滝宮へ踊り込んでいた「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表です。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
これを見ると、この踊りは中世の風流踊りで、那珂郡南部のいくつもの集落によって構成されていたことが分かります。そして、讃岐が東西2藩に分割されて以後は、  メンバーの村々の帰属地が次の3つ分かれます。
A 天領の小松荘4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
B 髙松藩の真野・東七ケ村・岸上・吉野・塩入
C 丸亀藩の西七ケ村・佐文

まんのう町エリア 讃岐国絵図2
              讃岐国絵図 寛永十年 
これが踊りの運営を難しくしたようです。Aの天領とBの髙松藩の村々が対立を繰り返し、運営不全に陥り、明治になると自然消滅していくことは以前にお話ししました。私が疑問に思っているのは、天領と髙松藩の村々がどうして、これほどもめるのだろうか? その対立の原因がどこから来ているのかということです。どうもこの時期には、天領の苗田村と髙松藩の村々の間で、激しい水争い(水論)が同時に展開されていたのです。それを今回は見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論」です。

夫婦井横井の文政四年から同六年にかけて起こった水論について
これについては、岩崎平蔵が書き残した「鵜足郡那珂郡大川筋井堰御料苗田村之者共切放し夫婦并横井建方一件文政六未年四月二日より九月二十八日迄備中倉敷御役所江出役内済口掛合御一件控」(以下「文政四年の水論」)という文書があります。これはもともとは、まんのう町岸上の奈良家に伝えられていたものですが、今は飯山町法勲寺の岩崎家に保管されているようです。まず長い表題を意訳しておきます。
 「鵜足郡と那珂郡の間を流れる大川(土器川)筋の井堰を天領苗田村の者たちが切放し、夫婦横井の水を奪おうとした一件について、文政6未年4月2日から9月28日まで備中倉敷代官所で行われた仲裁交渉についての控」

文書は、美濃紙計115枚という分量で、訴状や書簡が多く載せられています。  まず夫婦井(みょうとい)横井から見ていくことにします。 


かか4444

「喜多村俊夫 溜池灌漑地域における用水配分と農村社会」より 
 生駒藩時代に西嶋八兵衛によって満濃池と用水路が整備され、那珂郡南部では田植えのための水は確保できるようになります。しかし、周期的にやって来る旱魃などで水不足が解消されたわけではありません。そのため村々では、旱魃に備えての非常用の水源確保が次の課題となります。そのような中で進められたのが出水(湧水)からの用水の導入です。

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 夫婦井横井は、元禄年間(1688~1704)、那珂郡の大政所高畑権兵衛正勝が構築したと伝えられます。
  水源としたのが土器川右岸の長尾村佐岡東の「夫婦湧出水」です。

ふうふふうふ
夫婦出水 → 夫婦井横井(木水道) → 苗田 → 公文 → 買田池

夫婦出水から用水路を北方へ掘り、佐岡山の麓からさらに西方へ引いて、薬師岩の北で土器川に落とします。そして鯰岩の西の土器川の川底に埋樋を設け、堤防の下に暗渠を作って用水路と連結し、高篠・公文ヘ75%、苗田村へ35%の水を配水します。この横井を「木水道(きすいどう)」と呼んでいたようです。また木水道によって取水された水は、冬の間は公文村を経て、買田池(善通寺市)に貯められていました。つまり、買田池の水源の役割も果たしていたことになります。
 時が経つにつれて天領の苗田村の農民達の中には、この木水道の権利を自分たち天領の農民に与えられた既得権利と思うようになっていきます。そして木水道の土器川川上に埋樋を設けさせないことと、土器川の横井普請で、木水道に不利になるような変更を認めないという立場を押し通すようになります。これは天領の百姓であるという優越感に支えられたものでした。

