白山開山者とされる泰澄については、信頼できる基本的な史料が少なく架空の人物であるという説もあるようです。そのような中で白山神社のHPには、泰澄のことが次のように記されています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。霊亀2年(716)、泰澄は夢で虚空から現われた女神に「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。
ここには泰澄が秦氏出身であることは、何も触れられいません。『泰澄和尚伝記』には、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とあります。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記します。
越前国足羽南郡阿佐宇津渡守 為泰角於父生古志路行者秦泰澄大徳
意訳変換しておくと
泰澄の父は越前国足羽南郡阿佐宇津の渡守で泰角於である。 古志路行者の秦泰澄大徳
ここからは泰澄の父が阿佐宇津(麻生津)の渡守(津守)で、泰澄にも秦の姓が付けられています。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。
麻生津が文献に登場するのは『和名類聚抄』で、「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、『延喜式』巻第28の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」と記します。津という表記と周囲に浅水川があるので河川交通の要所で、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことが分かります。日本海交易の受口として、朝鮮半島などからもさまざまな人とモノが行き交う所であったことがうかがえます。天台宗僧の光宗の著した『渓嵐拾葉集』(正和3年(1314)成立)にも「越州浅津船渡子」と記します。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域性から来るものなのでしょう。同時に、秦氏は瀬戸内海でも海運業に携わるものが多かったことは以前にお話ししました。日本海交易を通じて、広いネットワークをもっていたことが考えられます。
『元亨釈書』(巻十五、方応の部)には、泰澄の母伊野は「白玉」が懐に入るのを夢に見て泰澄を身ごもったと記します。
それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか?
天平神護1年(766)10月の『越前日司解』に、次の氏名が見えます。泰澄の生誕地とされる麻生津の地には、今市岩畑遺跡(福井市今市町)があります。
発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていました。研究者が注目するのは「大徳」と記された墨書土器です。これは8世紀のもので、越前町の佐々生窯跡の丹生窯産とされています。大いなる「徳」とすれば、泰澄は「越の大徳」とも称されていました。泰澄の生まれた伝承地で、この土器が出てきたことに意味があります。
これは朝鮮半島の神話にもよく出てくるパターンだと研究者は指摘します。加羅の皇子・角鹿阿羅斯等(つぬがあらしひと)の妻はもともと白石で、新羅の王子天日矛の妻は赤玉でした。白玉を懐中にして妊娠した伊野は、白石・赤玉から美女になったヒメコソ神と共通します。加羅・新羅の始祖王の卵生伝承の卵が、白玉になったとあります。「白玉伝説」を持つ泰澄が秦氏出身であることがますます深まります。
それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか?
足羽郷 秦文鷹秦荒海・秦文、家郷 秦前田麿、前多鷹(前田麿の子)・秦安倍、利刈郷 秦井出月魔伊濃郷 秦八千麻呂
こうしてみると、足羽郡には秦氏一族がいたことが分かります。泰澄が秦角於の子であってもおかしくないようです。
泰澄は丹生郡の越知峯に籠って修行したとされます。今度は丹生郡を見ておきましょう。
『越前国司解』には、丹生郡人として泰嶋圭、丹生郡弥太郷に秦得麿の名があります。泰澄の父といわれる茶角於は、阿佐宇津の渡守(津守)ですが、敦賀郡の津守郷には秦下子公麿がいます。『日本古代人名辞典』(第5巻)は、8世紀の越前の秦氏として、秦16人、秦人部2人をあげています。この地域には秦氏の一族が勢力を持っていたことが分かります。
越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。
泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。
八坂神社
越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。
泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。
京都の木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は木嶋神社(このしまじんじゃ)」や「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれ、古くから祈雨の神として信仰された神社です。境内には珍しい三柱鳥居があることで知られています。この神社の愛宕山は、秦氏の山岳信仰の聖山です。愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中に役小角と雲遍上人(泰澄)が愛宕山に登り、山嶺を開き、朝日峯に神社を造立したのにはじまると記します。ここに出てくる「予云遍上人」は泰澄のことで、愛宕山も「白山」とも呼ばれます。ここからは山城国の泰氏の本拠地の「白山(愛宕山)」の開山も泰澄とされています。「泰澄=秦氏出身」はますます強まります。
今度は、白山の三つの山(御前峰。大己貴岳・別山)を見ておきましょう。
御前峰に白山妙理大菩薩が鎮座したために、それまでの御前峰の地主神は別山に移ったという伝承があります。これについて、水谷慶一は次のように記します。
「『白山』を現今の朝鮮語の発音でよめば「ペッサン」の声になるが、これが案外、『別山』の名称の起りではなかろうか。朝鮮語では濁音と半濁音の区別がないので、ペッサンはベツサンでもいい。
ここからは次のようなストーリーが考えられます。
①古墳時代に、白山は「ペッサン」と呼ばれた
②奈良時代に仏教が入るとベッサン(白山)神が最高峰の御前峰を仏教系の白山妙理大菩薩に明け渡して鎮座の場所を移した。
③その際に、名称も共に移動して、『別山』と称するようになった
④『泰澄和尚伝』が別山を「小白山」と書いていることがそれを裏付けらる。
朝鮮には、儒教式祭祀以外に、巫女が主催する別神クッ・都堂クッといわれる部落祭があります。
クッは、儒教の祭に対してシャーマニズム、巫式の祭で、古い型とされます。このクッを、江原道・慶尚道などの日本海側の地域で、特に「別神クッ」「別神祭」と呼んでいるようです。この地域は「狛」とされた地で、日本海を通じて、加賀白山につながります。「別山=白山」とすれば、「別神=白神」となります。
別神祭は、3年か5年ないし10年など周年ごとに営まれる盛大な祭で、この祭には仮面劇がおこなわれます。別神祭の仮面劇には、「死と再生」の場面が含まれていると研究者は指摘します。こうしてみてくると、白山信仰も死と再生の信仰なので、両者がつながります。
白山の別山を小白山と呼ぶのは、大(太)白山に対しての表現です。
朝鮮の太白山祠について、『東国興地勝覧』(巻四十四。三防祠廟)は、次のように記します。
「太白山祠 在山頂 俗称天王堂」、「春秋祀之」
『虚白堂集』(巻11)には、太白山祠の神は4月8日に村の城陛(部落の聖域)に降臨し、村に留まって村人から旗施鼓笛の盛大な迎接を受け、5月5日に山祠に戻ると記します。4月8日に山の神が里に降りる例は、日本各地にも見られます。ただ、日本の山の神が山へ戻るのは秋です。その点が朝鮮半島とは異なるようです。ただ、太白山神は、普通の山の神ではなく、恐ろしい神のようです。「鬼涯」(『成宗実録』巻236)には次のように記します。
「吉凶立応 前有太守死者数人 皆曰 白頭翁為祟 人心尤畏忌 或曰 夢見白頭者 皆死」(『林下筆記』巻十六)
意訳変換しておくと
「この山の祟りで太守が数人亡くなった。そこで皆が云うには白頭山の祟りであると。人々はこれを非常に怖れた。また、白頭山の夢を見た者は皆死すると」
ここからは太白山神が鬼神・白頭翁と化して崇る神であったことが分かります。これは白山神が陰神、崇神といわれるのと共通しています。このような朝鮮半島の祭祀・信仰は、日本列島と無関係ではありません。
朝鮮半島から日本に入って来た信仰のひとつに韓神(カラカミ)信仰があります。
浅香年木は「韓神(からのかみ)信仰」の越前への広がりについて、次のように述べています。
韓神信仰と申しますのは『日本書紀』の皇極天皇元年(642)条に、「村々の祝(ほふり)の教えのままに、或いは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る」という表現で登場する信仰です。(中略)
