金刀比羅宮には、象頭山の美しい景観を十二の景勝に分けて描いた「象頭山十二景図」があります。
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。
④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。
④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
これを江戸に送って、江戸の奥絵師が描いたのが次の絵です。 象頭山十二景図の雲林洪鐘 狩野安信
つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
全体的に濃彩で、目に鮮やかな松樹・竹林・山肌の緑に、時折描かれる梅花の赤や桜花の白がアクセントを加えている。松樹の葉などは部分に応じて顔料の明度を変じ、筆を綱かく使って細部に至るまで丁寧に描き込まれている。
掛幅については
一方の掛幅は色彩が淡く、筆を面的に用いたグラデーションの強弱でもって各モチーフを色付かせている。本々などのモチーフの描写は図巻と比べて簡略化されており、画面の抽象度が高くなっていると言えよう
今回は、狩野安信と時信の 「象頭山十二景」に何が書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334Pです。
金光院院主の有栄が選んだ十二題は次の通りです。
⑦左右桜陣 ⑥後前竹国 ⑪群嶺松雪 ③幽軒梅月⑫箸洗清漣 ②橋廊複道 ⑧前池躍魚 ⑨雲林洪鐘⑤五百長市 ⑩裏谷遊鹿 ④石淵新浴 ①万農曲流
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、賛は林蒼峰の、画は狩野安信「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、賛は林鳳岡の、画は狩野時信
制作者のプロフィールを見ておきます。
漢詩作者の林育峰(1618~68)は林羅山の第二子で春斎と号し、幕府に仕え、寛文3年(1663)に弘文院学七の称号を賜り、父に次いで二代目大学頭に就任しています。林鳳岡(1644~1732)は、その育峰の次男で名を信篤(のぶあつ)といい、整宇とも号します。貞享4年(1687)に弘文院学士となり、のち三代目大学頭となっています。「讃州象頭山十二境」詩巻では、先の十二題のうち前半の六首を林鵞峰(林学士)が、後半の六首を林鳳岡(林整宇)が作っています。 掛幅を描いた狩野安信(1612~85)は探幽・尚信の弟で、狩野宗家貞信の養子となって狩野家の家督を継いた人物です。中橋狩野家の祖となり、寛文11年(1662)に法眼に叙せられます。掛幅のもう一人の筆者・時信(1642~78)は安信の長男で、父に画を学びます。図巻の筆者である結野常真は安信の門人で、本姓を日比氏、名を宗信といい、法橋に叙せられた三尚松藩初代御用絵師を務め、元禄十年(1697)に没しています。
それでは一枚一枚を見ていきましょう。
それでは一枚一枚を見ていきましょう。
象頭山十二景図「左右桜陣」図
[解説]
大門を入って約二町(約220mの間は、参道の左右に数十株の桜が植わり、桜馬場と称される。そこを指して「左右桜陣」と言う。春には桜が咲き誇ることから、花の名所とされる。画面には大門に続く桜馬場の景観が描かれる。安信筆の掛幅画は、常真筆の図巻からモチーフを中央にとりまとめるようにして画面全体を構成する。掛幅ではまた、画面中央の遠山の背後にさらなる逮山の稜線を薄く引いており、画面の天地が狭いという形態上の制約を持った常真筆の図巻では表現し難かった空間の奥行き=三次元性を追究している。
大門から続く桜の馬場周辺を描いたこの絵から得られる情報を挙げておきます。
①桜の馬場には、石畳も石灯籠などの石造物が何もない。これらが設置されるのは19世紀なってから。
②桜の馬場の右側には、各院の建物が並んでいる。
象頭山の山裾から郊外にかけて竹林が多く群生する様を指して「後前竹囲」と言う。 本図は象頭山麓の郊外を描いたもの。画面に見える竹林は年々減少していき、現在では本図により往時の景趣が偲ばれるのみである。
魚が遊泳する池を中心に、通用門、中間、玄関、そして表書院と奥書院といった、両書院一帯の景観が描かれている。安信筆の掛幅は、常真の図巻がわずかに示した遠山ブロックを画面上方に拡大して配し、両中空間に奥行きを創出している
「裏谷」とは現在の裏参道の道中にある千種台(ちぐさのだい)地域を指す。ここはかつて草生地や山畑であり、鹿が多数いた。 しかし、その数は減少の一途を辿り、明治期になると遂に見られなくなったという。画面には紅葉鮮やかな山道に、群れ遊ぶ三頭の鹿と帰路の樵らしき人物が描かれ、牧歌的な画趣を示す。
「群嶺」とは、象頭山の山嘴である八景山、愛宕山、天神山、祖渓、琵琶渓、金山寺山などの諸嶺を指す。画面にはこの諸嶺の裾野に沿って松樹が配され、両者は降り積もる雪により白く色づいている。これが「松雪」。この雪は、図巻では顔料を振りまいて描くことて粒子状の表現となっている。掛幅では顔料を筆で掃いて描くことで面的な表現となっている。掛幅・図巻ともに山と松樹のスケール比がやや現実にそぐわないが、これは詩題のメインモチーフのひとつである松樹を強調する意図によるもの。
象頭山の麓、市街を南北に貫流する潮川(宮川:金倉川)に架した鞘橋には屋根があり、これを指して「橋廊」と云い、また「複道」と言う。この鞘橋はもともと現在の一之橋の位置(髙松街道)にあったが、明治38年(1905)に御神事場に程遠くない現在地に移築された。また、画面に描かれた橋には橋柱が描かれ、橋梁に湾曲も見られないが、これは明治2年(1869)の改築以前の姿である、この時の改築により橋柱は取り除かれて橋は両岸からの組み出し構造となり、それゆえ湾曲も強くなった。図巻の方が描出の視点を遠くに設定して景観を放射状に広がるように描いているため、掛幅よりも広々とした視覚印象を覚える。図巻では、荷物を手に橋を往来する二人の人物が描かれている。しかし、掛幅の画面に見られる橋上の人物が何をしているのかは、一見した限りでは不明である。わずかに前傾姿勢をとっており、橋を渡って参道へと歩みを進めているようにも、水面を見つめているようにも見える これが賛の「風力推無運、始知不足舟」に対応するならば、彼は物思いに耽るうちに橋を舟になぞらえ、風の吹くままに身を任せている心地なのだろう。しかし、現実には風がいくら吹いても舟は進むことはなく、橋上の自分という現実に立ち戻るのである。
この絵図を見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に「大雨洪水、鞘橋流失」し、翌年に「材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る」とあります。ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更されたようです。
貞淳3年(1687)に再建された鞘橋 金毘羅大祭行列屏風図
この屏風図には、三連の屋根になっています。このように17世紀の金毘羅大権現の伽藍や境内の姿を描いた絵図はあまりありません。その中で「 象頭山十二景図」は、いろいろな情報を伝えてくれる絵画史料でもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334P
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