場遺跡は金山産サヌカイト製石庖丁などの「消費地」だったことになります。
吉備や北九州から旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
旧練兵場遺跡について、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。だとすれば金山産サヌカイトが石器や土器の「大消費地」でもあり、第2的な通センターでもあったことが予想できます。
旧練兵場遺跡から出土する石器の特徴は、素材はサヌカイトで、製法はすべて両極打法剥片で作られていることです。例えば、中期中葉~後葉の自然河川からはサヌカイト製の大型スクレイパーが出土しています。
サヌカイト製の大型スクレイパー(旧練兵場遺跡)
この大型スクレイパーは、剥離面末端に微細な剥離とはっきりと摩耗痕が残っているので、イネ科植物に対して実際に「石包丁」として使用されたことがうかがえます。これは20cmを超えるサヌカイトの大型剥が旧練兵場遺跡に「製品=商品」として持ち込まれていたことを示します。 つまり、旧練兵場遺跡は金山産サヌカイト製石庖丁などの「消費地」だったことになります。
木材を伐採するための石斧は、旧練兵場遺跡からは3本出てきています。ところが、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことがうかがえます。同時に、旧練兵場遺跡周辺は、石斧の有力な「消費地」であったことを示しています。
イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。
大型スクレイパーなどは欠損後には、分割されて両極打法の石核に再利用された可能性はあります。しかし、「剥片のほとんどが両極打法剥片であること」 + 「5cm未満の石核に両極打法に伴う石核が目立つこと」から「旧練兵場遺跡は石器消費地」と研究者は考えています。旧練兵場遺跡では、サヌカイトの大型剥片を再分割して周辺集落に提供している可能性はあるものの、直接打法などを駆使して石庖丁やその素材となる剥片の生産を行って周囲に提供していた様子は見えてきません。以上からは、「旧練兵場遺跡は、サヌカイトの生産地となり得ていない」と研究者は評します。あくまで消費地だったようです。
瀬戸内地方の弥生時代中期中葉~後葉の石器の生産、流通と集落について研究者は次のような概念図を提示します。
ここには次のようなことが示されています
①金山産サヌカイト製石器には、生産地のほかに加工地や流通中継地があったこと
①金山産サヌカイト製石器には、生産地のほかに加工地や流通中継地があったこと
②いろいろな集団・集落が石器の流通に関与していること
③旧練兵場遺跡など大規模集落は、特殊大型石器などの流通センターの役割を果たしていた
弥生中期の金山産サヌカイトで作られた石器の生産・加工・流通をまとめておきます。
①金山北斜面では、弥生初期になっても活発なサヌカイトが採取された
②採取されたサヌカイトは金山南斜面の長者原遺跡に集められ、一次加工がおこなわれた。
③採取・一次加工に関わった集団は、独占的に金山での採石権を持っていた。その背後には、有力者の管理・保護がうかがえる。
④その後、金山産サヌカイトは飯野山東麓の川津や坂本の小集落に運ばれ、2次加工が行われた。
⑤川津・坂本で再加工され製品となった石器は、周辺に提供されると同時に瀬戸内海交易ルートに乗って各地に提供された。
⑥同時に、丸亀平野の善通寺王国(旧練兵場遺跡)の交易センターにも提供された。
⑦流通における専業集団の存在が、金山産サヌカイト製石器・石材分布の広域性の要因と研究者は考えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
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②採取されたサヌカイトは金山南斜面の長者原遺跡に集められ、一次加工がおこなわれた。
③採取・一次加工に関わった集団は、独占的に金山での採石権を持っていた。その背後には、有力者の管理・保護がうかがえる。
④その後、金山産サヌカイトは飯野山東麓の川津や坂本の小集落に運ばれ、2次加工が行われた。
⑤川津・坂本で再加工され製品となった石器は、周辺に提供されると同時に瀬戸内海交易ルートに乗って各地に提供された。
⑥同時に、丸亀平野の善通寺王国(旧練兵場遺跡)の交易センターにも提供された。
⑦流通における専業集団の存在が、金山産サヌカイト製石器・石材分布の広域性の要因と研究者は考えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
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