瀬戸内海の赤穂市坂越の大避神社は秦河勝(かわかつ)を祀る神社です。そして、この神社の周辺や千種川流域には多くの大避神社が鎮座しています。どうしてこれだけの濃密な分布が見られるのでしょうか? それは古代以来の秦氏の活動の痕跡だと研究者は考えています。今回は、大避神社の歴史と秦氏との関係を見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏 396P」です。
まず祭神として奉られている秦河勝を押さえておきます

秦河勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
秦河勝は飛鳥時代に聖徳太子の最高のブレーンとして朝廷の財務担当責任者として活躍した人物です。彼は新羅使の導者を3回務め、『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。推古21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。その広隆寺と一体で管理されたのが山城国の大酒神社で、山城秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の拠点となります。
次に赤穂坂越の大避神社を見ておきましょう。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
③『播磨鏡』(宝暦12年(1762)成立)は、大避神社の社伝を引用し、次のように記します。
秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖酒公を祀り、社名を「大荒(さけ)」「大酒」と称したが、治暦4年(1068)に「大避」に改めた。また、山背大兄王と親しかった河勝が蘇我入鹿の嫉みを受け、ひそかにこの地に難を「避けた」ので、「大避」に改めた
この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
①山城の大洒神社は広隆寺の境内社で桂宮院(太子堂)の守護神、鎮守の性格②播磨の大避神社は、猿楽との関わりが強い
どうして、播磨の大避神社は猿楽との関係が深いのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。
(申(猿)楽の祖は秦河勝で)、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。
意訳変換しておくと
申(猿)楽の祖は秦河勝で、この河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子(聖徳太子)に仕えた。猿楽の芸を子孫に伝え、その継承跡を留めないようにと、摂津国難波の浦から、うつほ舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海を西に漕ぎ出し、播磨の国坂越の浦に着いた。浦人が舟を上げみると、かたちが人間に変わっていた。そして諸人に奇瑞をもたらしたので、神と崇められて、国は豊かになった。
金春禅竹は『明宿集』で『風姿花伝』と同じような記述をして、更に次のように記します。
坂越ノ浦二崇メ、宮造リス。次二、同国山ノ里二移シタテマツリ、宮造リヲ、タタシクシテ、西浦道フ守り給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
意訳変換しておくと
(秦河勝は)坂越の浦に社殿を建立し、次二、同国の山里に移って、宮を正式に建立した。そして、西浦道を守ったので、人々は、猿楽ノ宮とも、宿神とも、この宮を読んで崇拝した。
ここには、秦河勝が建立した神社を「猿楽ノ宮」と呼び、祭神の秦河勝を「宿神」と記します。
大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからでしょう。この猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、次のように記します。
「翁ヲ宿神卜申タテマツル」「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」
『風姿花伝』は次のように記します。
秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだ。そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの一面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になった

ここでは中世以後に「秦河勝=猿楽の祖」とされ、大酒神社が「猿楽の宮」と呼ばれるようになったことを押さえておきます。
次に播磨国の大避神社(赤穂市坂越)周辺に秦氏がいたことを史料で押さえておきます。
