今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。
先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。
まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳の円筒埴輪
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。
津田古墳群の円筒埴輪変遷
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。
埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと
以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。
津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
コメント