前回は承久の乱後に、新居氏が拠点を新居郡から桑村郡に移し、勢力回復を図ったこと。その際に、観念寺が氏寺として、一族の団結機能を果たすようになったことを見てきました。今回は、新居氏についの「研究史」を見ていくことにします。
予州新居氏系図
続いて、新居氏についての今までの研究史を押さえておきます。
平安後期の新居氏の根本史料となるのが『与州新居系図』です。
系図というのは、家柄を誇示するための虚構や仮託が多く、歴史の史料としては、信頼が置けないものが多いとされます。しかし、この系図は、成立事情や成立時期がはっきりしていて歴史的価値のきわめて高いと研究者は評します。作者は、越智郡高橋郷に生まれ、鎌倉時代に東大寺の高僧となった凝然です。彼が故郷の伊予に帰った際に、自分の一族の系譜を諸種の資料にもとづいてまとめたものといわれ、正応年間(1288~92)ころの成立とされています。その成立年代の古さから『海部氏系図』・『和気(円珍)系図』と並んで日本三大系図とされるようです。紙背の消息の筆跡についても、その芸術的価値が高いと評価されています。昭和7(1932)年に伊曽乃神社に奉納。昭和27(1952)年3月29日重要文化財に指定。
予州新居氏系図(西条市伊曽乃神社)

①右上部分 家祖とされている為世に経世・宗忠・為永・季成の四子があり、第四子の季成流が一族発展の中心となる。
②四男季成には国成・頼成・為成・吉成の四子があり、そのうち吉成流のみは大きく発展することはなかったが、
③残りの三流は、それぞれ伊予国内の各地に所領を拡大し、武士団を成立させていった
④真ん中最上部の国成流は、初期には越智を名乗る者が何人かあり、ついで高市を名乗る者が多くなる。
⑤ここからは、越智郡内の高市郷(今治市)を拠点として発展していったことがうかがえる。
⑥後になると、高市氏のなかから近江・御谷・吾河を名乗る者や、石井・井門・浅生を名乗る者が出てくる
⑦ここからは高市氏の中に伊予郡や浮穴郡へ進出していった者がいたことがうかがえる。
⑤ここからは、越智郡内の高市郷(今治市)を拠点として発展していったことがうかがえる。
⑥後になると、高市氏のなかから近江・御谷・吾河を名乗る者や、石井・井門・浅生を名乗る者が出てくる
⑦ここからは高市氏の中に伊予郡や浮穴郡へ進出していった者がいたことがうかがえる。
⑧頼成流は、大部分の者が越智を名乗っていて、他地域への進出がほとんどみられず、越智郡内での支配強化をめざした。
⑨最も大きな発展をとげたのが為成流で、新居氏を名乗って新居郡に本拠にした。
⑩新居郡から、周布・桑村・吉田等周敷・桑村両郡(現在の周桑郡・東予市)に進出していった者、拝志・高橋・英多等越智・野間両郡へ進出していった者のふたつの流れがある
このような様子を地図の上に図示したのが下図です。
⑩新居郡から、周布・桑村・吉田等周敷・桑村両郡(現在の周桑郡・東予市)に進出していった者、拝志・高橋・英多等越智・野間両郡へ進出していった者のふたつの流れがある
このような様子を地図の上に図示したのが下図です。
①新居氏は、平安末から鎌倉初期にかけて、越智郡を中心にして、西は浮穴郡から伊予郡、東は周敷・桑村両郡から新居郡にまで支配を拡大していった
②同時に、新居氏は国衙在庁への進出も精力的に行った。
続いて、新居氏についての今までの研究史を押さえておきます。
A 田中稔氏は、河野氏を中心とした伊予国の御家人を分析し次のように述べています。
①平安時代末期の伊予国では新居氏が越智郡以東に勢力範囲を持っていた
②これは風早郡以西に勢力を持つ河野氏と対立関係にあった。
①平安時代末期の伊予国では新居氏が越智郡以東に勢力範囲を持っていた
②これは風早郡以西に勢力を持つ河野氏と対立関係にあった。
B これを発展させた山内譲氏は、次のように述べます。
①新居氏や別宮氏は、越智氏の伝統的な勢力を背景として成長してきた新興武士団である。
②系図の分析から新居氏の勢力範囲は越智郡以東と道後平野南部である。
