伏見大社(1897年)
伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。
風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。
意訳変換しておくと
風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。
ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った
「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。
また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説
また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。
宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。⑦ 折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「科学的思考」による終末としての死ではないようです。再生のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからです。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。
稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」
鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。
稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。
「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」
稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。
記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。
百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」
これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
コメント