丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話ししたものの2回目です。今回は、金比羅神が誰によって、どんなふうに生み出されたのかを、その時代背景から見ていくことにします。
金毘羅神の誕生

今まで今まで日本にいなかった金比羅神が、どのようにして生まれてきたかを見ていくことにします。それは、言い換えれば誰が金比羅神を創造したのかということです。その根本史料が宝物館に保存されている金比羅堂の棟札です。それを見ていくことにします。

金毘羅堂棟札(1573年)
金毘羅堂棟札(1573年:金刀比羅宮宝物館)
金毘羅で最も古い史料とされているのがこの棟札です。

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を別当金光院住職である宥雅が造営した。日付は1573年11月27日


裏は「金比羅堂を建立し、本尊が鎮座したので、法楽のための儀式を行った。その導師を高野山金剛三昧院の権大僧都法印良昌が勤めた。


 この棟札は、かつては「本社
再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」とされてきました。しかし、近世以前の資料が金比羅にないとすると、これが金比羅についての初見史料になります。この時に金比羅堂は建立されたのです。それでは宥雅とは何者なのでしょうか?

宥雅の出自 多聞院日記

金比羅の民政一般を取り仕切ったのが多聞院です。
その歴代院主が日記を残しています。その日記の中に宥雅は次のように記されています。次の4点が分かります。
①宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった
長尾大隅守高家の甥(弟?)であること
②宥雅は、長宗我部元親の侵入に際して、堺への逃走したこと
③宥雅は、その時に記録や宝物を持ち去ったこと 
④宥雅は、そのため歴代院主に含めない。つまり歴代院主として抹殺された存在だった
これ以外は宥雅については分かりませんでした。ところが
高松の無量寿院に、宥雅が残した「控訴史料」が近年見つかりました。ここでは深くは触れませんが、ここから金比羅神を産み出す際に宥雅の果たした役割が分かるようになりました。宥雅の出自である長尾氏の居館を見ておきましょう。
どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)

西長尾城と麓の居館跡とされる超勝(ちょうしょう)寺と慈泉(じせん)寺
まんのう町長尾から西長尾城(城山)を眺めたところです。この麓が長尾無頭(むとう)で、超勝寺や慈泉寺が、長尾氏の館跡とされています。この辺りには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っているので館跡というのはうなづけます。
長尾氏 居館
長尾氏居館跡
西長尾城(城山)からは丸亀平野が一望できます。晴れていると瀬戸内海も望めます。丸亀平野北部が天霧山の香川氏、南を長尾氏が勢力下にしていたと研究者は考えています。さて、宥雅が善通寺や高野山で学んでいた頃の四国をめぐる情勢を見ていくことにします。

安楽寺末寺17世紀

阿波美馬の安楽寺(真宗興正派)の末寺 吉野川沿いと讃岐に集中

以前にお話したように、1520年に阿波美馬の安楽寺は、讃岐の財田に集団亡命してきました。安楽寺は、その際に三好氏から布教活動の自由などの特権を条件に美馬へ帰国しました。以後、安楽寺は吉野川沿いの船頭達(運輸労働者=わたり衆)を中心に、川港を拠点に道場を展開していきます。そして、三好氏が讃岐への進出を本格化させると、それを追うように教線ラインを讃岐山脈の越えて、髙松平野や丸亀平野へと伸ばしていきます。そして、長尾氏や羽床氏・香西氏も三好氏の配下に入ると、土器川沿いの丸亀平野にも道場が形成されるようになります。

 それに拍車がかかるのが石山合戦のはじまりです。

石山戦争と安楽寺・西光寺
1570年に、石山本願寺と信長の間で合戦が始まります。そうすると支援物資調達のために本山からのオルグ団が阿波や讃岐にも派遣されます。そのためにも道場が組織強化され物資が調達されます。それは、宇多津西光寺による銅や米など運び込みという形で西光寺文書に残っています。西光寺から送り込まれたものは、丸亀平野の各道場から集められたものであったかもしれません。また西光寺以外にも多くの道場が支援を展開したことが考えられます。まさに門徒達にとっては「すべてを戦場へ・石山本願寺へ」という戦時体制を求められたと私は考えています。同時に、それは真宗門徒の信仰心を高揚させます。今までにない真宗門徒による活発な活動が丸亀平野でも見られたはずです。長尾氏出身の宥雅が松尾寺や金比羅堂を建立するのは、これと同時代のことになります。こうした真宗の教線伸張に危機感を抱いたのが真言系の僧侶だったのではないでしょうか。その一人が長尾家の一族・宥雅です。

宥雅は長尾氏の一門として善通寺で出家したようです。それは善通寺中興の祖=宥範の一字を持っていることからも分かります。その後は、高野山でも修学をしたようです。そして、讃岐帰国後に拠点とするのが称名寺でした。