①延暦12 年(793)4 月 19 日付の播磨国坂越・神戸両郷解(げ)には天平勝宝 5 年(753)頃、この地に秦大炬(おおこ)なる人物がいたこと②「三代実録」の貞観6 年(864)8 月 17 日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麿が外従五位下になったこと。③赤穂郡の大領が秦造であったということが「続日本紀」にある。大領は郡の長官でもとの国造クラスで、有力な豪族が郡の大領に任ぜられるのが律令制の慣例でした。その大領が秦造になります。④「平安遺文」の11 世紀後半の東寺文書の中に、赤穂郡の大領秦為辰(はたためとき)が土地の開発領主として開墾していること⑤長和4 年(1015)11 月の国符に記された赤穂郡有年(うね)荘の文書に寄人41人の連名があり、その中に秦姓を名乗る者が 12人いること
以上から、秦河勝を氏神として祭った大避神社が鎮座する赤穂郡は秦氏の勢力範囲であったこと史料からも裏付けられます。
赤穂周辺の秦河勝を祭神とする大避神社の分祀は30社あまりあるようですが、その分布は、千種川流域の赤穂郡を中心として佐用郡・揖保郡にまで、秦河勝の伝承が伝えられています。ある研究者は、「旧時、赤穂郡内の神社の1/3は秦河勝を奉祀した大避社であった」と記します。
坂越の大避神社
坂越周辺の地で祀られる大避神社と秦氏の関係について太田亮は、次のように記します。「播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と称するも、其の発生に関して徴証乏しく、果して然りしや否や証なき能はず。赤穂郡は古代秦氏の繁栄せし地なり。貞観六年八月紀に『播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂、借りに外従五位下に叙す』と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏、系を雲上家に架して村上源氏と称せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり。秦氏の奉斎にかかる」。
『角川日本地名大辞典兵庫県』は、「氏神は大酒神社」と書き、「地名の由来は、秦酒公を祀る大酒神社にちなむと思われる。高瀬舟に従事した人たちの信仰」と記します。
現在の祭神は天照大神・春日大神・大避大神ですが、本来の祭神大避大神は先ほど見た『風姿花伝』『明宿集』には「秦河勝」と明記されていました。大避神社を氏神とする上月町大酒の人たちは、かつて「高瀬舟に従事した人々」とされていますが、彼らは渡守です。白山開基の泰澄は、渡守の秦氏だから、秦氏奉斎の大避神社を氏神とする大酒の人たちも、秦氏及び秦氏と結びつく人たちです。
もう少し周辺の大避神社を見ておきましょう。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
山中に溶滓が散在する所」があるから「銅あるいは砂鉄を産出したと伝えられることによるものか
大避神を祀る岩木・金出地以外にも、上郡町旭日には旭山(旭日)鉱山があり、金・銀の採掘をおこなっていました。このように、上郡町は金・銀・銅や砂鉄が産出地でした。岩木・金出地以外に上郡町には大避神社が、大枝新・竹万・休治にもあるので合計5社になります。これは金属の採鉱と精錬にたずさわった人たちが、大避神社を祀っていたからと研究者は考えています。
千種川上流の上月町には、大酒の大酒(避))社以外に、久埼(旧久崎村)、西大畠(旧西庄村)に大避神社が鎮座します。
この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。
この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。
中世の赤松氏の菩提寺・法雲寺の境内には赤松円心・則祐・満祐等の五輪等が残されています。上郡町の中心から国道375号線を千種川に沿って北上すると左側に広い沖積地に鎮守の森が見えきます。それが上郡町大枝新の酒神社です。
旧赤松村の岩木にも大避神社があります。
旧岩木村の大避神社
この岩木は「慶長播磨絵図」に載せられている岩木鍛冶屋村を含む旧岩木村です。岩木には良質の銅鉱山の峯尾山がありました。そこに鎮座する大避神社は鍛冶鋳物・採鉱にかかわる人たちが祀っていたのでしょう。岩木鍛冶屋村は鍛冶村とも呼ばれていたようですが、それよりも昔は鍛冶千軒ともいわれていたようです。千種の鉄山も、中世には秦氏出自ではないかといわれる赤松氏の支配下にありました。
上月町には西新宿の八幡神社も、秦河勝と誉田別命(応神天皇)を祭神にしています。誉田別命は宇佐八幡宮の祭神ですが、上月町早瀬の白山神社の祭神も誉田別命です。白山神社も宇佐八幡宮も秦氏が祭祀する神社です。上月町で、大避神社の祭神秦河勝が八幡神社でも祀られ、八幡神社の祭神が白山神社で祀られているのは、秦氏系氏族との関係なくしては考えられません。

相生市にもかつては大避神社が三社あったと伝えられます。
『角川日本地名大辞典・兵庫県』は、相生市北部から南部にかけて、「近世まで六社あった」と書いています。相生市は赤穂郡に属し、平安時代から中世にかけての八野郷・矢野荘が相生市全域とほぼ重なります。
