近世の金毘羅関係の史料を見ていると、京都の九條家がよく登場してきます。その多くが金毘羅側への経済的な無心であり、無理難題などとして記録に残っています。九條家というのは京都九條家のことで、五摂家の一つで幕末には関白を勤めていました。しかし、江戸後半期の五摂家は経済的に窮乏していたようです。その九條家の財源確保ために金光院に興行を押しつけてきたのが「富くじ(九条富)」でした。その成立の経緯を、今回は見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 近世202P 九條家と金毘羅」です。
まず、金光院と京都の朝廷や公家たちの関係がどのように始まったのかを見ておきましょう。
初めて禁裏御料から金毘羅へ初めて祈疇の申し付けがあったのは、元文元年(1736)4月で、金光院八代・宥山の時です。これは名誉なことなので、そのお礼に「献金」が行われます。献金が行われた寺社は経済力のある寺社なので朝廷や公家は、さらなるつながりを深めようとします。こうして、金毘羅大権現には、正・五・九月には宝札の献上が求められるようになります。それを継続的に行うと御撫物や法印が下賜されるという手順になります。このころの朝廷や公家たちは、このような活動で貧しい台所を賄っていたようです。
金毘羅大権現に対しても次のような物が下賜されるようになります
寛保3年(1743)から御撫物の下賜、宝暦3年(1753)12月に宥弁が法印に叙せられる
その延長線上に勅願所・日本一社の綸旨の下賜があったと私は考えています。こうした中で、九條家とその門流は、金毘羅に金銭の無心を繰り返すようになります。その最たるものが、金毘羅における九條富の興行です。
京都御所の南側にあった九条家
九條富に至る金毘羅金光院と九條家の関係を見ておきましょう。
髙松藩初代藩主松平頼重のおかげで、金光院は330石の朱印地の小領主として統治権を持つようになります。しかし、現実には高松藩寺社奉行の支配を受けていました。そんな中で高松藩三代藩主松平重豊の室は、正親町家の出であった縁で、宥山は正親町家の猶子となります。そして宝永6(1709)年に権僧正に昇進し、初めて客中に参内して拝天顔の例が開けます。
宥山(実家山下家)の妹キチは菅家に嫁ぎ、その長兄菅長司は、九條家の諸太夫信濃小路家の養子となっていました。その菅長司の弟が金光院九代住職宥弁となります。これを受けて長司は、九條家を通して前関白近衛家久、関白二條吉忠の許しを得て、宥弁の官位を仁和、大覚両寺から離れて直任叙とすることに成功します。以後これが金光院の格式となります。さらに、長司は宥弁を鷲尾前大納言の猶子として金光院の格式を高めます。宥弁後の金光院歴代別当と、九條家につながる縁故の家々との猶子縁組(なほ子のごとし=あたかも実子のようである関係)について、町史ことひらは次のようにまとめています。
十 代宥存(1761~87年)、 姉小路大納言十一代宥昌(1788~99年) 油小路前大納言十二代宥彦(1799~1811年) 甘露寺前大納言十三代宥慎(1811~13年) 鷲尾頭丼十四代宥学(1813~13年) 綾小路中納言十五代宥恰(1814~24年) 甘露寺前大納言十六代宥天(1824~32年) 甘露寺前大納言十七代宥日(1832~36年) 甘露寺前大納言十八代宥黙(1827~1857) 葉室前大納言一九代宥常(1857~明治元年) 甘露寺中納言
以上のように金光院別当は、京の九條家につながる門跡と猶子縁組を結び続けています。これは「父と子のごとし」で、父である九条家の云うことは、子である金光院院主は聞かなければなりません。歴代之金光院院主の官位は勅任となる名誉をもたらしたのは父なる九条家です。九条家のためには、子としてある程度の無理難題にも応えなければならないとされてきたのです。こうして、このような関係の上に立って、「九條富」の実施という見返りを金毘羅に求めてくるようになります。それを年表化して見ておきましょう。
文化13(1816)年 9月28日。九條家の日夏筑前介より、金毘羅万福院・菅納丈助・矢野延蔵に「九条家御講寄付」の申出あり。しかし、幕府が禁止する富くじと同様のものなので断る。
