なかなか行けなかった坂出の鎌田博物館に行ってきました。小さな古い博物館という先入観があったのですが、そこに展示されているものは想像以上に見応えがありました。
内間銅鐸(鎌田博物館)
まず、香川県出土の銅鐸のコレクションは充実しています。銅鐸に興味のある方は、お勧めです。また「塩の町坂出」の基礎を作った久米通賢に関する史料や工具もいいです。ワクワクする時間を送らせていただきました。さらに刊行物なども充実していて、長い時間をかけて整備されてきた歴史を感じる郷土の博物館でした。
博物館の正面に立っているのが鎌田勝太郎です。鎌田勝太郎については興味があったのですが、基本となる史料や書物に会えないでいました。そこで出会ったのがこの本です。鎌田勝太郎に関する文書目録と基本的な文書が収録され、研究者による詳細な解説もついています。この本の読書メモを載せておきます。
鎌田勝太郎は、明治維新まであと4年という幕末の1864年(文久四)年1月22日に生まれています。私は、明治に活躍した人物が、明治維新を何歳で迎えているかに興味を持っています。鎌田勝太郎は、4歳で迎えたことになります。ちなみに多度津の景山甚右衛門は1855年生で14歳です。鎌田勝太郎は景山甚右衛門の約10歳年下と言うことになります。両者は一回り年が離れていることを押さえておきます。
勝太郎が生まれたのは坂出村の醸造業だった旧家・鎌田家です。
鎌田家本家の祖父(醤油屋の主人)の宇平太は、子がなかったので、その弟・大三郎の長女・勇子を養女として迎え、その婿に羽床村(現綾川町)の庄屋・宮武才助の五男茂平を迎えまします。つまり、夫婦養子が跡を継いだことになります。その間に生まれたのが勝太郎ということになります。
ちなみに父の生家の宮武家は、反骨のジャーナリスト・宮武外骨の生家でもあります。外骨と勝太郎は、従兄弟同士(?)で、生まれも近く幼なじみであったようです。しかし、鎌田家では宮武外骨のことを毛嫌いしていたようです。これについては、面白い話があるのですがここでは素通りして、元に返ります。
ところが宮武家から迎えた父茂平が慶応元年に22歳の若さで亡くなります。
茂平の病没後、勇子は、三原正平を夫として迎え再婚し、祖父宇平太と共に鎌田家を支えます。祖父宇平太は家業の醤油の販路拡張には、ことのほか熱心だったようです。例えば鎌田家と墨書された傘をいつも店頭に用意して顧客に無料で貸して、傘が戻って来なくてもだまっていたとか、昼食時に醤油を買いに来た客には昼食の用意までしてサービスに努めたと伝えられます。目先の利益を追求するだけでなく、長い目で商売を考えていた商売人の感覚が見えてきます。
鎌田家の稼業である醤油醸造を少し見ておきましょう。 坂出では、塩の生産地で、その搬出のために港が整備されていました。その結果、塩を運んだ帰りに荷に九州などから麦が運び込まれます。ここからは「塩 + 麦」=醤油 という図式が成立します。これは小豆島の図式とよく似ています。明治20年頃までに坂出で創業するようになった醤油屋や商店を見ておきましょう。
鎌田醤油 坂出村、寛政元(1789)年11月、鎌田宇平太創業 鎌田勝太郎が家業を継いで、明治35年に鎌田商会と改称堺屋醤油 坂出付、文政2(1819)年 鎌田醤油が屋号を堺屋として操業した 清酒・食酢醸造筒井商店清水屋 西庄村、明和年間(1767~72)創業 トコロテン製造・販売。中川商店 林田村、慶応元(1865)年設立 酒類卸売り。高須商会 坂出村、明治2年創業。砂糖・小麦粉販売.野口呉服商店 坂出村(港町)、明治初年。荒井醤油醸造場 府中村、明治初年.坂出製氷株式会社 坂出村、明治2年6月、製氷業.濱田屋呉服店 坂出村、明治10年.前川商店 江尻村、明治20年創業.味噌・醤油製造.筒井蒟蒻製造所 坂出村 明治20年創業. コンニヤク製造販売.六醤油醸造店 坂出村、明治20年9月、醤油業.林田塩産株式会社 林田村、明治21年4月、製塩業掘田鉄工所 坂出村、文政12年4月、窯業用機械業
ここからは江戸時代半ばから醤油醸造など食品製造業が始まり、明治になるとさらに増えていること分かります。その中心にあったのが鎌田家だったようです。このような同業者組合を後の鎌田勝太郎はまとめていくことになります。
