前回は18世紀前半に了春によって書かれた金倉寺縁起の上巻を、次のようにまとめておきました。

意訳変換しておくと

今回は円珍によって金蔵寺の伽藍が整備されるまでを見ていくことにします。上巻後半部の綾姓第十一世・原田戸主長者の和氣道善(円珍の祖父?)からです。
古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

意訳変換しておくと
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。
ここには原田戸主長者の道善(円珍の祖父?)が自在王堂を建立したこと、そして円珍の父・宅成が登場してきます。これを円珍の残した「円珍系図」で確認しておきましょう。
道善公の弟が和氣道隆である。道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
ここでは、道隆寺建立の縁起が語られます。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。
意訳変換しておくと
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。
寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
ここには、道善が建立した自在王堂(道善寺)が円珍の威光で官寺化されたことが記されています。和気氏が、仏教に帰依して以来の到達点が誇らしげに記され、寺領と共に免税特権などが与えられたことが記されています。しかし、金倉寺が官寺化されたことはありません。
次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。
次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。
金林寺の仁徳を、もういちど円珍系図を見ておきましょう。

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、「綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった
しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
関連記事
金倉寺縁起は、和気氏の先祖は悪魚退治伝説の讃留霊王の子孫で綾氏と同族だと記している。

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、「綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった
しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
関連記事
コメント