ここからは、この頃に九条家が金昆羅富興行を行う事を目論んでいたことが分かります。そして、以後はしきりに、九条家御用人日夏筑前介・入江斉宮という人物が出入するようになります。
文政7(1824)年8月2日。京都九条殿が金ぴら御代拝として佐々木高正を讃岐へ下向させる。文政8(1825)年9月 九条殿富興行を金びらに行う。十ヶ年の期限つきで許可。同年11月25日 初興行。九条殿大般若経御寄付のため万人講開催。
初興行の寄高は四十五十二枚の「文句富」で、入札一枚に付、銀六匁。この売り上げの3割が御用金として差し引かれて九条家に上納されることになります。
次の史料(金刀比羅宮史料第十九巻)で以上を裏付けておきます。
九條殿御富、当初金毘羅にて御興行の事として前々より御懸合これ有り候え共出来申さず処、大般若御寄附と御申立て、右御祈薦料として米御寄附に相成り、右御米入札を以て御払なされ候段、之表にて文政八酉年霜月より、初めて金山寺芝居土地にて出来申し候事
意訳変換しておくと
九條富を金毘羅で行う事については、当初はいろいろな懸念・障害があって実施することができなかった。そのような中で九條家より大般若経の講として寄附のための祈薦料という名目で行う事が提案され、(これで髙松藩にも暗黙の了解を得て)、表向きには「御米入札」という形で、文政八年霜月から、金山寺芝居が行われる場所で興行されることになった
開催決定に至る9年前の文化13年(1816)9月から、九条家は御講(富くじ)開催の交渉に諸太夫日夏筑前介を金毘羅に常駐させて、金毘羅当局との交渉に当たらせています。金毘羅当局は、万福院や矢野延蔵が対応します。金毘羅側では当初は、幕府の富くじ禁上の余波の中で、高松藩へ配慮して実施について前向きにはなれなかったようです。そのため「富同様の御仕方に付、差し障りがあるのでよんどころなくお断りに及んだ」とあります。
しかし、それでも九條家は引き下がりません。交渉はその後も断続的に継続して行われ、高松藩の暗黙の了解をなんとか取り付け、9年後の文政八年(1825)9月に裁可が下ります。それも十か年の期限付きで、同年11月25日の初興行に漕ぎ着けます。こうして10月8日には金毘羅社領に次のような立札が建てられます。
九條殿御寄附大般若講御米入札来る十一月二十五日社領に於て興行御座候事
これが金毘羅門前町での「九條富くじ」の初めての興行告示になるようです。
金毘羅の富くじは「九條富」とか「金毘羅の千両富」と呼ばれていました。
約60年後の元治元年(1884)五月に、金光院政務所で書き留めた「九條殿御寄附大般若講一件留記書抜」と「文政年間講一件始末」によって見ておきましょう。
最初の大般若講の興行時の寄高は4053枚で文句富。その銀録は入札一枚につき銀六匁で、寄高一万について、寄銀高の内3割が御益諸人用となる。壱 番 銀壱〆八百目拾 番 同壱〆二百目廿 番 同番大節 一二拾番 銀七〆弐百日四拾番 同壱〆弐百目五拾番 同断乙錐 六拾番銀弐〆七百六拾目間々同四百八拾目右割合を以て寄高ニ応じ配当仕り候興行の開催月は、正月・2月・4月・11月・12月の年六回会日はその月の25日が講会日、当りくじ銀度しは翌日、富会所(内町)で渡す。
これだけでは富くじの仕組み・計算・運営方法については、史料がないのでよく分からないようです。

そこで金毘羅と同じように、社寺門前町で栄えた安芸の宮島の富くじを見ていくことにします。

宮島(厳島)の「大束(だいそく)富くじ場跡
そこで金毘羅と同じように、社寺門前町で栄えた安芸の宮島の富くじを見ていくことにします。
宮島では古くから国守免許の下に、毎年六回宮島奉行所で富くじが開かれていました。その仕組みは次の通りです。
口入(くにゅう) 兵庫・長崎・鳥取その他各地に世話人あり、口入は募集札を取回る役目。凡そ二十四名。口屋 口入が持かえりたる札を整理する。仲買役名。銀座 口屋より持込む富札銀を取引し、 一般富くじの銀行の如き役所。富座 銀座より領収印ある駒札を取集め、奉行所立会開票す。諸役人凡そ弐百人あり。一回の募集十万国以上の時は、 一・二・三の組を同時に開く。富の計算(推定) 銀八百五十貫、 一口手取八匁目の十万□、 一口分。内訳 弐百貫目大束作業員。三百七十貫目、当りくじ百七本分。壱等賞は大束五十万束として、正銀百貫目を渡す。壱貫目は米三石の価格なり。六十貫目、役所費。六十貫目、住民一戸へ毎月三十目づつ御手当金、但し後家は二十目三十貫目。興行物、鹿の手入れ、町役人、米守級銀差引、 二百二十貫 国守運上銀
