中世後期になると武士の領域権力化には、次のような要素が求められるようになります
①軍事力(ハードパワー)②文化力(ソフトパワー)③それを支える経済力④それらを総合した政治力(外交力を含む)
これらの要素を総合的に備える武士団が生き残り、戦国大名へと成長して行くようです。そのような中で、讃岐で②の文化力が最も高かったのが東讃守護代を務めた安富氏のようです。今回は安富氏のどんな点が評価されているかに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
讃岐安富氏は、下総国の民部太夫照之が祖と伝えます。鎌倉時代の幕府奉行人の中に安富氏が見えるので、下総の安冨氏の一族から室町時代に細川氏の近臣安富氏が起こったようです。室町幕府右筆方奉行人の中に安富行長等幾人かの安富氏一族の名があります。『西讃府志』には、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内3郡18か村を領して、後継のいなかった三木氏に代わって平木城主になったと記します。安富氏が細川氏の被官として史料上にあらわれるのは『相国寺供養記』で、明徳3年(1392)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」の1人として安冨安芸又三郎盛衡が供奉しています。その後、安富氏は讃岐の守護代に任じられ、応永16年(1409)には安芸入道盛家が又守護代の安富次郎左衛門に施行状を下しています。
以上から14世紀後半に細川頼之に従って来讃した安富氏が15世紀初頭には東讃守護代のポストを得ていることを押さえておきます。近年の研究で、安富氏は鎌倉時代に六波羅探題をはじめ関東や鎮西探題でも活躍した奉行人だったことが明らかにされています。
建長2年(1250) 六波羅奉行人には安冨五郎左衛門尉・安冨民部大夫、同3年には安冨民部太夫
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
正和5年(1316) 安富行長、文保元年(1317)には安冨兵庫允が補任。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。
佐藤進一氏は、室町幕府開創期の六波羅探題と室町幕府との連続面に注目して、六波羅評定衆や同奉行人の多くが室町幕府に再出仕していた事実を明らかにしました。室町幕府は六波羅探題の発展型であるということです。それは西国の政治・社会情勢に明るかった六波羅奉行人・在京人の多くは、そのまま足利高氏に掌握され、開創期の室町幕府の主要構成員となったという事実に基づいています。ここでは、室町幕府の諸機関の多くは、鎌倉的幕府秩序の維持者としての性格をもち、その構成員もまた、それぞれの機関の性格にあった階層の文士・武士によって占められていたことを押さえておきます。
安富氏のように前代奉行人の家の出身と推測される者は次の通りです。
足利直義の執政機関の康永3年(1344)の編成表に、1番の安冨孫三郎、2番の安冨進三郎、
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。
一方、在京人で六波羅探題下に属していた香川氏は、正嘉元年(1257)の新日吉社小五月会の流鏑馬や乾元2年(1303)の幕府御的始において、それぞれ香川新五郎光景、香川五郎が射手を勤めています。こうして見ると安富氏や香川氏は鎌倉時代には洛中警固を主な任務とした武士(武官)としての系譜を持っていました。これが後の讃岐国守護代としての在地支配の在り方や性格にも少なからず影響を与えたのではないかと研究者は考えています。
15世紀初頭に、東讃守護代として登場してくるの安富宝蜜・宝城兄弟です。
『顕伝明名録』では「宝蜜=周防守入道」で「宝城兄」としています。亡父の追善和歌の勧進等でも宝蜜が主導していることなどから、宝蜜が宝城の兄であるようです。両人の文化的な活動を年表化して見ていくことにします。

①応永21年(1414)4月17日、讃岐守護の道歓細川満元邸で催された「頓証寺法楽千首和歌」
頓證寺法楽続百首和歌
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。
「(前略)百首法楽申候、当座卅首共に一貫にあすかゐ殿遊させ候て、また屋形法楽候一日千首も、此筑後殿に進之候、いつれも箱に入て候、此まゝ御奉納あるへく候」
ここからは、後に催された「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」と一緒に、同年12月に「松山法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮寶書84号)として頓証寺(白峰寺)に奉納されたことが分かります。その橋渡し役を果たしたの東讃守護代の安富氏だったことを押さえておきます。