1871(明治4)年に、祖父、宇平太が53歳でこの世を去ります。
この時に勝太郎は8歳で、坂出小学校に入学します。この校舎は、後添えの義父・正平が校舎を寄付したと伝えられ、当時の校長は三土幸太郎(梅堂:三土忠三の養父)でした。梅堂は経学者として有名で学徳兼備の人でした。勝太郎は、ここで約5年間、梅堂の薫陶を受けます。

そんな時に少年勝太郎が目にしたのが刊行が始められた福沢諭吉の「学問ノスヽメ」でした。
その初編第1Pに掲げられていたのが『天は人の上に大をつくらず人の下に人をつくらず』の名文句です。この出合いが、大きな刺激となって勝太郎の東京遊学につながったと評伝は記します。
1878(明治11)年、勝太郎は15歳で上京して福沢諭吉の門下生となります。
当時は旧制中学も大学も整備されていない時代です。大庄屋や大商人の息子は、「東京遊学」が流行でした。1年くらい東京で生活して、漢詩や華道などの素養を身につけるのがよく行われていました。先ほど見た鎌田勝太郎の実父の実家である宮武家の長男(外骨)も東京遊学をしています。そこで手に入れた三輪自転車をお土産に持って帰り髙松の町で走らせたことを、宮武外骨は後に記しています。お坊ちゃんの「見分拡げ」的なものがあったのです。しかし、鎌田勝太郎は、福沢の門下生となることで多くのものを学んだようです。それが、新しい時代にふさわしい政治家、実業家、教育家としての基礎知識となっていったと研究者は考えています。ここでは東京遊学で、「明治の先駆者」としての精神が培われたとしておきます。
東京遊学の期限はあらかじめ1年とされていたのでしょう。その期間が終わると義父の正平の隠居に伴い、若くして家督を相続することとなります。福沢諭吉の下にいたのは、わずか1年のことになるようです。
そんな中で鎌田勝太郎が福沢諭吉の教えを受けて実行に移すのが北海道視察旅行です。
それは1880(明治13)年5月の頃です。この時期の北海道は最も過ごしやすい季節で、「鎌田勝太郎伝』には次のように記されています。
「桃李梅桜共に花咲くと云う大自然の楽園」「同行者は福江村出身の安井勇平氏(鎌田勝太郎より20才の年長)であった」「東京から帆船に乗じ、房総半島を回り、金華山を過ぎ、陸奥の東海岸を経て函館に着いた。」「函館から札幌を目指し」したが道路は「開拓使の手によって整備されていた」「翁と安井氏の二人は乗馬で行くこととして馬で旅行を続けた札幌について、「数日間研究調査を遂げた後、再び馬の背に揺られながら函館に帰り、さらに海路東京に着いた」
当時の北海道は開拓使の手により開拓が進められ、農作物では、麦、かばちや、じやがいも、とうもろこし、各種疏菜が栽培されるようになります。りんご栽培に成功し、ビール・ワインの製造も進みます。漁業では江戸時代からの場所請負制を廃止して、自由営業へ転換し海産物の取り扱い方法の改善や缶詰工場の建設も進みます。このように開拓使主導で建設された工場は、40余になります。それらは、製材、鋳造、煉瓦、製紙、馬具、家具、製粉、各種飲料、味噌、醤油、肝油、缶詰、燻製、製糸、魚粕製造、製塩などの各分野に及びました。この視察の中で、開発の進む北海道とその資源・穀物の豊富さを目の当たりにします。
その成果が「快航丸による四国と北海道との運輸交易事業を行う」事業展開にことにつながります。
快航丸は排水量300トン・2000石の積載能力を持った三本帆柱の帆船で、塩飽出身の乗組員で固められていました。積荷は、坂出で塩を積んで北海道の函館に向かい、帰路には鰊粕等の肥料を積んで坂出に帰るもので、積荷自体は江戸時代の北前船と変わっていません。しかし、航路は坂出から瀬戸内海を東に、鳴門海峡を過ぎて紀州灘を横切」り、「遠州灘を越え、紀伊沖から房総灘を過ぎ、金華山沖に出て」「津軽海峡には行って函館に到着」というコースをとっています。これは江戸時代の日本海を舞台とする北前船とは違うコースです。ここでは北海道視察旅行が、四国と北海道の運輸事業を展開するきっかけとなったことを押さえておきます。鎌田勝太郎には、行動力とチャレンジ精神があったようです。
