京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