空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社