「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」(白峯寺蔵)は、飛鳥井宋雅筆と伝えられます。
両者を合わせて1巻として法楽のために頓證寺(白峰寺)奉納されています。この「続百首」の成立は、応永21年(1414)12月8日で、「続三十首」も同じ日に詠まれたようです。「続三十首」の詠者18 名の内、善節1人を除く17名までが「続百首」の作者46名の中に入っているので、おそらく「続百首」の披講を終えた後、その日の出席者のみで「当座三十首」の会がもたれたと研究者は考えています。「当座三十首」の 歌人は、宋雅(飛鳥井雅縁)・雅清(飛鳥井雅世の初名)の飛鳥井家の歌人を筆頭に、道歓(細川満元)・持元・持頼・持之等の細川一族が中心的な位置を占めています。他に(安冨)宝城・(安冨周防入道)宝密・(横越)元久・(秋庭)元継等の細川氏の被官と、正徹・堯孝・梵灯等の歌僧が参加しています。彼らが 細川家の文芸を担った代表的な人物のようです。
②応永22年(1415)9月に成立した「詠法華経品々和歌一巻」(白峯寺蔵)
これは安富宝蜜・宝城兄弟による亡父の追善が目的でした。応永21年4月の「一日千首和歌」、同12月の「法楽百首」「当座三十首」、応永22年9月頃の「詠法華経和歌」の4つすべてに顔を見せているのは、道歓・宝城・之重・宝密・堯孝・正徹・梵灯の7名だけです。彼らは細川道歓の歌壇と深い関係を以ていたことがうかがえます。
安富宝城は東讃守護代でもあり、連歌を嗜み「北野万句連歌」にも出座するなど、細川歌壇の中で最も文芸を長けた人物の1人だったようです。常建・元資は東寺百合文書に、それぞれ丹波国守護代香西入道・香西豊前守とあり、共に細川京兆家被官の丹波系の香西氏です。之重は、寒川氏のようです。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。
安富氏は東讃の守護代に任じられていましたが、細川氏の身近に仕えるために讃岐を離れ、ほとんど京都に常駐していたことは以前にお話ししました。そのため中央政治においては重要なポストを得て活躍しますが、東讃支配という面では香西・寒川・植田氏などの反抗を受けて戦国大名化を進めることができませんでした。

この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
①1454年「細川持之十三年忌引品経和歌」、1458年の「細川満元朝臣三十三回忌品経和歌」に讃岐守護代安富智安が参加。
②1455年 守護代の安富盛保が和爾賀波神社(三木町)に「三十六歌仙扁額」6 枚を奉納
ここでは社家奉行も兼ねる安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、その庇護を得て毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。
③1460年「讃岐国一宮田村大社壁書之事」は、讃岐守護細川勝元が同社関係者に対し守るべき事項を26箇条にまとめて奉納。安富筑後入道智安、社家奉行安富山城守盛長、同林参河入道宗宜、同安富左京亮盛保を通じて周知。その14条に法楽千句田に関する規定があり、運営資金調達方法も整備されていたことが分かる
④1463年3月27日、「賦何船 連歌百韻」(香川県立ミュージアム蔵)には、讃岐守護細川勝元が亭主となって、守護代安富智安らの細川京兆家被官や歌人として名高い長谷川正広、連歌師専順などの名が連なる。⑤1464年 安富盛長が興行した「熊野法楽千句」には細川氏やその重臣が多く参加し、彼の政治的地位や経済力を確認できる。勝元(細川)はこの会の主客として参加。
⑥1485年 管領細川宗家(京兆家)を中心に行われた2月25 日の聖廟千句「細川千句」の連衆の中には、讃州座の守護代安富元家が発句を、香西彦二(次)郎長祐が執筆。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。
⑧1496年 香西元資主宰の法楽連歌会には、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちが参加しています。連衆として、宗堅、宗高、(安富)元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、(安富)元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
その背景や要因を、研究者は次のように挙げます。
①安富氏の出自が鎌倉幕府及び室町幕府の奉行人という文人官僚の系譜を持っていたこと②安富氏は、単なる武力のみを誇示する家系ではなかったこと③細川氏の内衆として京都在京期間が長く、王朝古典文化や在京文化人に触れる機会も多かったこと
応永・永享期の北山文化時代は、室町将軍御所で月次の歌会や連歌会が開かれるようになります。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。
戦乱の続いた中世に武家が熱心に和歌を詠み続けたことを知ったときには、私は何か意外で違和感を持ちました。どうして、武家が連歌や和歌にのめり込んでいったのでしょうか。それは、一門や家臣との結束を図り、また合戦を前に神仏と交流することや、他国との交渉などに和歌や連歌が有効であったからだと研究者は指摘します。