大束とは、たき木の大たばのことで、これを入札するという形で富くじが行われています。広島藩が富くじを免許していたのは、寺社の運営資金を賄うだけでなく、藩財政に編入して役立てるためでもあり、人寄せの手段とし芝居興行のプラスにもなると、資金を出して扶助していたとされます。ここでは、富くじには様々な利権と目論見があったことを押さえておきます。
富つきの場面(当選木札の決定方法は、富箱の木札を錐で突く)
富箱に入った富駒(木札)を錐で突き、当せん番号を決めています。見物人たちは「当りはせっしゃで御座る」などと言い合っています。もともとは富突きは、神社の御守を授与する時の抽せん方法で、17 世紀中期頃から、摂津国箕面の瀧安寺や山城国の鞍馬寺などで行われていたようです。それが江戸や上方でギャンブルとして興行化されブームとなります。これに対して幕府は、享保年間(1716 ~ 36)に富突き禁令を出しています。
②木駒の番号と口名(例えば高砂口)が書かれた「番号諸口(紙の名)」
③加入者は合鑑紙を受け取り、これに自分の思う文句を書き入れて、自身が持参するか、口入(仲介人)に託する
④費用は、一口藩札10文で富座に交付され、合鑑紙に富座の検印を受け、会の終了後まで加入者が保管
⑤木駒は富座で合鑑紙と同一の文句を記入し、これを巨大な箱に入れて、富座晴れの場所で、小童の錐で桶の小突から木駒を突かせる。
⑥親の十貫目が当たるか、次ぎ親の六貫目が当たるか、または掛金全部を投棄するか、
⑦先に富座へ渡した一口十匁の中で、二十分の一(五分)を奉行所に納め、残る九匁五分をもって加入者当たりの者への分配金となる
熊本藤崎社の千両富場之図
金毘羅の富くじの益銀の分け前は、当初は「金毘羅:九條家=3:7」の割合でした。
これは九條家の音頭で始まったからでしょう。しかし、場所と機会を提供する金毘羅の発言力が次第に強くなり、配分は5:5の均等配分に改められます。それがさらに認可権を持つ髙松藩が入り込み「金毘羅3:九條家3:髙松藩4」の配分になります。それではどれくらいの利益があったのでしょうか。それがうかがえるのが金光院日記で、次のように記します。
「日帳」の同年十一月二十七日の条に、九條家出役人入江丹宮へ、近年の一年分を平均として御講益金一五〇両、九條家役人中祝儀二十一両、出役祝儀九両の口演書を渡した。
大般若講高松上納一、十一月七日 金七両一、十一月二十二日 二十五両右両度の御益、今日普門院出府に付相頼み遺し候事。但し去ル文政十二年十月より、当天保五年十月会迄納高七百三十二両也。
ここからは文政12(1829)年10月から天保5(1834)年までに732両が九条家に渡されたと記されています。さらに、再延長が決まった天保6(1835)年2月27日条には、次のように記します。
一ケ年 一銀弐貫也髙松へ年々四月ニ相納候筈ニ成右は九條殿御寄附大般若講入札指引詰残銀の内、寺社御役所へ相納候筈二、高松出役吉田甚介殿より寛又蔵殿へ申達し御聞き届に相成り候二付、午年(天保五年)分より相納候事。
意訳変換しておくと
一年に銀2貫を、髙松藩へ年々4月に納入することになった。これは九條富(九條殿御寄附の大般若講の入札指引詰)の延長に絡んで、高松出役の吉田甚介殿から寛又蔵殿への申し出を御聞き届いただいたことに伴うもので、午年(天保五年)分より上納する。
天保六(1835)年十月十三日の条には、次のように記します。
九條殿御講当会より、定小屋にて興行に相成候事。但し、当月より前会は番札壱万詰、後会は文句入に相改め候事、月に二回も興行に相成る也。代官技茂川杢之助、警固伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄り井上太郎左衛門。右御講の日は、入札相済み候迄芝居相休みに成る也。木戸回へ九條様御紋附きの御幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱飾り同所にて開札致し候。御用人は西側桟敷に罷有り候。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山の御幕張る也。高張りも勿論□の也。年寄りは自分の高張用ゆる也。
