多度津の郷 葛原・金蔵寺
葛原庄と金倉庄は隣同士
多度郡の葛原郷が京都の賀茂神社に寄進されるのは11世紀前半でした。それから約200年後の建仁3(1203)年に、金倉郷も近江の園城寺に寄進されます。
その経緯については、善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」から次のようなことが分かります。
①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。ここからは後鳥羽上皇の圓城寺保護という意向があったことがうかがえます。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。ところが約130年後の建武3年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉上庄」とだけあります。金倉庄は、上下のふたつに分割され、下荘は他の手に渡ったようです。そして金倉上庄だけが残ったようです。それでは、金倉庄を園城寺は、どのように管理運営していたのでしょうか
圓城寺は、金倉上荘に公文を任命して管理させています。金倉寺文書には次のような文書があります。
「讃岐國金倉上庄公文職事
沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
  意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
ここからは次のようなことが分かります。
①弘安3(1280)年10月に、先祖の功績によって成真に子孫代々にまで金倉上荘公文の地位を継承することを保証していること
②沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺と関係があったこと
③沙弥成真というのは、出家していても武士で「沙弥=入道」であったこと

それでは圓城寺の荘園である金倉庄と金倉寺は、どんな関係だったのでしょうか?
金蔵寺の衆徒(僧侶)たちが以下のことを訴えます。(意訳)
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 
当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
  この文書は徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころのものです。
こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」には、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活したことが記されています。南北朝時代の動乱も治まった頃に、金倉寺の復興もようやく軌道にのったようです。
 研究者が注目するのは、「目安」の中に金倉庄の取り分について「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注があることです。
それまで地頭の持っていた得分・権利を荘園領主園城寺が2/3、金倉寺が1/3で分けあったことになります。これを裏付けるのが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中にも、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」とあることです。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じです。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の1/3ではなく、荘園全体の1/3だと研究者は判断します。
 そうだとすると金倉寺が金倉上荘の1/3を領していたことになります。これは大きな財政的基盤を得たことになります。これが退転していた金倉寺の復興につながったのかもしれません。時期的には四国の南北朝の混乱を収拾した細川頼之が、寺社の保護を通じて、讃岐の政治的安定化を行っていた時期になります。同時期に善通寺も宥範によって再興が進められた時期と重なります。

 復興を遂げた14世紀後半頃の金倉寺について、次のように記します。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あります。金倉寺の周辺には数多くの別所(廻国勧進僧の拠点)や僧坊・末寺があったことがうかがえます。そこには夥しい聖や修験者がいたはずです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
中世の金倉寺が世のその後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、細川高国が香西氏に暗殺される永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。
それでは、この時期の金倉寺の運営は、どのように行われていたのでしょうか?
 金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院(後の大宝院)のようです。
 室町時代ころの法憧院の寺領について史料を見ておきましょう。
法幢院之講田壱段少  大坪
拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺                   法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  意訳変換しておくと
法幢院の講田壱段少について  大坪
(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。
                金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  これは明応四年(1495)12月に、金倉寺の法瞳院の賃仁が書いた借金(米)証文です。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①金倉寺には、法瞳院という塔頭があったこと。
②法瞳院は、良田郷の石川に講田(領地)を持っていたこと
③石川には「大坪助左衛門屋敷」と「太郎兵衛屋敷」という名田があったこと。
 
この法憧院の証文中にある「石川方」については、稲木地区の東部小学校の東側に石川という地名が残っています。
良田郷石川

良(吉)田郷に残る「石田」の地名(東部小学校の東側)
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は考えています。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとは名田「石川方」の農民の住居があったところかもしれません。文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返っています。ここでは法憧院という塔頭が寺領を持っていたことを押さえておきます。

善通寺寺領 鎌倉時代
鎌倉時代の善通寺領

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小 
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
意訳変換しておくと
法憧院の院領二町九段小について
供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月  
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院には、学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大あること
②の「護摩供養(田) 慶林坊」は、護摩供養の費用に充てられる供田は慶林房の手に渡っている
③渋谷に質入れされている講田があること、(先ほど見た抵当分)
④これらを併せると法憧院は、5町4段あまりの院領を持っていたこと
⑤現在は人手に渡っている護摩供田をのぞく一町九段あまりが所有地であること
  ここからは金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、「学頭田2町3段」があることで、それが裏付けられます。しかし、その所有権は金倉寺にあるのではなく、塔頭の法憧院領となっていることを押さえておきます。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。
 それでは法憧院領はどこにあったのでしょうか? それは先ほど見たように良田郷石川方周辺にあったと研究者は考えています。ここはもともとは、金倉寺領良田郷の一部でした。つまり金倉寺領を、僧坊の院主たちが分割してばらばらして所有していたことになります。その院主の中には○○入道や○○沙門を名乗る俗人がいたということになります。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保っていたと研究者は考えています。
 比較のために当時の善通寺の様子を見ておきましょう。
四国をまとめ上げた細川頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となり、上洛することになります。讃岐を離れる1ケ月前に、次のような「善通寺興行条々」(9ヶ条)を出しています。(意訳変換)
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。 
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する
⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
多くの禁止事項が定められていますが。視座を逆転して見ると、これらの行為が当時は実態として行われていたことになります。実態があるから禁止されたのです。そういう目で各項目を見ておきます。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿=常住」していたことがうかがえます。これらを入道化した棟梁が率いていたのかもしれません。②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化した者がいたこと。⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたこと。
 以上からは、南北時代の善通寺には○○沙門や○○入道を名乗る俗人武士が軍事集団率いて武装化したまま常駐し、乗馬訓練を日常的に行う姿が見えてきます。西欧の教会史的に言うと「俗人による教会(寺院)支配」が行われていたということになります。これに対して「神のモノ(教会)は神(教皇)の手に、カエサル(皇帝)のモノはカエサルに!」という聖俗分離の主帳が現れるようになります。
 世俗化した善通寺に対して細川頼之が求めたことは、ある意味では「聖俗分離」であったようです。①②⑦は、○○入道の軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという立場表明にもとれます。③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
 ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護の細川氏は、それを改め善通寺を「非武装化」しようとしていたということです。善通寺で進行中のことは、周囲の金倉寺や道隆寺でも起こっていたと考えるのが自然です。
  14世紀の中頃に、金倉寺は小松荘(琴平町)に地頭職を得ています。
寺院が地頭職を得るというのは不思議な気もします。しかし、僧坊の院主の中には、武装化した○○入道もいたとすれば、地頭職も充分に務められたことになります。
金倉寺文書の「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、地方の武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進も、そのような動きに沿うものかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。

金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿

これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者の元景です。
  元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の(香川)三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋入道のようです。西讃守護代の元景は、金倉寺の要望を無視して、従来どおりの段銭徴収を命じています。その指示を受けた又代官の三島入道は、金倉寺から段銭を徴収したのでしょう。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、戦国大名化していく天霧城の香川氏や、西長尾城主の長尾氏の押領を受け、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。こうして、善通寺や金倉寺の僧坊の経済基盤となっていた寺領は失われ、退転していくことになります。讃岐の寺社は「長宗我部元親の侵攻で焼き討ちされ退転」と寺伝に記すところが多いのですが、それ以前に戦国大名化していく香川氏によって、寺領を奪われ退転に向かっていたと私は考えています。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P
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