空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」