北海道から帰った翌年には、岡山県浅口郡の大庄屋中原家の芳枝を妻に迎えます。
この時、勝太郎は17歳です。明治維新を若くして迎えた有能な若者は、先行者から道を譲られることがままあります。それまでのやり方が通じないと見た年寄りたちが早く引退し、その後を若者にまかせるというパターンです。若くして鎌田家の当主となり、妻を娶った勝太郎は塩業や醤油醸造業・水運など地場産業の発展に尽くしていきます。
この時、勝太郎は17歳です。明治維新を若くして迎えた有能な若者は、先行者から道を譲られることがままあります。それまでのやり方が通じないと見た年寄りたちが早く引退し、その後を若者にまかせるというパターンです。若くして鎌田家の当主となり、妻を娶った勝太郎は塩業や醤油醸造業・水運など地場産業の発展に尽くしていきます。
その活躍ぶりを年表化すると次のようになります
①千葉県銚子の醤油醸造業を視察して、醤油醸造の改善をはかる
②1883(明治16)年、製塩事業では、塩産合資会社を設立し社長に就任
③1890(明治23)年 宇多津塩田株式会社を創設
④1893(明治26)年 株式会社坂出銀行を設立し頭取就任
⑤1896(明治29)年 讃岐紡績株式会社を設立し社長就任
この他にも、讃岐信託株式会社社長、鎌田産業株式会社社長、坂出舎密株式会社及び宇多津化学工業株式会社社長などの多数の会社の社長や取締役として経営に当たっています。そして、1928(昭和3)年には、香川県商工連合会長に就いています。
1935年坂出駅周辺地図 坂出駅は鎌田家のすぐ側に誘致されたことがうかがえます。
教育・育英事業では、1886(明治19)年に香川県の中等教育機関として、私学済々学館を創立しています。
1935年坂出駅周辺地図 坂出駅は鎌田家のすぐ側に誘致されたことがうかがえます。
教育・育英事業では、1886(明治19)年に香川県の中等教育機関として、私学済々学館を創立しています。
1876(明治9)年に、愛媛県に合併されて、香川県はなくなります。そのため各県1校設置とされた旧制中学校は、香川県には出来ませんでした。讃岐の中学校空白状態をなんとか埋めようとしたのが、坂出での私立中等学校設立です。鎌田勝太郎らの坂出有志を中心に資金を集め、1886(明治19)年5月に塩釜神社境内の中の塩業者集会所に済々学館が設置されます。館長に就任した鎌田勝太郎は、済々学館閉館に際して述べた「開館の辞」において、当時のことを次のように述べています。
「小生はつとに当地方学事の振起せずして、もとより中等以上の教育を施すべき場所なきを憂い、 一の私立学校を起して中等の教育を施さんと思い、当地の人に対し時々学校新設のことを語りしことあり。明治十九年の春、勧業諮問会のため松山に出張せり時に、濱田企太郎氏、手紙を送り来りて学校創設のことを促せる。依りて当時の県知事、関新平氏に就きて私学建設のことを謀る。関氏大によろこび直に東京の諸学士に紹介せられたれば、小生は間もなく東京に上り、二三の学士と相談して教師を招き学則を定め、同年五月を以て済々学館を元の塩会所に開きたり」(閉館の辞一意訳)
鎌田勝太郎は、7年後に香川県立高松中学校が開校によってして済々学館が閉校するまで、館長として携わっています。済々学館については、また別の機会にお話ししたいと思います。
1901(明治34)年から2年間は香川県教育会会長もを務め、その後は長きに渡って香川県育英会理事長として育英事業を推進しています。また社会教育事業の展開のため、財団法人鎌田共済会を設立しています。その目的は、学資金貸与、学校・青年団などに研究助成金、奨励金などを贈与することにありました。その「理念」は、鎌田博物館に今も次の掲示されています。
1901(明治34)年から2年間は香川県教育会会長もを務め、その後は長きに渡って香川県育英会理事長として育英事業を推進しています。また社会教育事業の展開のため、財団法人鎌田共済会を設立しています。その目的は、学資金貸与、学校・青年団などに研究助成金、奨励金などを贈与することにありました。その「理念」は、鎌田博物館に今も次の掲示されています。
「百年の大計は人を樹うるに在りの信念は須央も息まず」
