大戦末期に国策として実施された松根脂の採取運動について前回は次のようにまとめました。

1944年の秋から冬にかけて進められた松根油の採集運動は、多くの人々を動員して国民運動として展開されます。しかし、松根を掘りだしても乾留用の釜不足などの不手際が重なり、当初の目標生産量には達しなかったようです。

しかし、時のスローガンは「撃ちてし止めむ」です。現状報告を受けた上で、「撤退」はできません。それは責任問題になります。現場がどうであれ、中央から出される指示は「前進」です
政府は1945(昭和20)年3月16日、「松根油等拡充増産対策措置要綱」を閣議決定します。
前年の「緊急」措置要綱を「拡充」と変えグレードアップした内容になっています。
第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂す第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること五、精製工場の急速整備を図ること備考二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
第1条は、まさに「撃ちてし止めむ」で「(松根油生産の)拡充増産体制を早急に強行しろ!」ということです。そして第2条では、生産目標を倍以上に引き上げています。その目標達成の達成のための具体策としてあげられているのが、次の3点です
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など③配備が遅れている乾留釜の設置
②には国民学校卒業生とありますが、旧琴南町の国民学校の生徒だった人は後に、次のように語っています。
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。
ここで注目しておきたいのは、備考二にあるように3月からは「松脂」も液体燃料用に活用されるようになったことです。松脂は、松の幹に傷を付けて染み出す樹液のことです。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』 松脂を採集する母親
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』は、赤ん坊をおんぶした母が松の木から松脂を採る姿を載せて、次のように記します。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。
松油(ヤニ)採取 育児と採取が出来ることを強調した写真
もういちど確認しておきます。マツから油をとる2つの方法が政府から示されたことになります。
①マツを伐倒して根を乾留する方法②樹皮から松ヤニを採取する方法
②の方法を、国民学校の生徒として参加した人は、次のように語っています。
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」
もともとは「松根油」(しょうこんゆ)の採集には、伐採して約10年以上が経過し、琥珀のように変質した松の根が使われていたようです。しかし、松の古株が掘り尽くされると、松のほかに杉、檜など常緑樹の古株、さらには生木を伐採した上での採掘も行われるようになります。そして、生木から松脂の採取がはじまります。そして山の中のマツだけでなく、防風林・公園のまつまでおよぶことになります。
戦争を伝える松
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」 上田市教育委員会
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。
松脂採取の傷跡の残る松(兼六園)
兼六園の松から松脂を採取する女学生たち
兼六園の松からも松脂が採集されています。国家危急の折に「一億総玉砕」に掲げる中で、兼六園の松であろうとも協力するのは当然と考えられ、時の指導者達がOKを出したのでしょう。「総動員体制完遂」という国策遂行のためのイメージ戦略だったのかもしれません。ここでは兼六園の松からも採取されていることを押さえておきます。同時に日光街道などの街道沿いの松なども採取対象になったことが新聞には記されています。先ほど見た秋田魁新聞には、松に傷をつけても「松は死にはしない」とありました。しかし、樹皮を剥がされ傷つけられた松は、大きなダメージを受けて枯れた木も多かったようです。それが前回見たようにまんのう町(旧琴南)の山の中に、傷跡を残しながら立ち枯れ姿となっているのです。
松脂採集跡を残す立ち枯れの松幹

松から脂をとるために大量の木が切られるようになるのは1944年秋以降のことです。
実は、その前年からは「軍需造船供木運動」がはじまり、各地の巨木が伐採供出されていました。
日本の輸送船が南洋で次々沈められたのに対応して、急ぎ木造船を増産するために大量の木が伐られたのです。1943年2月に「軍需造船供木運動」は始まります。これも山の木だけ出なく屋敷林や社寺境内林、並木や防風林まで目をつけられます。そして、半年足らずの間に、全国から百万本以上の巨木が「出征」します。この巨木の「供出」「出征」の際にも、美談や「熱誠」を演出して競争心をあおる官製「国民運動」が興され、新聞がこれをこぞってとりあげます。大政翼賛会による下からの官民運動の進め方は、次のような手順です。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
ある意味では、松根油や松脂の採集運動は、「軍需造船供木運動」の「二番煎じ」だったようです。そのために姿を消した巨樹たちも多かったのです。一方で、国策に抗い巨樹を守り抜こうとした人達もいたのです。
『写真週報』第270号(1943年5月5日)岡山県の津山市二宮松原の並木伐採の様子
タイトル 応召する三百歳の杉並木右上 松並木遠景左上 市長による斧入伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
齋藤 暖生 「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」参考文献
金子恭三 「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)
信州戦争資料センター(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)関連記事
コメント