鎌倉時代の居館の主人たちが用水支配に積極的に関わっていく姿を見ていくことにします。テキストは 「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落 人文地理第51巻」です。
まず研究者が取り上げるのは、滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡です。
上図は、明治段階の用水路と水源別灌漑範囲を研究者が復原したものです。堀水は、北之荘集落南の湧水「公野湧」から引かれています。公野湧は、小字「殿屋敷」をはじめその西方あわせて23町を灌漑する北之荘村の用水源となっています。湧水からの水の流れを見ておきましょう。
①公野湧からの水流はすべていったん殿屋敷の水堀に集められます。②その後に、西方耕地の灌漑に用いられる③ここからは、公野湧の水を自分の居館に引き込んでいる居館領主が、灌漑用水を握っていたことがうかがえる。
公野湧灌漑エリアには小字「門田」も含まれています。門田は居館領主の直営田とされます。灌漑優先順位の高い位置にあることが分かります。水支配と直営田との関係も見えてきます。
公野湧は愛知川扇状地の扇端部に湧出している出水です。扇央部の開発に比べると、開発難度は低く容易で、早い時期に開発されたことが考えられます。居館遺構の周囲一帯にはN34°Eの神崎郡条里が広がっています。居館の水堀もこの方位に従っています。一町の遺構域はちょうど神崎郡条里の九条五里十六坪に相当します。前回にも述べた通り、居館が条里地割の規制を受けている場合、 居館の領主が条里地割型耕地の開発・施工に深く関わっていたと研究者は考えています。まんのう町吉野の大堀居館跡も丸亀平野の条里制ラインに沿って建てられています。湿原であった吉(葦)野の開発者としてやってきたことがうかがえます。
居館がいつ頃に現れたかは分かりませんが、その下限年代から考えると、公野湧灌漑域の条里地割型耕地の施工は、13世紀には始まっていたと云えそうです。宮荘殿屋敷遺跡のある旧北之庄村は、12世紀に現れる鳥羽院領山前荘の北庄の故地になります。この居館遺構も荘域開発を進めた荘官クラスのものと研究者は推測します。
大原氏は、鎌倉時代初頭の近江守護佐々木信綱の長子重綱を祖とする佐々木一族の庶流になります。信綱の四人の息子のうち、三男泰綱が惣領家を継いで六角家となり、四男氏信は京極家を立てて近江国 を二分する勢力となります。一方、長男重綱は妾腹のため不遇で、後にようやく近江大原荘の地頭職に補任されて当地に居住し、以後代々大原氏を称します。大原氏は鎌倉後期には在京人として、室町時代には将軍家の奉公衆となっています。「大原観音寺文書』などの史料から16世紀までここに居住したことが裏付けられます。
さて、大原氏の居館を見ていくことにします。居館は市場中村の「大原判官屋敷跡」に現存します。
土塁・堀などの遺構や、多くの墓石が残っています。『大原観音寺文書』により13世紀から大原氏がこの地で居住していたことや、初代重綱の創建でその法名ともなっている大原氏菩提寺 「長禅寺」の場所が、小字「長善寺」として居館跡に隣接していることが、この付近を当初からの拠点が置かれていたことが裏付けられます。
居館周囲一帯の水田は、 北の姉川を水源とする「出雲井」によって灌漑されています。
出雲井は式内社伊吹神社裏で取水します。これは姉川に設置される井堰のうちでも最上流に位置 します。そして流域では、最大の灌漑面積722町をもつ水利集団です。
出雲井の取水口
近世文書「大原之郷由来出雲井根元記」には、出雲井の開削について次のように記されています。宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が大原荘にやってきたときに、家臣の出雲喜兵衛が行った。そのため出雲井と呼ばれるようになった
①出雲井からの用水配布エリアの大部分は、姉川左岸の段丘下位面にある。②この水の届きにくい高燥面の水田化は、出雲井が開削される以前は開発困難だった③大原氏館はこの段丘上に位置し、段丘上を潤してきた出雲井の幹線水路が流れ込んでいる。④以上から、段丘面の灌漑と同時に居館水堀の水源として出雲井の利用が当初から考えられていた
ここでは大原氏館の堀水は、出雲井なくしては確保できなかったこと、大原氏館築造時には、すでに出雲井は開削 されていたこと、段丘面開発と居館設置が連動し、どちらもが出雲井開削とその掌握を前提としていることなどから、 大原氏が出雲井を直接支配していたことが裏付けられます。
段丘面が、承安四年 (1174)『大原観音寺文書』官宣旨案に初見の蓮華蔵院領大原荘の荘域であることは、先ほど押さえました。このことは以下の言い伝えと整合性があります。
①宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が近江大原荘の地頭職に補任されやってきた②家臣の出雲喜兵衛に未開発だった段丘面の開発を命じた。