当会より番札壱万詰に相成り、申(七年)の四月会迄番札、文句一度替りに相成り、申の五月十日会より亥(十年)の十二月会迄都て番札に相成り、結の義は壱又は弐万、五万迄。時に繁栄によって高下これ有り候。会日は月々弐回宛興行これ有り候。番札弐万結の割銀録別紙これ有り候。番札略す。
意訳変換しておくと
九條殿御講は今回から常設芝居小屋(金丸座)で興行することになった。そして、月2回の興行となった。月前半の前会は番札壱万詰、月後半の後会は文句入に改められた。役割は代官・技茂川杢之助、警固・伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄・井上太郎左衛門。富くじの日は、入札(当選発表)が終わるまでは芝居は休みになる。木戸には九條様御紋附きの幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱を飾り、そこで開札を行う。御用人は、西側桟敷に座る。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山金毘羅の御幕を張る。高張りも□の也。年寄りは自分の高張を使用する。
今回から番札壱万詰になり、七年四月会まで番札、文句一度替りに改まった。申の五月十日会から亥(十年)の十二月会まですべて番札で行うことになる。結の義は壱又は弐万、五万まで。その時々の集客で売上高に上下はある。実施回数は、月2回となった。。番札弐万結の割銀録の別紙もあるが、これは略す。
ここからは九條富が金山寺町に新設された常設の芝居小屋(金丸座)で、行われるようになったことが分かります。
しかし、芝居小屋は、もともとは富くじの常小屋のために建てられたのであって、芝居は「兼ねる」でないかとの説もあります。つまり金丸座は、芝居小屋ではなく富くじの当選発表の場所として建てられたというのです。確かに、芝居興行は収益的には赤字で、それを遊女たちの基金で穴埋めしていたことは以前にお話ししました。それに対して、富興行は大盛況で大きな利益をもたらしていたのです。富くじのために建てられたというのも頷けます。天保年間には、茶屋(遊女)・富くじ・芝居といった三大遊所が金毘羅門前町に整備されます。これが金毘羅の賑わいにますます拍車をかけました。
しかし、芝居小屋は、もともとは富くじの常小屋のために建てられたのであって、芝居は「兼ねる」でないかとの説もあります。つまり金丸座は、芝居小屋ではなく富くじの当選発表の場所として建てられたというのです。確かに、芝居興行は収益的には赤字で、それを遊女たちの基金で穴埋めしていたことは以前にお話ししました。それに対して、富興行は大盛況で大きな利益をもたらしていたのです。富くじのために建てられたというのも頷けます。天保年間には、茶屋(遊女)・富くじ・芝居といった三大遊所が金毘羅門前町に整備されます。これが金毘羅の賑わいにますます拍車をかけました。
こうして富くじは、金毘羅当局にとっても重要な財源となっていきます。
天保年間の金毘羅は、このような財源をもとにして、巨大な金堂(現旭社)の新築にとりかかることになります。これは3万両という巨額の費用を要する大事業となり、約30年の年月を要します。それだけでなく金堂周辺の整備事業も同時に進めます。この資金はいくらあっても足りません。
このような中で10年間の期限付実施の九條富の終了期限が迫ってきます。金毘羅側にとって九條富は巨額の資金を生み出す集金マシーンとしてなくてはならない存在になっていました。これを手放すことは考えられません。そこで、今度は金毘羅側が積極的に延長を髙松藩に働きかけていくことになります。
天保6(1835)年十月満講になった九條富について、さらに十年延年になったことが高松藩寺社方から金光院に伝えられた文書を見ておきましょう。
一昨日九條様御寄附大般若講御延年相済み候。左の通り寺社方より申し来り候。一筆令啓上候、御社領二於て九條殿より御寄附の大般若講富十月二て満講に相成り候処、今拾ケ年相催しされ度御同所より御頼みに付、なお又当十一月ょり来る己の十月迄拾ケ年の同年迄、御申立の通り相済み候間、左様御心得成されべく候。恐慢謹言七月二十七日 寛 又蔵金光院天保七年(一八三六)三月十日、九條様御講会但し番札三万枚詰となる。出張菅納実。