夫婦井横井の絵図
   夫婦井横井(木水道)の絵図
宝暦五年(1755)に鯰岩の分水点で、分水についての水論が起こります。
その顛末を見ていくことにします。この年は高松藩記にも「夏日照り」と記され、早魃のひどかった年のようです。水不足になった羽間免の安造田(あそだ)新開の農民が、鯰岩の東側に新井手を掘りつけ、横井を新しく設けて水を安造田側に引き込もうとします。これに対して、夫婦井横井から引いていた四条村や高篠村・苗田村の農民が、安造田新開の農民が設けた横井を切り崩して井手を埋めます。すると安造田側は、また井手を掘って横井を築くことが繰り返され、遂に仲裁に持ち込まれます。その時の「仰せ渡され書(仲裁書)」には、次のように記されています。(意訳)
○ 中井手用水は、古絵図にも見えている用水で、郷普請奉行が仕渡しているものであるから、岩薬師という所の上に流水がある時は、中井手用水に水を遣すこと、この水分けをする時には双方の村役人が立ち合って、騒動がないようにすること
○ 水流がなくなって、出水からの水だけになると、三つの村の者が川の中の水路を掘り浚えて木水道へ水を引くことになる。中井手筋水掛りの者が、横井を塞き立てたり、川端を切り開いたりしてはいけない

ここでは中井手用水は川の流水をとる施設で、木水道は夫婦湧出水からの水を採る施設であると認めています。この仰せ渡され書によって、文政四年までの約70年間、この場所での水論は起きませんでした。
小松井出水をめぐる四条村と苗田村の水論 
文化四年(1817)8月に、夫婦井横井の約100m川上の西岸の小松井出水で、新しく「う津め(埋樋)」を設けているという話が、苗田村西組庄屋の川田虎五郎のもとへ伝えられます。早速に西組から又兵衛・吉蔵・由勝、東組から味右衛門・重右衛門を指し向けて調べてみると、「う津め」の工事が行われていました。苗田村は、すぐに工事差し止めを申し入れをします。これに対して四条側は「吉野下村忠右衛門持林の中へ、「う津め」工事を行っているが、下の木水道水組に差し障るようなものではない。」と返答して工事を続行します。苗田村側は、川田虎五郎と守屋吉右衛門の両庄屋の連名で、那珂郡大政所の和泉覚左衛門と真光作左衛門に八月十日付けで抗議文を送って、工事の即時中止を求めます。その末尾には次のように記されています。