『三代実録』の貞観六年(864)8月条に、赤穂郡大領の秦造内麻呂が従五位下に叙せられたという記事があります。『峰相記』は三濃山には、秦内麻呂が観音寺を建立したとあります。現在は元三濃山求福教寺といわれ、境内に観音堂と大避神社があります。
元三濃山求福教寺の観音堂
秦河勝が大蛇を退治したという似た伝説を伝える相生市若狭野町下上井にも、大避神社があります。この下上井の大避神社を「土田宮」というのは、土地の人たちが河勝を上段座を設けて供応したという伝説からきているようです。大避神社を氏神とする若狭野町下土井は、鎌倉時代から中世に活躍した寺田氏の本拠地です。
ここには中世矢野荘の鎮守社としてたびたび登場する大避神社が鎮座します。ここにも秦河勝の末裔の秦為辰の子孫と称する家があります。秦為辰は、11世紀に、相生市とその周辺を開発した人物で、国行の大塚と赤穂郡司を兼ねていた人物です。
①為辰の子孫で牛窓荘司であった寺田太郎人道法念は、坂越の大避宮別当神主祝師職②法念は弘安四年(1281)に山陽海路の警固に動員されており、坂越浦の水軍の長③法念の子範兼は正和三年(1313)に、長男の範長に大避宮別当神主祝師職を譲っている④秦氏の末裔の寺田氏によって世襲されていたこと。
以上からは、秦氏の末裔が中世になっても「金属精錬+海野の民としての水運・水軍」などとして活躍していたことが分かります。
赤穂市木津の大避神社
木津の地名は、その名前の通り古代に千種川河口で、材木の集散地であったことによるとされます。『角川日本地名大辞典 兵庫県』は次のように記します。「七世紀中頃、秦河勝に随従した匠(大工)たちが住みついたため、字名に大工山、通称地名に大工村・手能(手斧)村がある。(中略)通称大工村の住人大多数が領内外の寺社建築に携わる」
この地の秦の民は、上寸大工、宮大工だったようです。
赤穂市西有年にも大避神社があります。
西有年の大避神社
この有年の地も千種川に沿いにあって、有年谷回は江戸時代に高瀬舟による運漕業の拠点でした。上月町大酒の大避神社が、高瀬舟に従事していた人たちが祀っていたことからみて、有年谷回の人たちも、西有年の大避神社を奉斎していたでのでしょう。有年にも、秦河勝の末裔と称する家があります。以上述べたように、坂越の大避神社を取り巻く状況について整理要約しておきます
①鎌倉時代には、大避神社の別当神主祝師職であった秦河勝の末裔の寺田氏は、「海の民」の末裔として水軍の長として坂越浦・那波浦を本拠に、瀬戸内海の海運を握っていた。
②その時には、大避神社は海運の神だった
③千種川を上下する高瀬舟に従事する秦氏も、それぞれの居住地に海軍の神としての大避神社を祀った
④千種川とその支流で採鉱・鍛冶などにかかわる秦氏や、寺社造営にかかわる秦氏も、大避神社を信仰していた。
⑤これらは猿楽・海運・水運・採鉱・鍛冶・寺社造営などに、秦氏がかかわっていたからである。
⑦大避神社を奉斎する播磨の秦氏は、赤穂郡が本拠地として、周辺に勢力を拡大した。
最後に、広峯神社と秦氏の関係を見ておきましょう。
飾磨郡の枚野里の新羅訓村のいわれは次のように記します。
「新羅訓と号くる所以は、音、新羅の国の人、来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」
「しら」「ひら」は同義ですから「ヒラノ」も「白野」です。「シラクニ」は、今は「白国」と書かれますが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことだと研究者は考えています。「広」は「シラ → ヒラ → ヒロ」と転じます。白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったことが考えられます。現在ここには広峯神社があります。
この神社はかつては、西方の白幣山にあり、天禄3年〈972に遷座したと伝えられます。秦氏系の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山と研究者は考えています。幣・旗を神が依代にして降臨することは、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社になります。

同郡の賀野里は「幣丘」と『風土記』には記します。たぶん「幣丘」も「白幣丘」の意なのでしょう。「カヤ」は「伽耶」で、加羅の意ですが、加羅・新羅から渡来して来た秦氏系を中心とする人たちが、飾磨郡には住んでいたことを、この地名は示していると研究者は考えています。
以上見てきたように、赤穂郡を中心に大避神社は佐用郡・揖保郡に分布しますが、いずれも秦氏の伝承があります。一方、飾磨郡の秦氏は広峯(白国)山の信仰が主体で、この秦氏は秦巨智氏と研究者は考えています。どちらにしても大避神社が広く分布するのは、古代における秦氏の活動の痕跡であるとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏 396P」
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏 396P」
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