③これは越智郡から伊予郡を勢力範囲とする河野氏と対峙する関係にあり、有力在庁として競合しただけでなく、在地支配をめぐっても競合関係にあった
④系図中の国流(高市氏)の盛義に「清盛烏帽子子」とあることなどから、平氏と新居氏は提携関係にあった。
⑤治承寿永の内乱に際し、河野氏は自らの勢力伸張のため、新居氏とその背後の平氏打倒を目指して挙兵した
C これに対して久葉は、次のように述べます。
①「新居系図」で新居氏の祖とされる国成流 (高市氏)は中央への積極的な進出が見られ、平氏と密接なつながりを持っていた
②一方、為成流(新居氏)は、中央への進出があまり見られない。
③惣領盛信の女が河野通信の室となっている為成流を分けてとらえるべきだ。
④平氏方として河野氏と対立関係にあったのは国成流であり、為成流はむしろ河野氏と同盟関係にあっえます。
⑤新居郡新居郷を本拠としたとみられる新居氏の居館を現在の新居浜市久保田町付近に比定
⑥新居氏が鎌倉時代に「先祖開発重代相伝之地」と主張する「諸郷散在得恒名」の分布と新居系図からうかがわれる為成流の分布が重なることから、得恒名が為成流の根本所領であった
⑥新居氏が鎌倉時代に「先祖開発重代相伝之地」と主張する「諸郷散在得恒名」の分布と新居系図からうかがわれる為成流の分布が重なることから、得恒名が為成流の根本所領であった
D 川岡勉氏は、次のように述べています。
①10世紀前後に国衙内への組織化が進んだ郡司豪族層の越智氏は、本宗家が次第に在地から遊離していった
②その一方で、「新居系図」によると一族庶流は本拠とする郷名を名字化し、積極的に郷を基盤とする方向に向かった
③国成流(高市氏)・頼成流((小千氏)・為成流(新居氏)の嫡流が代々大夫を称すること
①10世紀前後に国衙内への組織化が進んだ郡司豪族層の越智氏は、本宗家が次第に在地から遊離していった
②その一方で、「新居系図」によると一族庶流は本拠とする郷名を名字化し、積極的に郷を基盤とする方向に向かった
③国成流(高市氏)・頼成流((小千氏)・為成流(新居氏)の嫡流が代々大夫を称すること
④一族分化の激しい為成流の庶流の中心となる者が大夫を称し、「兄部」に任じられていること
⑤ここから彼らは国街の各「所」の兄部として国務を担うようになったこと
⑥新居氏全体が平氏の家人化したとする山内氏の説、国成流(高市氏)は平氏の家人化したが、為成流(新居氏)は河野氏と行動を共にしたとする久葉の説に対し、為成流も、嫡流盛信の「盛」が清盛の偏諱を受けた可能性があること、治承寿永の内乱後に兄部を称する者がいなくなることからして、基本的には平氏の側に立ったとする見方を示した。
⑥新居氏全体が平氏の家人化したとする山内氏の説、国成流(高市氏)は平氏の家人化したが、為成流(新居氏)は河野氏と行動を共にしたとする久葉の説に対し、為成流も、嫡流盛信の「盛」が清盛の偏諱を受けた可能性があること、治承寿永の内乱後に兄部を称する者がいなくなることからして、基本的には平氏の側に立ったとする見方を示した。
「新居系図」以降の新居氏について
勢力を伸ばした為成流新居氏も、承久の乱に際しては河野氏とともに京方として戦います。その結果、多くの所領を失ったようです。南北朝期に確認できる為成流新居氏の所領は、周敷・桑村・越智の三郡に限られるようになります。そのため本拠としていた新居郡新居郷を失って桑村郡に移り、観念寺を一族の氏寺として、ここを中心に勢力の維持・再建を図ったと研究者は考えています。
「新居系図」以降、鎌倉時代末期から室町時代にかけての為成流新居氏の動向は、観念寺に残された古文書からうかがうことができます。南北朝期、国府を有する越智郡は南朝方の勢力が強く、 東部の宇摩・新居両郡は阿讃に勢力を持つ足利一門の細川氏の影響力が強くなります。この結果、新居氏の勢力の中心であった桑村周辺には、東西からの勢力の圧迫を受けて次第に衰退していきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史
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