意訳変換しておくと
一昨日、九條様御寄附の大般若講の延長について、髙松藩寺社方より以下のような連絡があった。金毘羅寺領で開催されている九條殿から寄附された大般若講富は、この10月で10年の満期となる。これについて、10年間の延長申請が出されていたが、11月からの十年間の延長を認める。左様御心得成されべく候。恐慢謹言七月二十七日 寛 又蔵金光院
これを受けて3月16日には、九條家の家人日夏筑前介が九條様御代参として金毘羅にやってきます。
これが新たな分け前の分配比率の交渉だったのでしょう。その結果が「金毘羅3:九條家3:髙松藩4」の配分となったようです。延長権限を持つ髙松藩の取り分が一番多く、残りを金毘羅と九条家で折半する形になっています。
こうして翌年11月10日より、それまでは書版札が使われていたのが、初めて富札版本刷りで実施されます。また、それまでは年6回の開催でしたが、延期後は年12回開催と倍に増やされます。こうして天保6(1835)年4月10日から御講五・六・七月も休まないことを発表し、10月13日には、新しく建設された常設の芝居小屋(現金丸座)で講会が興行されます。
金毘羅の九條富の上り札文句札(文政5年)こうして翌年11月10日より、それまでは書版札が使われていたのが、初めて富札版本刷りで実施されます。また、それまでは年6回の開催でしたが、延期後は年12回開催と倍に増やされます。こうして天保6(1835)年4月10日から御講五・六・七月も休まないことを発表し、10月13日には、新しく建設された常設の芝居小屋(現金丸座)で講会が興行されます。
延長された3年後に、事件が発生します。
天保9(1838)年12月4日、大坂の同心が金毘羅にやってきた帰りに「備中辺にて、福引銀の売札(九條富)を扱った者を召捕えた」との話が伝えられます。金比羅当局は、この情報をすぐ京都の九條家に伝えています。これを受けて、翌年4月講を一時休み、五月以降の富興行には九條家の称号を外すことにします。そうするうちに九條家からは、大坂役所の取り調べが進み、交渉が大変難しいとの知らせが入ります。つまり、金毘羅の九條富は幕府の禁令に違反するという嫌疑です。
12月22日になると、大坂木戸役の者が阿州へ下る途中に金毘羅に立寄り、講を見咎めて駒台(将棋で取った駒を置く台)、錐帳面、銀子に封印して町役人に預けます。金毘羅当局はこれを直ちに高松藩に届け出ています。それに対する髙松藩の回答は、次の通りです。
「九条富は、九條家と金毘羅との相談で行われてきたできたことだから、藩としては知らない体にする」
髙松藩は、利益の4割を受け取っていながら問題が生じたときには見てみぬ振りで、そちらで解決せよという態度をとります。金比羅側は翌年1月6日に、役人を高松へ遣わし、「この度の一件、金毘羅でなんとか解決するよう努めてみるが、どうしてもうまくいかないときは、相談にのってもらいたい」と申し出て了解を得ています。
その四日後に、大坂同心古川杢右衛門がやってきて、講元鶴田屋卯兵衛、山尾直之進などの講係りの者を呼び出して吟味取り調べが行われます。さらに7月には講元、講係りの者が大坂奉行所へ呼び出されます。「文政年間講一件始末」には、次のように記します。
(前略) 翌年七月九日、大坂に於て講元ほか掛りの者共左の通り仰せ付けらる。講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進其方共諸堂傾覆のため大般若と相唱え、昨冬富博変以寄りの義相い企て申し候由、尤も自分得用にて仕まつらず共、右相い斗り候段不届の次第、これに依り過料五貫文ヅツ申付け候。跡掛りの者共右同断二て過料三貫文ヅツ申付け候。右の通りの御裁許二て過料相納め候ハバ、勝手次第国元へ引取り候申し渡す。
意訳変換しておくと
