今回は奈良時代の同時代史料から讃岐綾氏について、何が見えてくるのかを追ってみようと思います。
テキストは「渡部明夫 考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年 」です。
讃岐綾氏が文献に登場するのは「続日本紀」の延暦10(791)年9月20日条で、次のように記されています。
「讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後O至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三此之籍。並記朝臣。而養老宍五年。造籍之曰、遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請捺三此籍及菌位記。蒙賜朝臣、之姓。許之。」
意訳変換しておくと
讃岐国阿野郡の豪族であった綾公菅麻呂らが朝臣の姓を賜わりたいと次のように願いでた。自分たちの祖先は、庚午年籍が作られた天智9(670)年の時には朝臣の姓を持っておらず、文武3(703)年になってはじめて朝臣の姓を賜った。ところが養老五(721)年の戸籍改製の際、庚午年籍に拠って、朝臣が削られたため、一族は嘆き悲しんでいる。そこで再び朝臣の姓を願い出た。この申請を受けて許可した。
この申請が認められ他のは、平城京から長岡京に遷都して8年目にあたる791年のことで、空海が大学をドロップアウトして山林修行中だった時期になります。ここに登場するの阿野郡の豪族・綾公菅麻呂については、これ以外のことは分かりません。ただ、彼の位階は「正六位上」であることは分かります。これを研究者は、讃岐にやってきていた国司と比較します。
①延暦9年7月24日に讃岐守に任じられた宗形王は従五位上②延暦8(789)年2月4日に讃岐守に任ぜられた百済王教徳が従五位下
ちなみに、「続日本紀」には奈良時代の讃岐守について12例の任命記事があります。そこで任命されているのは、従三位から従五位下までの貴族です。ここからは讃岐守は、従五位までの役職だったことがうかがえます。ちなみに、讃岐介の任命記事は13例あり、従五位下の役職だったようです。 綾公菅麻呂は「正六位上」でしたから、守や介に続くNO3の位階を持っていたことになります。
次に、地元の有力者と比較してみましょう。奈良時代の讃岐の郡司で、同時代史料にでてくるものは6人です。
「東寺百合文書」の山田郡司牒の天平宝字7(763)年10月29日付の讃岐国山田郡にあった川原寺の寺田検出には、讃岐の当時の郡長の名前と官位が次のように記されています。
①「復擬主政大初位上 秦公大成」②「大領外正八位上 綾公人足」③「少領従八位上 凡□」④「主政従八位下 佐伯」⑤「□□上 秦公大成」⑥「□□外少初位□秦」、「□□下秦公□□」
復元しておくと
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
⑤の「□□上秦公大成」は「復擬主政大初位上 秦公大成」
⑥の「二外少初位口秦」は「主帳外少初位下 秦」と復元されています。
ここには秦氏や綾氏(阿野郡)・佐伯(多度郡)・凡直などの馴染みの名前が出てきます。彼らの官位を見ると、「外正八位の上か下」であったことが分かります。こうして見ると、菅麻呂の位階は「正六位上」ですから讃岐では異例の高さです。
空海を生み出した多度郡司の佐伯直氏と比べて見ましょう。
空海の戸長であった道長が「正六位下」です。空海の兄弟や甥たちよりも高い官位を綾公菅麻呂は持っていたことが分かります。つまり、讃岐の豪族の中ではNO1位階保持者だったことになります。全国的に見ても、奈良時代の郡司の官位は、正六位上が最高であったようです。以上から綾公菅麻呂は、讃岐守には及ばないものの、讃岐介と同格か、それに次ぐ位階をもち、他の郡司よりもはるかに高く、讃岐では最有力な人物であったとことを押さえておきます。
「続日本紀」には菅麻呂の官職名が記されていないので、どこで・どんな役職に就いていたかは分かりません。
上京して京で生活していたことも考えられます。もし讃岐にいたとしても、『続日本紀』の記載からすると、延暦10(791)年9月には、国府の主要官職や郡司の職にはついていなかったと研究者は考えています。
