観念寺には、61通の寄進状・寄進坪付注文、8通の観念寺宛の清却状が残されています。また、寺領注文には、122筆の寺領が書き上げられています。これを整理したのが、次の表です。これらを手がかりにして、観念寺の寺領復元を見ていくことにします。テキストは「川岡 勉 南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会2006」年です。
寺領注文の冒頭部に出てくるのは①山林です。
これによると、山林はつぎの3つに分類されています
これによると、山林はつぎの3つに分類されています
a 寺内山林分b 樺山前後山林分c 吉岡界分
この寄進順は、a → b → c となります。
aは「寺内山林分」とあるので観念寺に近接した山林で、尊阿がこれを寄進したのは、正応5年(1292)前後のことのようです。aの四至北限は「庄界」とあります。これは隣接する安楽寿院領吉岡荘との境界部分で、cの吉岡界分に当たります。吉岡荘は、大明神川の上中流域を荘域とする天皇家の荘園で、鎌倉末期には164町5段290歩の田地を有しいたことが史料から分かります。
観念寺寺領分布図
bは観念寺の背後の尾根線上にある樺山を西限とする山林です。東限が「尊阿寄進」とされているので、aの西側にあったことが分かります。寄進者の一人は「壇上殿」とあり、延文2(1357)年に「桑村本郡内恒名山地等」を寄進した越智信高のことだと研究者は考えています。この寄進状からは「山地一所」とあり、bのうちで樺河以西の山林が信高により寄進されたことが分かります。もう一人の寄進者である土佐殿は、正平15年(1360)に「桑村本郡内得恒名山野地等」を寄進した人物です。bの樺河以東の部分を寄進した人物のようです。
cについては、北限が吉岡河原、南限が得恒とあります。古岡川(大明神川)以南で、得恒名以北の山林を指すようです。これを寄進した五人のメンバーを見ておきます
①筆頭の壇上殿は、biの寄進主体でもあった越智信高で、延文元年の寄進状にみえる人物
②2人めの土佐殿は、bⅱを寄進した人物ですが、寄進状が残っていないので寄進地がどこだったのかは分かりません。
①筆頭の壇上殿は、biの寄進主体でもあった越智信高で、延文元年の寄進状にみえる人物
②2人めの土佐殿は、bⅱを寄進した人物ですが、寄進状が残っていないので寄進地がどこだったのかは分かりません。
③4人目の得能越後殿は、正平15年の寄進状を残した越後守通居で、その寄進地は「吉岡庄内山野地事 四至田四段」と記されていて、①の信高の寄進地と同じ四至記載です。
④最後の越智一郎左衛門が、正平16年の寄進状を残した駿河守越智行増です。その寄進状には、次のように述べています。
「観念禅寺々領 山野地事 四至 右件山野等者、為古岡庄領家之間、所本寄進当寺也」
ここからその位置は、吉岡荘領家方に属し、西限はCの西限に一致し、東限は吉岡地頭方であったことが分かります。以上のデータを地図上に落としたのが上図です。 これをみると、観念寺背後の山林が広い範囲にわたって寺領とされたことが分かります。これは以下のように2つに区分できます。
c 吉岡界分が古岡荘内(領家方・地頭方)に含まれる山野地a・b得恒名の山林
ここでは観念寺に寄進された山林は国衙領部分(桑村本郡得恒名)を中核にして、吉岡荘との境界を越える部分を飲み込んでいたことを押さえておきます。
次の寄進者別に分類して見て見ましょう。
そうすると、「a寺内山林分」を寄進した尊阿の存在が大きかったことが見えて来ます。続いて、b・C共通の寄進者として名前のみえる壇上殿と土佐殿です。「壇上殿=越智信高」は、AとBに連署する三五名の人々の筆頭に署判している人物です。彼の署判の上部には「盛康方壇上」とか「盛康方新居」という注記がつけられています。ここからは彼が新居盛康の流れであることがうかがえます。
以上から、1340~50年代に氏人・一族の中心的存在であったのは、信高だったと研究者は判断します。
信高は、観念寺の裏山から大明神川北岸にかけての但之上の地に居館を構えていたので「壇上殿」と呼ばれたのでしょう。土佐殿については実名は分かりません。ただ「新居殿」とも呼ばれていることから、新居氏の一員であったことは確かです。このほかの寄進者を見ておきましょう。