この言い伝えは信憑性がありそうです。出雲井の開削は、大原荘の開発とも、大原氏の居館建設ともリンクしていたことになります。大原荘の立荘の経緯や正確な四至は分かりません。しかし、後世の文書に出てくる故地は、出雲井の灌漑範囲にほぼ一致します。出雲井は大原荘の専用水として、大原荘の開発のために開削された用水で、この出雲井の灌漑可能な範囲を母体に、大原荘の荘域が確定されていったと研究者は考えています。
出雲井からの用水路を通して段丘面を水田化するという「開発計画」と大原氏の居館設置は、当初から連動して動いていたことを見てきました。しかし、これを実際に行うためには、大原氏が出雲井の用水権利を握っておく必要があります。その障害は越えられるのでしょうか?
ヒントになるのは13世紀に大原氏は、大原荘の地頭職だったということです。
このことは地頭クラスの荘官として、用水管理権を握っていたことを意味します。ただし、大原氏の場合は承久以降の新補地頭とされます。そのため、大原氏以前の領主によって荘域開発のために開削されていた用水の支配権を受け継いだということが考えられます。このように大原荘の開発は、下司・地頭クラスの在地領主が用水を開削・支配しながら進められたことを押さえておきます。ここにも在地領主層には、開発領主としての性格があったことが見えてきます。
このことは地頭クラスの荘官として、用水管理権を握っていたことを意味します。ただし、大原氏の場合は承久以降の新補地頭とされます。そのため、大原氏以前の領主によって荘域開発のために開削されていた用水の支配権を受け継いだということが考えられます。このように大原荘の開発は、下司・地頭クラスの在地領主が用水を開削・支配しながら進められたことを押さえておきます。ここにも在地領主層には、開発領主としての性格があったことが見えてきます。
在地領主制と勧農権について
各地の平野部荘園では荘域と灌漑エリア賀が一致する事例が相次いで報告されています。大規模な荘園調査が行われた播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でもその荘域が、井堰の灌概範囲に一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の根拠となっていったと研究者は考えています。「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 とした宝月圭吾、
1)福留照尚らの見解とも重なります。もちろん領主権の中には、徴税・検断など種々の公権が含まれています。用水支配だけを領主制成立の根拠とするわけにはいきません。しかし、荘園下地の治定を実現させるものとして、用水支配が大きな役割を担っていたことになります。
戸田芳実は、次のように述べます(要約)
在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。
中世成立期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示しており、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったことをここでは指摘しています。 このような水利開発と用水支配が、「所領」つ まり領域支配の根拠となり、その領主権を構成する一要素 となっていったと研究者は考えています。


以上を整理しておくと
①中世前期の水利開発と用水支配の多くは下司・地 頭 クラスの在地領主によって行われている
②用水支配を媒介とする勧農権一が、 これらの階層 に所属していた可能性がある
③古代の国衙の勧農機能を、中世成立期に下司クラスの在地領主 に委譲された
④つまり、中世荘園の開発がら在地領主の手によって行われたことを意味する。
⑤在地領主には、開発領主・農業経営者 としての側面があった
⑥同時に、中世荘園制を構造的に支えている領主制の本来的な担い手は、下司クラスの在地領主 であった
まんのう町吉野の大堀居館と水利

このような動きは当然、中世の丸亀平野にも当てはめられる動きです。まんのう町吉野の大堀居館の主人も灌漑設備を整備する中で、遊水地化し低湿地だった吉(葦)野の開発を行うだけでなく、土器川に井堰(横井)を設けることで、居館の水堀に水を引き、そこを分岐点として下流に用水を提供する。その「勧農」を通じて、下流の灌漑エリアを自己の勢力圏に収めていくという統治戦略を展開したという話になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落 人文地理第51巻
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