最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)
②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。
⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。
案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。
神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。
新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。
①神谷神社の方が屋根の反りが強い。
②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。
③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である
④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。
以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。
ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。
大正時代に行われた大改修の時に、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。
それを見てみると、
①まず「正一位神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。
どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。
小屋組解体
下ろした古材の保管と点検


順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。
神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。
そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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