前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。
まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状
其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。
ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。
B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。
C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝) 寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。
ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」
ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。
D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。
この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。
どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。
以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。
私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。
「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ
また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。

①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵
松田壽男も次のように記します。

松田壽男も次のように記します。
空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」
例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。
意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。
「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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tono202
が
しました