そうすると、「a寺内山林分」を寄進した尊阿の存在が大きかったことが見えて来ます。続いて、b・C共通の寄進者として名前のみえる壇上殿と土佐殿です。「壇上殿=越智信高」は、AとBに連署する三五名の人々の筆頭に署判している人物です。彼の署判の上部には「盛康方壇上」とか「盛康方新居」という注記がつけられています。ここからは彼が新居盛康の流れであることがうかがえます。
以上から、1340~50年代に氏人・一族の中心的存在であったのは、信高だったと研究者は判断します。
信高は、観念寺の裏山から大明神川北岸にかけての但之上の地に居館を構えていたので「壇上殿」と呼ばれたのでしょう。土佐殿については実名は分かりません。ただ「新居殿」とも呼ばれていることから、新居氏の一員であったことは確かです。このほかの寄進者を見ておきましょう。
①越智行益はA・Bに連署して、署判部分には「越智」という注記があります。ここからは、彼が観念寺からは遠く離れた越智郡に居館をもつ人物だったことが推測できます。
②得能通居については、その姓から観念寺のすぐ南に位置する桑村郡の得能保を本拠地としていたことがうかがえます。得能氏は、河野氏の有力庶家として知られる一族で、中世初頭に新居盛信の女子と河野通信の間に生まれた通俊を始祖としています。得能通居も、河野氏に共通する「通」の字を含む名乗りであることからみて、その流れをくむ人物だったとしておきます。
以上のような人々の寄進によって形成され観念寺の寺領山林は、中世末期まで維持されます。明応7年(1498)の河野道基壁書と元亀3年(1571)の河野牛福禁制で、先規之旨に任せて寺家が進退すべきことが定められています。
①山林の記載につづいて、寄進・買得により集積された寺領田畠が書き上げられています。それが上図の②~⑩の部分で、総計122筆、面積は34町2段150歩にのぼります。そのほとんどが1~3段程度の小さな田畑で、広範囲に散らばっていたことが分かります。このうちで寺領の中核となっているのは、②③の部分(桑村本郡内の得恒名の田畠)です。
もともと、新居氏は新居郡新居郷を本拠地として台頭した開発領主でした。
それが承久の乱で河野氏に従って法皇側について負け組となっていまい、新居郡の多くの所領を失います。その対応として、新居郡から桑村本郡へ本拠地を移して勢力回復を目指したことは前回お話ししました。そのため観念寺が創建されたときも、桑村本部内の得恒名田畠を中心に寺領寄進がなされています。尊阿・円心・弥阿をはじめ新居氏の一族が得恒名の寄進者として登場します。ここからも得恒名が彼ら基盤であったことが裏付けられます。
それが承久の乱で河野氏に従って法皇側について負け組となっていまい、新居郡の多くの所領を失います。その対応として、新居郡から桑村本郡へ本拠地を移して勢力回復を目指したことは前回お話ししました。そのため観念寺が創建されたときも、桑村本部内の得恒名田畠を中心に寺領寄進がなされています。尊阿・円心・弥阿をはじめ新居氏の一族が得恒名の寄進者として登場します。ここからも得恒名が彼ら基盤であったことが裏付けられます。
得恒名田畠地は、桑村本郡だけでなく⑦古田郷・③池田郷・⑩拝志郷などにも分布しています。
得恒名は越智郡から新居郡まで東予一帯に広く分布していて、新居氏の「先祖開発重代相伝之地」として「関東六波羅殿大番以下諸公事等」を勤仕する対象地でした。新居氏が「諸郷散在得恒名」を本領としていたので、その寄進地も桑村本郡を中心に北は拝志郷から南は古川郷・池田郷まで、広い範囲に分布していることをここでは押さえておきます。
得恒名は越智郡から新居郡まで東予一帯に広く分布していて、新居氏の「先祖開発重代相伝之地」として「関東六波羅殿大番以下諸公事等」を勤仕する対象地でした。新居氏が「諸郷散在得恒名」を本領としていたので、その寄進地も桑村本郡を中心に北は拝志郷から南は古川郷・池田郷まで、広い範囲に分布していることをここでは押さえておきます。
④は窪久経・義清・善阿など窪(久保)一族による寄進田畑です。
窪氏の寄進地も桑村本郡に多いようです。しかし、安永名・守貞名・定則名などは、新居氏にはない名田畠の寄進です。観念寺にはこれに対応す久米義清寄進状が残されていて、そこからは久米姓をもつ近隣領主で、観念寺から南東約2㎞地点に「久保」という小字が残っています。近隣には久米氏による寄進田畑が多くあるので「万田里」があることと併せて、この辺りを本拠地とする一族であったと研究者は推測します。