連歌会
連歌会は多くの人達が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸です。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。
中世は知識情報は偏在していて、京都とか寺社にいる知識人に会いに行かなければ、知識情報を得ることはできませんでした。今風に云うと「インテリジエンス」を得るためには情報伝達者が不可欠でした。情報伝達者としての連歌師は、地方の守護や国人衆の依頼を受けて、京都在住の能筆公家に書写・校合の依頼をしたり、また、人物の紹介や書状・金銭の伝達、寺院寄進・荘園返還の交渉、合戦の和睦交渉までさまざまな情報伝達を行っています。

連歌師
連歌師は連歌を教授し、連歌会興行を行うために地方に出向く機会が多く、諸国の事情に精通しその土地の事情に詳しい人物もよく知っていました。当時、連歌師は中立の立場で、敵対する勢力の領国でも通行できる特権を持っていたようです。それは、国境まで双方の勢力に護衛されて送られていることからもうかがえます。このように廻国する連歌師は、情報の伝達者であって高いコミュニケーション能力が必要とされ、公家と武家との斡旋役や、地方に来訪した歌人や連歌師等の文化人を接待する文化的接待役も務めました。
こうして見ると安富氏は早くから在京して、貴族や禅僧、歌人や連歌師、在京する他の武士等との交流の中で、京文化を学び、身に付けていたことが分かります。
安富が讃岐に帰讃することは、文化の担い手が京都から讃岐に移動することを意味したのです。例えば細川頼之が一時的に失脚し、宇多津で生活したことは、宇多津が讃岐の政治・軍事の拠点であるにとどまらず、文化活動の中心となったことを意味します。細川氏や安富氏は、上洛在京中に公家衆と交わり和歌会に列席し、連歌師を招いて連歌会を開き、五山禅僧を訪ねて治国の要を聞き、また能を鑑賞し、蹴鞠の会にも姿を見せていまします。また、讃岐にあっては、中央文化人を積極的に呼び文化摂取に努めています。特に応仁の乱以降は、公家は地方の有力武士を頼って地方へ下り、禅僧・連歌師、芸能人もまた地方へ分散します。それが経済と文化の交流を産みだし、中央文化を摂取・吸収して在国に地方文化圏を成立させていったと研究者は考えています。そのような目で、細川氏や安富氏の動きを見る必要があるようです。
応仁の乱後の明応2年(1493)頃に、細川政元政権下で「守護代・国人体制」が成立したとされます。
実権を握っていた細川政元の下で細川氏有力内衆によって構成された9~10 名からなる評定衆によって政権運営が行われるようになります。安富氏は一時的には、その評定衆の中で筆頭格的地位を占め、その統括を行うようになります。しかし、その地位は絶えず繰り返される内衆間の抗争で不安定なものでした。その結果、細川高国政権成立後には内衆の再編が行われ、安富氏は畿内からその姿を消し、四国に限定されてしまいます。それまでが安富氏の最も輝いた時期になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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