「勿論当村百姓共より申出候は、弥々右普請相止め申さざる時は、御役所表江御訴証も致し候段申出候云々」

「御役所表江御訴証も致し候」というのは、「倉敷の代官所へ訴え出る」ということです。これは髙松藩の村々にとっては避けたいところでした。なぜなら髙松藩に訴え出るのなら現地で仲裁交渉ができます。ところが天領の村々に訴えられると、倉敷の代官所へ大勢が出向いて、長期滞在が強いられます。それは費用のかかることです。これは避けたいところです。そのため天領の村々とは、もめ事をを起こしたくないというのが正直な所です。こうして天領の村々は、自分たちが優位にあると思い込み、強引なやり方を重ねるようになります。この時も高松藩が事件の重大化することを恐れて、四条村側を説得して四条村側は普請工事を中止し、苗田村との和解が成立しています(金刀比羅宮文書 小松井出水一件)
 文政四(1821)年の水論     天領苗田の農民達が土器川の横井をいくつも壊した
 この年の夏も大早魃で、ついには夫婦湧出水も枯れてしまします。これについて苗田村の農民は「上流にある横井が規定を無視して、横井を厳重に塞き止めたために、水がやってこなくなった」と考え、直接行動に出ます。苗田村の農民数十人が、6月10日の夜、炭所西村の片岡上所横井(常包横井)、大向興免横井、長尾村薬師横井、札の辻横井の4ヶ所の横井を切り崩します。騒ぎに気づいて集まってきた地元の農民は、暴徒の中に天領の農民が混じっていることに気づいて、あえて争うことなく我慢してこれを見守ります。
 さらに12日後の6月22日昼八ツ時(午後2時)過ぎの白昼に、四条・高篠・苗田の農民数十人が押し寄せて、炭所西村大向の吉野上村荒川横井と、吉野上村大宮横井を切り放します。この時にも暴徒の中に天領苗田の農民が数多く混じっているのを確認します。しかし、地元の農民は、天領民と争いを起こすと、倉敷代官所へ訴えられて多くの入費がかかることを恐れて、あえて争いません。
 こうした中で天領苗田村の農民が大勢押しかけて、夫婦井横井の埋樋や井手筋を、自分たちの手で掘り浚えようとしているという風評が拡がります。那珂郡の大政所の真光作左衛門は、もしそのようなことが起こると、水論の解決がさらに難しくなることを恐れて、郷普請人遣いの佐吉郎に命じ、人夫120名余りを使って烏帽子岩の上手に横井を取り付ける普請を行います。これに対し、苗田側から横井の位置が違っていると、厳しい抗議が起こります。改めて作左衛門が鯰岩の現地見分して、苗田村の異議申出を認めて、木水道の取入口の横井を烏帽子岩の下手へ引き下げることを独断で決定し、二日掛かりで烏帽子岩の下手へ横井を引き下げる普請を行います。しかし高松藩では、溜め池や横井の普請は郷普請奉行の担当普請であって、村々から人夫を出して郷普請人遣いの指図によって普請を行うことが慣例でした。水論に絡む火急の普請ですが、大政所一人が各方面と十分に協議しないで、変更工事を行ったことは越権行為です。これが後日に大きい問題を残すことになります。
これに対しての高松藩の立場は複雑です。慎重な対応を求められます。
木水道から取り入れた水は、75%が高松藩領の東高篠村・西高篠村・公文村に掛かり、残りの35%が池御料苗田村の水掛かりです。木水道から取り入れた冬期の水は、買田池が承水する権利を認められていたことは先ほど見ました。
高松藩では、今回の暴動に加わった四条村の農民の、増蔵・駒吉・政蔵と外三名、東高篠村の農民の半十郎・庄助・新蔵、西高篠村の農民の岩蔵・源二郎。大五郎・竹蔵の計13名に郷倉への入牢を申し付けています。こうして切り崩しに参加した自領の四条や高篠の農民の処罰を行います。その上で、苗田との交渉にいどみます。
 藩政時代の水論は、藩の役人は後ろに下がって、当事者間の交渉に任せるのが常道でした。そのため適当な仲裁人を選んで、事件を解決させる道がとられます。高松藩領側からは、那珂郡の大政所の真光作左衛門と和泉覚左衛門が連名で、池御料榎井村の庄屋石川信蔵・苗田村東組庄屋守屋吉左衛門・苗田村西組庄屋川田虎五郎の二人に宛て、七月二日付けで、次のように文書で申し入れます。

「藩が郷普請で維持している横井を、数か所にわたって、しかも白昼に切り崩したのは、理不尽な暴挙である。厳重に取り調べてほしい。」

当寺の天領・池御料側では、榎井村の庄屋石川信蔵が池御料全体の代表者でした。
しかし、今回の事件には榎井村の者は関わっていません。そこで苗田村東組の庄屋守屋吉左衛門と、苗田村西組の庄屋川田虎五郎が連名で、次の三点を強調した返書を、8月4日付けで返答します。

○ 佐岡夫婦井横井の川上にある常包横井は、石だけで関(築)立てる慣行であったのに、近年になって石関の上に筵や菰をかけ土砂を持ちこみ、手丈夫に関立て少しの洩水もなくなった、常包横井にならって川下の横井も同様に関立てるようになったので、佐岡夫婦湧出水の水が出なくなった、横井を切り崩したのはそのためである。