窪氏の寄進地も桑村本郡に多いようです。しかし、安永名・守貞名・定則名などは、新居氏にはない名田畠の寄進です。観念寺にはこれに対応す久米義清寄進状が残されていて、そこからは久米姓をもつ近隣領主で、観念寺から南東約2㎞地点に「久保」という小字が残っています。近隣には久米氏による寄進田畑が多くあるので「万田里」があることと併せて、この辺りを本拠地とする一族であったと研究者は推測します。
⑤の北条郷内の田地は、寄進地は一筆だけです。残りの五筆はすべて三島地の買得分です。文和2年(1353)の越智通成清却状には、ここは「三島出作田」とされていて、本名主方へ年貢納入義務が付随しています。
以上から、観念寺領を研究者は以下の二つに大別します。
① 桑村本部の得恒名田畠を中核として、桑村本部の恒光名・恒正名田畠、田・池田・拝志郷などに散らばる得恒名田畠、②それ以外の部分
こうしてみると、観念寺が寄進や売買によって獲得した田畠は、大部分が国衙領です。桑村本郡の近隣には、安楽寿院領吉岡荘・鴨御祖大神宮領吉岡荘・祇園感神院領古田郷などの荘園がありました。しかし、こうした荘園耕地は観念寺の寺領にはなっていません。ここからも新居氏が平安末期から勢力を伸ばしてきた開発領主・在庁官人であったことが裏付けられるようです。
寺領注文が作成された康安2年(1362)の時点では、古岡荘との境界部分で山林や一部の耕地が寄進されたのみです。それ以上の荘園耕地の寺領化は確認できません。それが約40年後の応永13年(1406)の「吉岡庄有光名内田高地」の寄進の前後から荘園耕地の寺領化が進んだようです。南北朝期までは、大部分か国領部分の集積であったことをここでは押さえておきます。
康安2年(1362)の寺領注文からは、40名の人々が観念寺に下地を寄進したことが分かります。
このうち創建・再興に中心的役割を果たした盛氏・尊阿・円心・弥阿による寄進所領が、全体の約30%(10町7段)を占めます。彼らの寄進分は寺領注文の冒頭部に、まとめて書上げられています。ここからも彼らが大檀那として特別に位置づけられていたことが裏付けられます。
このうち創建・再興に中心的役割を果たした盛氏・尊阿・円心・弥阿による寄進所領が、全体の約30%(10町7段)を占めます。彼らの寄進分は寺領注文の冒頭部に、まとめて書上げられています。ここからも彼らが大檀那として特別に位置づけられていたことが裏付けられます。
また一方で、この時期になると多数の人々が寄進を行うようになっています。
①このうち寄進面積が大きいのは、窪(久米)義清・兼信・盛高・周庵主・盛家・盛・盛藤・俊兼です。
②特徴的な点としては、盛通・信秀・盛直・詮康が四人の連名で三所(九段)の田畑を寄進していること、
③印侍者諷経田とされた寺領が5カ所(1町7段)あること
しかし、5町前後の大口寄進を行なった尊阿や円心に匹敵するほどの者は現れていません。ここでは、最初に有力者が大口の寄進をして、それに続いて一族が寄進を行うようになったことを押さえておきます。
この寺領注文は中興開山住持・鉄牛継印の手で書き上げられたものです。
この文書から半年後に発給された河野通遠安堵状では、「寺領等事任注文旨」せて安堵するとされています。安堵状の主の通遠は、伊予国守護河野通盛の子息です。ここからこの寺領注文は河野氏からの安堵をうける目的で鉄牛が作成・提出したものと研究者は推察します。
寺領田畠も、寺領山林の場合と同じ様に、河野氏からの保証をうけながら維持されていきます。
観念寺文書には、末寺の寄進が一例あります。
応永14(1407)年に、比丘元雲が古田の道興寺と寺領田畠を寄進したものです。道興寺は観念寺の末寺とされたのです。新居氏の氏寺から出発した観念寺が、近隣の在地寺院を本末関係に組み込んでいく始まりです。こうして観念寺は新居氏の氏寺としての性格と、地域社会の宗教的拠点としての性格を併せ持つようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「川岡 勉 南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会(2006年)」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「川岡 勉 南北朝期の在地領主・氏寺と地域社会 中世の地域権力と西国社会(2006年)」
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