この韓神信仰で、注目したいのは分布の特異性にあります。厳しい抑圧の対象とされておりました韓神信仰は、もとより広い範囲に定着していたはずでありますが、延暦十年(791)の禁令が出されている地域は、伊勢・尾張・近江・美濃・紀伊若狭・越前の七カ国、だいたいお分かりと思いますが、紀伊半島から、中部地方の西側を廻って、越前までです。いまの石川県の辺りまでの範囲に相当しますが、この七カ国を対象に特に禁制が強化されております。さらに10年後の延暦20年(801)には、 この七カ国のなかでも、特に北陸道のみに限定して、国家権力が厳しい弾圧令を試みております。ここからは北陸道の、特にこの越前国やその周辺地域において、韓神信仰が広く信仰されていたというふうに理解されるのであります」
ここからは、次のような事が読み取れます。
①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと
「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
どうして、牛を殺していたのでしょうか?①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと
「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
『東国興地勝覧』の太白山祠の春と秋の祭の「繋牛於神坐前、狼狽不顧而走」を、『林下筆記』(巻16)は、「山下人殺食 無災謂之退牛」と記します。ここからは、もともとは牛を殺して食べていたのが禁じられたため、「繋牛於神坐前、……而走」となったようです。これは「山下人殺食……」に続いて次のように記されていることからもうかがえます。
「官荷聞之 定監考曰納於官邑人厭牛会 有山僧沖学 焚其祠 妖祠乃亡 因無献牛之事 監考亦廃」
これを金烈圭は「殺食無災」について、「食べても災がない」と読み下し、これは「たんなる食肉ではない。呪術的食肉である」として、次のように推察します。
生の牛肉を食べることによって、神に接することができると信じた事例があることから、呪術的食肉の傍証が成り立つ。牛を食べるということは、牛が象徴する生成力を所有するようになることを意味する。虎肉を食べて山にはいれば、獣や鬼神を防ぐことができるという俗信も、呪術的食肉から由来したものである。食牛は、2つの意味をもっている。
第一は、祠神に捧げられたために、祠神の力が加わった牛であるという考えである。この意味からすると、その牛は祠神と同一である。その牛肉を食べるのは、少なくともその祠神の力を分与してもらうことを意味する。第二にこの祠神は、白頭翁として象徴される恐ろしい山神である。その山神の患は、虎患であると思われる。山神に捧げられても無事な牛は、その山神に勝った牛である。したがって、その牛肉を食べることは、山神に勝つ力を所有するという意味になる。どちらの食牛の意味をとっても、呪術的食肉は、 マナ(Mana)の所有を意味している。
「牛を殺して韓神を祭るのに用いる」という『日本霊異記』の記事を、牛を生け贄とし捧げたとみる説があります。しかし、もともとは「殺食(食牛)」のためで、越前の「殺牛」も「殺食」だった研究者は判断します。この「殺食」が行われる場所は、「鬼涯」と呼ばれる太白山祠の「山下」でした。「祠神」とは、「鬼涯」の白山神のことです。こうして見ると、「殺食」が越前で盛んにおこなわれたのは、そこが白山の山下であったことが考えられます。金烈圭は「牛食」を死と再生の「生成力象徴」の儀礼とみます。白山信仰の儀礼も死と再生の儀礼ですから、両者の信仰の本質は同じです。韓神信仰と白山信仰はつながります。
大国御魂神(おおくにみたまのかみ)韓神(からのかみ)曾富理神(そほりのかみ)白日神(しらひのかみ)聖神(ひじりのかみ)
この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。
「韓神」の名を持つ神としては、『延喜式』神名帳の「宮内省に坐す神三座」に「薗神社」と共に「韓神社二座」が記されています。
秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」
平安京の韓神社二座
この神社は『江家次第』『古事談』『塵袋』『年中行事秘抄』などに、平安京以前から鎮座していたことが記されています。この神社を内裏建設の際に、別の場所に遷座させようとしたところ託宣があって、帝王の守護として留まって宮内省に鎮座したと伝わります。そして、その鎮座する大内裏は、もと秦河勝の邸宅跡の地であるというのです。ここからも、これらの神は秦氏の地主神としての性格を持つと考えられます。秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」
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