共済会は各種育英資金を提供するとともに、坂出において各種講演会を実施するなどの社会教育事業を今も続けています。
さらに、日清戦争、日露戦争を経て日本が大陸に進出していくと、拓殖開発事業も展開します。
朝鮮実業株式会社、朝鮮拓殖株式会社、朝鮮興業株式会社、満洲興業株式会社、満洲殖産株式会社の社長や重役として経営に関わるようになります。 以上見てきたように「利益追求」だけでなく、教育や人材育成・生涯教育へと広い視野を持った人物だったことが分かります。次回は、政治家としての鎌田勝太郎を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小林和幸 貴族院議員鎌田勝太郎とその資料
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鎌田勝太郎略歴(明治末まで)
万治元年(1864)1月22日 阿野郡坂出村に、父茂平・母勇子の長男として生まれる
明治 4年(1871)坂出校学校に入学
明治 9年(1876)高松の3野盤渓塾などに学ぶ
明治11年(1878)東京に遊学し福沢諭吉に学ぶ(14歳)
明治12年(1879)父の隠居で家督を継ぐ。 (15歳)
明治13年(1880)北海道視察旅行
明治14年(1881)岡山県浅日郡の大庄屋中原家の方枝を妻に迎える。(17歳)
明治16年(1883)2月、塩産合資会社社長に就任
明治19年(1886)5月、私学済々学館を創立、館長に就任(22歳)
明治22年(1889)1月、香川県会議員に当選。4月、讃岐糖業会社取締役就任(24歳).
明治23年(1890)3月、坂出町会議員に当選 .7月、宇多津塩田株式会社社長
明治25年(1892)2月、香川県会議長就任
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任.
明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任c9月、衆議院議員に当選(30歳).
明治28年(1895)2月、真宗信徒生命保険株式会社取締役に就任 3月坂出町会議員に当選
明治29年(1896)2月、株式会社京都起業銀行取締役に就任
5月、讃岐紡績株式会社々長就任 ・7月 髙松銀行取締役に就任。
5月、讃岐紡績株式会社々長就任 ・7月 髙松銀行取締役に就任。
6月10日 衆議院副議長島田二郎宛、「病気」を理由とする辞表を提出
明治30年(1897)6月 貴族院多額納税者議員互選で当選
明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任 5月讃岐貯蓄銀行監査役
明治33年(1900)7月 塩産合資会社顧問。 12月 真宗本願寺派護持会財団監事
明治34年(1901) 香川県教育会長
明治36年(1903)2月、香川県育英会理事長に就任.
明治37年(1904)6月、貴族院多額納税者議員互選て当選。
10月10日、病気を理由に貴族院議員辞職 12月25日、香川県多額納税者議員補欠選挙当選
明治38年(1905)2月、香川県教育会名誉会員 3月、坂出町会議員に当選。
8月、朝鮮実業株式会社取締役、日本赤十字社香川支部商議員を嘱託。
12月.鎌田産業株式会社々長に就任.
8月、朝鮮実業株式会社取締役、日本赤十字社香川支部商議員を嘱託。
12月.鎌田産業株式会社々長に就任.
明治39(1906)年4月、勲4等に叙し旭日小綬章を下賜。8月、朝鮮勧業株式会社相談役
11月、朝鮮拓殖株式会行取締役会長に就任,
明治40年(1907)3月、満洲興業株式会社監査役に就任、8月、東京醤油株式会社監査役
明治41年(1908)3月 朝鮮興業株式会社取締役
明治44年(1911)3月 四国水力電気株式会社監査役 坂出町会議員に当選
6月、貴族院多額納税者議員互選で当選
6月、貴族院多額納税者議員互選で当選
参考文献 小林和幸 貴族院議員鎌田勝太郎とその資料
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