ちなみに、讃岐で最も高い位階を得ているのは、三野郡出身の丸部(わにべ)明麻呂で従四位上です。
平安時代の初め頃の「続日本後紀」嘉祥2(849)年10月丁亥朔条には、彼が18歳の時に都に入り、功績を認められて三野郡の大領に任じられたとあります。丸部氏は、以前にお話したように壬申の乱で功績を挙げ、その後は三野の宗吉に最先端の瓦工場を誘致して、藤原京に瓦を提供したとされる一族とされます。その功績も合って、中央で官人として従四位上を手に入れたのかもしれません。
綾氏についても、中央で活躍する人物が次のように見えます。
A 宝亀3(772)年10月8日付「造峡所造峡注文」の東大寺写経所造紋所の内竪大初位上綾君船守B 嘉祥2(849)年2月23日には内膳掌膳外記位下綾公姑継、主計少属従八位上綾公武主等が本居を改めて左京六条三坊に貫附記事。
ここから、綾氏の中には讃岐を離れ、中央で活躍する者もいたことが分かります。空海の弟や甥たちも中央で活躍し、改姓を機会に本貫地も平安京に移したことは以前にお話ししました。
これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
①承和3(836)年に寒川郡の讃岐公永直が右京三条二坊に、②山田郡の讃岐公全雄らが右京三条二坊に、③多度郡の佐伯直真継・長人が左京六条二坊に④嘉祥3(850)年に佐伯直正雄が左京職⑤貞観3(861)年に佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂らが左京職⑥貞観4(862)年に刈田郡の刈田首安雄・氏雄・今雄が左京職に⑦貞観5(863)年に、多度郡の刑部造真鯨らが左京職⑧貞観15(873)年に三木郡の桜井田部連貞・貞世が右京六条一坊⑨三野郡の桜井田部連豊貞が右京六条一坊に⑩元慶元(877)年に香川公直宗・直本が左京六条に⑪寒川郡の矢田部造利大が山城国愛宕郡⑫仁和元(885)年には几直春宗等男女9人が左京三条口坊に本貫移動
このように9世紀になると、綾氏や佐伯直など讃岐の豪族の中には、改姓申請とともに戸籍を中央に移す者が現れるようになります。その背景には、遙任国司制によって郡司の役職に「中間搾取のうまみ」がなくなったことがあります。この時代の地方貴族は生き残りのために、改姓して本願を京に移し、中央の貴族の一端に加わろうとします。この流れの中で多くの古代豪族が衰退し、姿を消して行きます。
綾氏や佐伯直氏などの讃岐の豪族が本貫を中央へ移すのは、平安時代になってからです。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。
このことを裏付けるのが「日本書紀」天武天皇13(乙酉、685)年11月戊申朔条の「(前略)車持君・綾君・下道君(中略)、凡五十二氏、賜姓日朝臣」の記事です。これは天武朝の八色の姓の制定に際し、綾君など52氏に朝臣の姓を与えたものです。「日本書紀」には綾君の住居地等を記していませんが、綾君を名のる古代豪族は讃岐以外にはいないので讃岐国阿野郡の綾氏と研究者は考えています。
この時に朝臣の姓を賜った52氏の中で、畿内やその周辺(近江・紀伊・伊賀)を除く地方に出自をもつ豪族は、綾君を含めて、上毛野君(上野)・下毛野君(下野)・胸形君(筑前)・下道臣(備中)・笠臣(備中)のわずか6氏です。そして、いずれもが有力な地方豪族なので、綾君が本拠地で大きな勢力を持つと共に、中央でも重視された存在だったことがうかがえます。「日本書紀」と「続日本紀」の内容は、よく似た内容が記されているので、7世紀後半から8世紀にかけて讃岐国阿野郡で、綾氏が大きな力をもっていたことが裏付けられます。
綾氏は阿野郡だけでなく、山田郡や香川郡にも一族がいたようです。これについては、また別の機会に見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
渡部 明夫 考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年 」
関連記事
讃岐の古代豪族NO10 空海を産んだ佐伯氏とは、どんな一族だったのか?
関連記事
コメント