○ 木水道(埋樋)とその井路筋(用水路)の掘り浚えの普請は、高松藩側で行ってきた普請であるが、近年になって修繕してくれないので、苗田村へ水が届かなくなった。

○ 鯰岩の際の岩(烏帽子岩)の下手に横井を関立て、木水道へ水を引く慣行であったのに、近年になってこの横井を烏帽子岩の上手に関立てるようになったので、木水道に水がかからなくなった、6月26日に改めて岩の上手へ関立てたので、7月2日に異議を中し立てると、岩の下手に関立てた。この七、8日の間に大切な水を失った。このようなことがないようにしてほしい。

高松藩は吉野上村の政所で、横井の切り崩しの被害者である岩崎平蔵に下問します。藩の普請方の小頭役を兼務していた普請の専門家でもあった平蔵は、次のように答申します。
○ 常包横井は石関立というが、石だけで水を引くことはできない。常包横井のある場所は川幅が至って狭く、 一面岩滑の上に関立てるので、下敷はしだ(羊歯)であって、その上に川筋にある砂に川筋にある砂を持ちこんで石で関立ててあるが、延や菰は一切使用していない。この横井の普請は炭所西村・長尾村・吉野上村の村役人が立ち合って、究め(規約)の通りに運用している。大向興免、薬師横井、札の辻横井も石を使っているが、延や菰は使用しないので、洩れ水がないように塞きとめることはできない。6月10日の夜、これらの横井に水が充分にあったということは虚偽で、ほとんど水はなかった。
○ 大向荒川横井と大宮荒川横井は、ともに吉野上村が水掛かりの横井で、二つとも川幅の広い所に設けてある。そのため川幅一ぱいに関立てることはできない。水流に応じて流れこみの石や砂の上に横井を関立てて筵や菰をかけ、川筋の土砂を持ち掛けて仕立ててある。横井の下手30間(約55m)ほどの所に漏れ水が湧き出ている。常包横井以下の横井が関立方を改めたので、夫婦湧出水の水が出なくなったというのは、池御料(天領苗田)側の強弁である。

○ 近年になって、木水道や井路筋の普請をなおざりにしたというのは、池御料側の詭弁である。享和年中(1801~4)以来、用水路の掘り浚えは隔年毎に行っている。池御料関係の用水路426間(約775m)についても、人夫313人を使って、さらえと刃金(粘土)入れ普請を行っている。

○ 鯰岩際の横井の立場所については、特定の規約はない。川中の流れの様子により、適当な場所を選んで関立ててきた。池御料側が横井の仕置を下げるように主張するのは、現在の川の流れからみると、下げる方が有利であるからで「木水道の取り入れ日から烏帽子岩にかけて」というのが原則であると思う。

こうして次の仲裁人が選ばれて仲裁が進められることになります
高松藩では、阿野郡南の萱原村の政所治右衛門
池御料側は、榎井村仮年寄の半四郎と治右衛門
なお、那珂郡の大政所真光作左衛門については、先に郷普請奉行の指揮を仰がず、関係者と協議しないで二度の普請を行った責任を問われて、「慎み」を仰せつけられます。そして、この交渉には参加させていません。

ここで最初のテーマ「那珂郡七箇村念仏踊りが内部分裂して行ったのはどうしてか?」に、立ち返ります。
以前に那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。

那珂郡七箇村念仏踊りと水論


①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒騒動の後、讃岐が東西に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと⑤19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
⑥ところが天領苗田村との水論が、念仏踊りの運営にも障害となり、村々の求心力が失われたこと
ちなみに、那珂郡七箇村組念仏踊の1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。
「那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋」
つまり、岩崎平蔵は那珂郡七箇村組念仏踊の総責任者であると同時に、髙松藩側の水論の代表者的人物でもあったのです。そのため天領側はいろいろと難題をもちかけては、念仏踊りからの脱退をほのめかすようになります。求心力を失った踊り組の運営が困難に陥ったことは以前にお話ししました。
その対立の背景には、同時進行で進んでいた水があったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論 
参考文献