1840年7月9日、大坂奉行所で講元の他、関係者に次のような処分が下された。講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進その方どもは、堂修復のためと大般若経を唱え、昨年冬に富くじ講を組織した。これについては、私的利益のためではないと云え、幕府の禁止する富くじを行ったことは不届の次第である。よって、五貫文づつの過料を申付ける。残りの関係者についても同断で過料三貫文を申付ける。この裁許に従って過料を納めれば、勝手次第に国元へ引取ることを許す。
この判決を見ると、講元と関係者が罰金刑に問われただけの裁きとなっています。金光院に対しては、なんのお咎めもありません。これを受けて金毘羅当局は、7月21日に髙松藩に一件落着の報告をしています。こうして九条富は、大阪奉行所の摘発を受けて興行停止となります。九條富が行われたのは19世紀前半の十数年間のことでした。
それから13年後の嘉永5年(1853)11月、金毘羅の役人山下周馬が高松藩に出向いて次のような申請を行っています
九條家では御講(九條富)が中絶以来、経済均にひときわ難渋しています。その上に、姫君の御入内のことが決まり、莫大な費用が必要となっています。ついては、金毘羅に対して九条家より次のように申し入れがありました。一、大塔建立を申し立てて、益金が九條家へも入るよう取計らう。二、 一〇〇〇両、二〇〇〇両の調達、融通する。三、九條富の再興をす。この三か条のうちのどれかをお聞き取り願いたいとの強い申し入れがあった。金毘羅としては、一、二件は到底受け入れることはできないので、講を再興する以外ないと思うので、何卒お許し願いたい
これについては、12月に髙松藩寺社方から「聞き届け難い」との返事が届きます。
さらに10年後には文久2年(1863)正月、最後の金光院主となる宥常は年頭挨拶に高松に出向いた際に、次のような「御内談覚書」を提出して、許可を願いでています。
昨今善通寺が丸亀藩の許可を得て、大般若講同様の九條家寄進の護摩講と名付け講会を催している。金毘羅社領でも御講(富くじ)を再開したい
これに対する髙松藩の解答は次の通りです。
「近年は京都警護の人数も差し出しており、武備の手当も整い難いので、お聞き届けできない」
翌年の元治元年(1864)4月にも、御用向きのため役人を高松表へ遣わし、御講再会について次のように願いでています
「毎度御内談願っているが、近くは丸亀領善通寺も興行あり、其外向地辺の予州今治領三嶋にても、砂糖入札と称して近年興行しており、金毘羅が中絶のままでは町の繁栄にもかかわる」
さらに翌五月にも御講一条について、次のように願いでています
「御講一条入割も委敷相話し候虎、何様□□公辺御制禁の義に付、六ケ敷由中され、併せて御重役中も段々替り、時勢も替り候開、いかがこれ有るべきや篤と勤考致すべく由
これに対して、高松藩取次杉止喜次郎から金光院表役菅納□左衛門への回答は次の通りです。
「嘉永五子年並びに文久二成年二も御答への通りで、九條様よりお申し立てがあっても、御断りになられるように」と、残念なことではあるがとの返事があった。
髙松藩は、九條富の再開を認めることはありませんでした。
以上をまとめておきます
①18世紀以後、金毘羅院院主と九条家は猶子縁組を通じて関係を深めた
②猶子関係を背景に、九条家は金毘羅に経済的な無心を繰り返すようになり、その一環として「富くじ」興行を持ちかけた。
③金毘羅側は当初は及び腰であったが十年近い九条家の要請に押し切られる形で、髙松藩を説得し10年の期限付で開催が許可された。
④年6回の興行は大盛況で、多大な売り上げが九条家や金毘羅側に入るようになった。
⑤遊郭と富くじという集客マシーンが機能して天保年間の金毘羅大権現は大飛躍期を迎える
⑥10年の期限が来ると、延長を髙松藩に願いで許可されるが、その際には利益の4割を髙松藩が取り、残りを九条家と金毘羅が折半する形になった。
⑦盛況な「九條富」の開催場所として新たに建設されたのが金丸座であり、それが芝居小屋としても使用された。
⑧しかし、九條富開設から十数年後に大阪奉行所の摘発を受けて中止に追い込まれた。
⑨その後も、九條家や金毘羅は、何度も富くじ復活を髙松藩に願いでているが、許されることはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 近世202P 九條家と金毘羅
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