瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃TV「歴史の見方」で、借耕牛のご紹介をしました。まんのう町明神が、借耕牛のセリ場となっていたことを、残された俳句から見た内容です。興味と時間のある方はお立ち寄りください。
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  前回は金倉寺の北方にある道隆寺と賀茂神社の中世について次のようにまとめておきました。

中世道隆寺の歴史
 
 さらにこれを要約するなら賀茂神社と道隆寺は神仏混淆下では一体となって、鴨エリアの宗教センターと交易センターの役割を担っていたということです。その結果、「海に開けた寺社」として塩飽や庄内半島に至るエリアまでの数多くの寺社を末寺に組み込んでいたということになります。それでは内陸部の金倉寺はどうだったのでしょうか。今回は中世の金倉寺を見ていくことにします。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の多度郡葛原郷と那珂郡金蔵(かなくら)郷は隣同士の関係 

多度津・堀江・道隆寺・金蔵
葛原郷の北鴨と南鴨 その東が金倉郷
  前回に、葛原郷が京都の賀茂神社の荘園となったことをお話しました。葛原の東が金倉郷になります。
それがさらに分かれて、 中世には、上金倉(上流側)と下金倉に分かれます。さらに近代には次のように分かれていきます。
A 下金倉(中津)=上金倉村   + 金蔵寺村
B 上金倉    =丸亀市金倉町 + 善通寺金蔵寺町
 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条です。地図で見ると、この部分が多度郡の一条に突き出た形になっています。現在は金倉川は六条の東を流れていますが、条里制工事当初はその西側を流れていて那珂郡と多度郡の郡界であったことは以前にお話ししました。 ここでは金倉郷は現在の中津あたりまでが、その範囲に含まれていたことを押さえておきます。つまり、海に面したエリアが含まれていたということです。
  金倉寺は、内陸部にあって海からは隔たっているので海上交易とは関係のない寺院だと私は思っていました。ところが戦国前期頃に、金蔵寺が中讃地区の港町に次のような寄進依頼文書を出しています。
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
意訳変換しておくと
諸港へ 金倉寺の修造費用の寄進依頼  金蔵寺より
当寺は(大嵐で)大破したので修理が必要です。ついていは先例の通り寄進に協力していただければ幸いである。恐々謹言、なお先例の寄進額は以下の通りです。
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
ここでは金倉寺が大嵐で大破した際に、宇多津・多度津・堀江にそれぞれに先例に従って修造費負担を求めています。ここからは、金倉寺がこれらの港湾都市の住人の信仰対象となっていたことがうかがえます。ちなみに応永六年(1399)には、宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。こうしてみると金倉寺も中讃の港に信仰圏を持っていたことがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。ヒントになるのは、三豊平野の真ん中の本山寺の性格です。この寺の本尊は、牛頭天王で馬借たちなどの運輸労働者の信仰を集めた仏です。本山寺は仁尾や詫間・観音寺などの港の後背地で、その商業エリアは阿讃山脈を越えて阿波や土佐まで伸びていたことは以前にお話ししました。同じように、多度津・堀江・宇多津などの港への物資の集積地点の役割を、金倉寺は果たしていたのではないかと私は想像しています。金倉寺の背後の綾川沿いには、牛頭天王を祀る滝宮牛頭天王社(滝宮神社と、その別当寺の龍燈院が活発な布教活動を展開していたことは、以前にお話ししました。これらの動きと重なり会います。
 そういう目で金倉寺周辺の交通路を見てみましょう。
①堀江と金倉寺を結ぶのが、河川交通路としての金倉川
②もうひとつが堀江の道隆寺から加茂神社・葛原を経由して、金倉寺に至る遍路道(現町道)
③この遍路道が金倉寺の前を東西に通る中世の南海道に繋がる。
④金倉川沿いに金比羅への参拝道
こうして見ると金倉寺周辺は、丸亀平野の交通の要衝であり、人とモノと情報の集積地点だったことが分かります。本山寺がそうであったように、金倉寺も沿岸部の港へ後背地機能を果たしていたとしておきます。道隆寺、加茂神社、金倉寺は孤立したものではなく、ネットワークでで結びつけられていたと私は考えています。しかし、それを確かめる史料はありません。ちなみにこの史料で金倉寺が求めている寄付請求金額は、この時代の3つの港湾都市の規模や経済力を物語っているのかもしれません。
  もうひとつ金倉寺の信仰圏の広がりがうかがえる史料を見ておきましょう。
塩飽本島の正覚寺の大般若経です。
  写経は山野での修行と同じで、修験者たちは功徳として積極的に取り組みました。中でも大般若経は600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し奉納したのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます。例えば、東讃の大水主社や与田寺は、増吽を中心に多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことをお話ししました。

