中世前期の荘園には、次の2つの階層がいたと研究者は考えています。
A 下司・地頭層  = 在地領主 
B 公文層     = 村落領主
それが中世後期の南北朝以後の在地領主制では、次の2つになります。
C 地頭の系譜を引き、在地領主の発展段階とされる「国人領主」
D 村落 レベルの 「土豪」
 従来の研究では、中世後期になると用水開発・支配の主体は、荘園領主や在地領主の手を放れて、村落に下降してくるとされてきました。Bの公文層以下の有力農民が成長するなかで、村落やそれを主導するDの土豪層が用水路や溜池の修築などを行い、地域開発の担い手として台頭してきます。こうして、Aの在地領主やBの国人領主たちはは農業経営から遊離していくというのが、 従来の考え方のようです。

惣村の構造図
惣村の構造

  Q1 惣村はどのような組織か?
①農耕儀礼や共同作業を通じて結びついた名主層を中心に農民たちの地縁的な自治組織を惣村という。
②惣村は、惣百姓が参加した寄合の決定に基づいて自治が行われ、秩序の維持のため警察権を行使する地下検断や、年貢を領主に一括納入する地下請などを通じて、支配者から自立していった。
③惣村の成立の背景には、農業生産力の向上による農民の成長と、戦乱に対する自衛の必要性があった。名主層の中には、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得する者(地侍)もいて、これも惣村が支配者から自立する要因となった。
惣村形成背景

中学校の歴史教科書指導書などにも「有力農民に率いられた村落が用水開発の担い手となった」とったと説かれています。これは「惣村」形成へと導くための伏線となっています。そして13世紀後半以降の畿内の惣村は、在地領主から自立し、自治権を持った村落共同体として記されています。
 惣村は「集村」と関連づけて考えられるようです。
集村化とは、それまで散らばっていた屋敷地を一カ所に集めて、集落エリアとと耕作エリアを分離することです。その目的は、土地利用の「高度集約化による村落再編成」だったとされます。その進行時期は、畿内では南北朝の14世紀前後とされます。それでは、この村落再編成のための集村化の原動力は何だったのでしょうか? それは「自立化した農民層の共同体的結合=惣村の規制力」だとされます。その結果、中学校の歴史教科書にも「集村=惣村化」というイメージで提示されています。
 ところがその後の発掘調査で、集村化で形成された集落に接して新たに領主居館も並んで現れる事例が髙松平野などから報告されました。近江国野洲郡からも集村化と新しい領主居館が同一エリアに出現する例が報告されています。これは「盟主層による惣村化」の動きには反するものです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  これに対して研究者は集村 には、「惣村化」の他に「居館化」の2つの方向があったと指摘します。
 それでは、この2つの違いはどこからくるのでしょうか?
それは村落の形成過程の違いからくるものと研究者は考えています。同じ規模の屋敷が並ぶ集村は、百姓たちの共同的結合で形成された惣村を示していると考えることができます。しかし、百姓の屋敷地とは大きな格差がある規模の居館を内部に持つ集落の場合は、居館を核として、集村化が行われたと研究者は考えています。つまり、畿内で14世紀前後に進行した集村化には、次の2つのタイプがあったということです。
A 惣の主導型
B 居館領主主導型
 Aの惣村は、在地領主の支配を排除したものでしょう。これに対して、Bの居館型集村の場合に領主が村落再編(集村化)を主導したことになります。それでは領主が集村化できた原動力は何だったのでしょうか?結論からいえば、それが在地領主の用水支配権だと云うのです。今回もその例を近江の姉川流域の灌漑水路と居館の関係から見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
在地領主が村落再編成に深く関わっている事例として、近江国姉川の郷里井堰を見ていくことにします。ここは前回に見た大原荘の下流域で、臥竜山によって東西に隔てられます。
滋賀県郷里井堰2
郷里井堰と上坂氏舘

まず、上図で上坂氏居館と姉川の灌漑用水の関係について以下を押さえておきます。 
①姉川が平野に流れ出る喉元に「郷里井」と呼ばれる井堰設置
②この灌漑域は344町で、上流の出雲井と並んで姉川筋の二大水利集団を形成
③郷里井は扇型に灌漑エリアが西に拡がり、その範囲は扇状地と一致
④郷里井灌漑エリアには多くの居館型集村があり、扇央部の西上坂村がその中心集落
⑤この西上坂村に国人領主上坂氏の居館跡があり、水堀や土塁などが残っている。
この郷里用水路には上坂氏が、深く関わっているとされます。上坂氏が、いつここに拠点を置いたかについてはよく分かりません。しかし15世紀には京極氏の筆頭家老となって勢力のピークを迎え、戦国期には浅井氏の家臣となっています。扇央部に位置する上坂氏館の水堀には、扇状地上を灌漑してきた郷里井の水が流れ込んでいます。ここからは郷里井からの灌漑システムと扇状地の開発と上坂氏の居館水堀の出現は同時期の工事で連動していたことがうかがえます。このような灌漑用水路と微地形・居館との関係は、前回に見た中世前期の出雲井と大原氏館と段丘下位面開発の構図と同じ手法です。当時の開発プロジェクトの柱となっていたことがうかがえます。
 上坂氏館の年代については、発掘調査がおこなわれていないためよく分からないようです。