称名寺
善通寺中興の祖・宥範の隠居寺とされる称名寺(現在の金刀比羅宮の神田の上)
 あかね幼稚園から入ると金毘羅宮の神田が開かれています。その上に称名寺はあったようです。14世紀前半に、ここを訪れた高野山の高僧は、浄土阿弥陀信仰を持つ念仏聖が住職を務めていたと記します。今は何もありません。その跡も分かりません。 ここに宥雅が住職としてやって来た時に、すでにこの上に松尾寺を建立する計画を持っていたはずです。その構想を後押ししたのが、金比羅堂の導師を勤めた良昌だと私は思っています。それを年表で見ておきましょう。

宥雅の松尾寺・金比羅堂建立
石山合戦が始まった年に、宥雅は称名寺の院主になっています。そして、真宗門徒の活動が活発化する中で、翌年には松尾寺本堂(観音堂)と三十番社、その2年後に金毘羅堂を次々と建立しています。
その導師が良昌でした。
良昌とは何者なのでしょうか?
金比羅堂導師 良昌

  先ほどの棟札をもう一度見ておきます。導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職良昌です。この寺は高野山の数多くある寺の中でも別格的な存在です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建したお寺で、将軍家の菩提寺となります。

②もうひとつの史料からは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の住職も兼務していたこと、そして、天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。導師を勤めた5年後には亡くなっています。研究者が注目するのは、法勲寺と島田寺の住職だったということです。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、古代綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、法勲寺の流れをくむ寺です。この寺で神櫛王の「悪魚退治伝説」が生まれたとされます。

島田寺と綾氏系図 悪魚退治
綾氏系図 冒頭が神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説とは、綾氏系図(讃岐藤原氏・香西・羽床・滝宮氏)の冒頭を飾るお話しです。

悪魚退治伝説の粗筋
手短に言うと景行天皇の子神櫛王が、五色台沖で暴れ回る悪魚を退治し、その業績が認められて、讃岐最初の国造となった。その子孫が古代綾氏で、中世武士団の讃岐藤原氏は、その末裔であるという伝説です。そのためにこの子孫を名乗る家には、このように冒頭に悪魚退治の話、そのあとに景行天皇に始まる系図を持つ家があります。しかし、紀記に記されるのは景行天皇の子として、神櫛王の名前が出てくるだけです。物語は古代には出てきません。それが登場するのは、中世に綾氏系図が作られた時なのです。つまり、この物語は中世になって羽床氏や香西氏などを顕彰するために、島田寺の住職が創作したものと研究者は考えています。その島田寺の住職を良昌が兼帯していたというのです。もちろん良昌は悪魚退治の話をよく知っていたはずです。当時の法勲寺は退転し、島田寺も荒廃していたようです。島田寺には、行き場をなくしたいくつも仏像が寄せ集められていたようです。
悪魚+クンピーラ=金毘羅神

魚に飲み込まれて腹を割いて出てくる神櫛王(金毘羅参詣名所図会)
宥雅と良昌とは、旧知の間柄であったのではないかとおもいます。二人の間ではこんな話がされていたのではないでしょうか?ここからは私の作ったお話しです。

宥雅

「近頃は南無阿弥陀仏ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺はどんどん信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が建立した松尾寺を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

良昌

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、わが島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」


「なるほど、新しい神を登場させるのですか。


「祟り神である悪魚を、神魚にして、そこにインドの番神を接ぎ木するというのはどうじゃ。まあ、ワニの化身とされるクンピーラあたりがいいかもしれん。それは私にまかせておきなさい」


「強力なパワーを持つ誰も知らない異国の番神を勧進するのですか。それを是非松尾寺の守護神として迎え入れたいと思います。その時には、お堂の落慶法要においでください」


「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」


悪魚を神魚に転換して、そこに異国の番神ワニ神クンピーラを接ぎ木・融合させ、これを金昆羅神として登場させたという説です。この神が祀られた金比羅堂は、現在の本社下の四段坂の登り口にありました。しかし、金比羅神の像が奉られることはなく本地仏して薬師如来が安置されていたことは前回にお話しした通りです。

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会

松尾寺の観音堂下に姿を現した金毘羅堂

金毘羅神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに新たな特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。

 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きなセールスポイントになります。讃岐にやって来る藩主への売り込みの際の「決め手」になります。ちなみに松尾寺の観音堂の本尊も、このとき島田寺経由でもたらされた法勲寺の仏のひとつではなかったのかと考える研究者もいます。

以上で第2部修了です。ここでは次のことを押さえておきます。
①金毘羅神は近世に現れた流行神である。
②金比羅神の登場した時代には、石山合戦の時代で、真宗興正派が丸亀平野で教線を急速に拡張する時期でもあった。
③そのような中で長尾氏出身の宥雅は、新たな流行神の勧進を行おうとした。
④相談を受けた良昌は、「島田寺の悪魚伝説 + 蛮神クンピーラ = 金毘羅神」を創りだした。
⑤こうして松尾寺の守護神として金比羅神が松尾山に現れることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献 町史ことひら 近世編
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