大般若経 正覚院第1巻奥書
上の巻第一には「文和四(1355)年十月十一日 始之」とあります。この巻から書写が開始されたようです。巻第572・573には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。
本島の正覚寺の大般若経で、金倉寺周辺で写経者と寺院が分かるものは次の通りです。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 (宇多津) 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 (宇多津) 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 (宇多津) 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮    (宇多津)      沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中(羽床) 
同郷大野村住(不明) 金剛佛子宥伎
⑦巻第五百七十二・五百七十三 讃岐國仲郡金倉庄 金蔵寺南大門大賓坊 信勢
当時、細川氏の政所が置かれた宇多津の僧侶が4名、その背後の羽床羽床郷の西迎寺坊中、同郷大野村住の僧侶の名前があります。第493・588を写経した金剛佛子宥海と、第571巻写経の金剛仏子宥蜜には「金剛」がつくので真言系密教僧(修験者)であり、名前に「宥」の一字がありますので同じ法脈関係にあったことがうかがえます。
 注目したいのは⑦の「金蔵寺南大門大賓(宝)坊 信勢」です。
大宝坊は金倉寺の塔頭のひとつで、
応永17年3月の金蔵寺文書に見える「大宝院」のようです。「願主」とあるので、金蔵寺の大賓坊信勢が発願者の第一候補だと研究者は考えています。信勢の呼びかけに応じて、多くの僧侶や修験者・聖たちが参加しています。それは宇多津から羽床にかけて、信勢のシンパがいたことになります。
  金倉寺が写経事業の中心であったことは、次のような変遷からも分かります。
①文和4年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻完成
②那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納
③約130年後の延徳三年(1491)に、道隆寺の僧が願主となって、大般若経全巻を折り畳み、巻物から旋風葉にスタイル変更
④永享7年(1435)に破損巻を、那珂郡杵原宝光寺(退転)の慶宥が写経補充
⑤慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶

大般若経 正覚院 下金倉
本島の正覚寺の大般若経 表紙見返し 
表紙見返しには次のように記されています。
「讃岐国金倉下村 惣蔵社御経 延徳三年(1491)六月二十二日」
ここからは金倉寺の呼びかけで写経された大般若経が保管されたのは、下金倉村の惣蔵社(宮)であったことが分かります。金倉下村は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社も今はありません。この神社は、金倉寺の末社であったようです。
 近年の各地の大般若経調査で明らかになったことは、明治の神仏分離以前は、大般若経は寺院ではなく、村社級の神社に保管されていたことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、金倉寺の発願によって写経された大般若経書写が、その末社の惣蔵社に奉納されたのも頷けます。こうして見ると、金倉寺の直接の信仰圏は下金倉村のあたりまで伸びていたことが分かります。
 それを補強するのが、北鴨・南鴨は葛原郷で多度郡、下金倉や上金倉は那珂郡に属していたことです。この郡境を境に、「道隆寺=賀茂神社」と「金倉寺=惣蔵社」は棲み分けていたことが考えられます。それが道隆寺の勢力が強くなって、金倉川以東にも伸びてきて、惣蔵社も勢力下におくようになります。惣蔵社は賀茂神社に吸収・合祀されます。その結果、惣蔵社の大般若経は不用となり、本島にもたらされたというストーリーが考えられます。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
正覚寺大般若経 第六百巻(延徳三年(1491)の奥書)    
ここには次のように記されています。

「讃州多度郡於道隆寺 宝積院 奉折如件

ここからは全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。これもある意味では、大事業なので「再興」とみなされ発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。
  道隆寺文書には永正8年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳3(1491)年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。

     以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金倉寺が願主となり、大般若経600巻が写経された。
②写経された大般若経は、金倉寺末社の那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納された。
③15世後半には、道隆寺が強勢になり金倉川東岸に進出し、下金倉の惣蔵社を末社化した。
④道隆寺院主は願主となって、惣蔵社の大般若経を「折り本」化した。
⑤その後、道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(宮)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

 金倉寺や道隆寺は中世には「談義所」「学問寺」として機能していたとされます。
多くの経典が写経されて収集され、それを求めて多くの廻国僧侶がやってきていたことが残された聖教類からも分かります。同時に大般若経の写経センターとしても機能していたことがうかがえます。これは、増吽の与田寺や水主神社と同じです。そして、その周辺には廻国の僧侶達が沢山いたようです。中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていました。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院のようです。次回は、この法憧院について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年
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    • 1. 終末の預言
    • 2025年03月11日 14:07
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      21:10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
      21:11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、
      恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

      見張り人ブランドン・ビッグス牧師の新しい疫病が来る預言と
      世界恐慌が来る預言。

      ヨハネの手紙一 4章
      4:8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

      ライフラインは枯渇し、壊滅する。
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