上坂氏舘と
               上坂氏居館跡(長浜市東上坂)
しかし、中世後期には上坂氏が郷里井の支配に携わっていたことは確実です。地元では、郷里井は14世紀に上坂氏が開削したものと伝えられています。ただし、郷里井の工事年代年については、その灌漑エリアに10世紀初見の東大寺領「上坂郷」が含まれています。そのため扇状地を開発する用水の原型は東大寺によって、中世前期に開削されていたことも考えられます。そうだとすると、10世紀の東大寺の基本計画の上に、14世紀になって上坂氏による再開発・拡張工事を実施したことになります。

姉川の郷里井と扇状地
          姉川扇状地と郷里井灌漑エリアの関係 
上の図で以下のことを確認しておきます。
①姉川扇状地の上部と郷里井の灌漑エリアは、ほぼ重なること
②郷里井の灌漑エリアは、さらに西側に伸びて二ヶ所張り出した部分があること。
③この張り出しエリアが、北の榎木村南部 と南方の七条村南部。
④両エリアは、もともと扇端部の小規模湧水を利用していたが、郷里井完成後に供給エリアに含まれた。
 つまり、もともとは榎木村や七条村は、湧水のみで狭いエリアの灌漑が行われていたようです。それが郷里井からの灌漑網が整備されて取水量が増大したことを受けて、水田開発が一気に進んだようです。こうしてふたつの村は、井堰灌漑エリアにに取り込まれていきます。よく見ると、この二つの村には、それぞれ居館主導型集村が形成されています。研究者が注目するのは、どちらも郷里井からの幹線用水路が連結される接続点に立地しています。そして集落域内部の居館立地は、用水路の分岐点に当たっています。ここでは居館領主が郷里井灌漑網の結節点を握っていたことを押さえておきます。つまり、上坂氏の周辺郷村の支配拠点として配置されているように見えます。

中世居館と井堰型水源4
居館の水堀を経て下流に用水が提供されている
これら二つの居館主導型集村の中で、 居館遺構がよく残っているのが七条村です。
『農業水利及土地調査書』には、七条村の灌漑には、郷里井 の水 にプラス して小字「養安」にある小湧水が補給水として使われていたと記されています。この小字「養安」は、居館遺構上にある一町四方にあたります。そしてこの湧水は居館の水堀の一部となっています。

滋賀県郷里井堰2
 もう一度、郷里井堰からの灌漑網の地図を見てみます。 
郷里井からの幹線用水路もこの比地条村の居館の水堀に向けて接続されています。地元に残されている慣習には七条村では、村中総出で居館の水堀さらいが行なわれてきました。これを「花戸の井立て」と呼んでいたと伝えられます。「井立て」とは、用水路の修築のことで讃岐で云う「井手さらえ」のことでしょう。つまり、井手(用水路)は居館の主人たちの力で作られ、それで用水が供給されるようになると、百姓たちはその管理・維持に積極的に関わっていく姿が見えてきます。これは、居館主人からすれば、灌漑用水の管理運営を通じて、惣村への影響力や支配力を強めたことになります。言い換えれば、「水の支配を根拠とした居館領主の村落支配」と云えます。そこには、小さな湧水(出水)や溜池などに頼っていた村落が、新たに建設された大規模な井堰灌漑の水利集団に組み込まれていく姿が見えてきます。
中世郷村と用水路
井堰からの水が遠くの村々にも用水路で導かれていく
 これは丸亀平野でも見えた光景だと私は思っています。丸亀平野にも「地域毎の個別の水源=村落内で完結的灌漑システム」段階から、地域を越えた大規模水利集団への参加という段階への移行期があったはずです。ここで大きな力を持つのは、井堰を支配する在地領主(居館主人)です。彼らに背くことは、水の供給を止められることを意味します。水を支配する者が地域を支配するのです。また、上流と下流の水争(水論)が始まります。そのための水利調停も必要になります。その場合も、居館領主が水利調停者としての役割を担うことで、支配力を強めていきます。
灌漑用水網と居館群

用水流末の七条村、榎木村だけでなく居館型集村が用水沿いにあります。井堰から水を引く場合に、「井頭」である国人領主との間に立って水利調停に当たっていたのは、公文などの村落指導層だったでしょう。この場合には、居館領主は、次のように「水の支配」を通じて支配力を強化したことが考えられます。
①国人領主は、旧来の村落領主(名主層)を次第に被官化していったこと
②新たに組み込まれた用水末端の村落では、惣領家の庶子がやってきて新たな村落領主層となっていったこと
③庶子・被官達は、用水権益の分配にあずかれることを武器にして、村落内での指導権を獲得していったこと
用水を掌握していた居館の主人たちは、14世紀前後の村落再編(集村化)の際にも支配力が強く、居館を核とした集住化を主導できたこと。これが居館型集村の形成につながったことを押さえておきます。このような上に立って、まんのう町吉野の大堀居館について、つぎのような仮説を私は考えています。
大堀居館と潅漑施設

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻
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