本妙寺
坂出から丸亀を結ぶ宇多津の旧街道を宇夫階神社を目指して歩いていると、いろいろな宗派のお寺さんが並びます。お遍路さんで賑わう郷照寺を通り越して、歩いて行くと広い参道が山に向かって伸びています。その向こうには城郭のような石垣が見えます。日隆像(宇多津の本妙寺)
気まぐれに入っていくと二つの大きな銅像が山門入口で迎えてくれました。一方は日蓮、そしてもう一方は日隆と刻まれています。日蓮は、私にも法華教の開祖と分かります。しかし、日隆ってだあーれ?という印象でした。日隆という未知の人物とともに、本妙寺という寺に興味を覚えました。法華教だから鎌倉時代の東遷御家人として、東国からやって来た秋山氏に関係があるのかなくらいに思ったのを覚えています。
本妙寺の日蓮と日隆像
その後、何度か史料も中でこの本妙寺に出会う中で、日隆の果たした役割や当時の法華教団の動きなどがおぼろげながら私にも見えてくるようになりました。ということで、日隆という人物と本妙寺について、参考文献をもとにまとめておくことにします。本妙寺には、日隆自筆の文書が幾つか伝わっています
まず宝徳二年(1450)2月に定めた讃州宇多津弘教院法度の條書には次のように記されます。
定 讃州宇足津弘教院法度條々事一 無退転可有弘通事一 守本寺之大旨、可為壇那成敗事一 寺家造栄之事、惣壇那而可取成事一 公事等出来之時者、惣壇那而可為勤仕事一 時之住持於旦那而不可相計事右、守此旨、師壇共卜不可有聞如、但、寺家之事者、惣旦那中一味同心経談合、可然様可被相計者也、の為後代所定如件宝徳二年二月下旬摂州尼崎本興寺住持 日隆(花押)
ここには日隆が宇多津弘教院に下した法度状です。
退転なく弘通することと、本寺たる本興寺に従うこと、寺家のことは、惣檀那と相談しておこなうこと、
などが定められています。
最後の日隆の肩書きに注目して下さい。尼崎の本興寺の住職となっています。つまり、この法度(信仰誓約書)は、弘教院と呼ばれていた法華堂に集う法華信者たちに、尼崎・本興寺の日隆が下したものです。年号のある宝徳2年(1450)の時点で、宇多津法花堂(弘教院)が尼崎本興寺との間に本末関係を結び、日隆のもとに帰属したことがわかります。
本妙寺山門
また、第三条に「寺家造栄之事」とあります。ここからは、この頃に弘経院では本堂などの建築工事が予定されていたことがうかがえます。そしてその2年後に、次のような日隆から寺号授与状が下されています。右所授与如件授与之 寺号事 宝徳年七月下旬本門法華宗 日隆(花押)可称 本妙寺 讃岐国宇多津
寺号を「本妙寺と称すべし」と寺号が授与されています。この文書は、先の法度状と同筆で、日隆自筆とされています。2年前には宇多津の弘教院という法華堂に集まる法華信徒(檀那)集団という段階から正式の寺号を持つ本妙寺へとグレードアップしています。
本妙寺
さて、日隆とは何者なのでしょうか?最初に年表を掲げておきます
至徳 2(1385)年 越中国浅井島村に桃井右馬頭尚儀公の子として生。応永 5(1398)年 14歳で京都妙本寺で得度応永25(1418)年 妙本寺退出後、河内三井村に難を避ける応永27(1420)年 尼崎に本興寺建立の端緒を得、応永30(1423)年 摂津守護細川満元の支援により尼崎に本興寺を興す。応永32(1426)年 越中国に向い、色ケ浜における祈祷により禅宗金泉庵義乗を改宗させ、さらに敦賀では真言宗大正寺円海を帰伏させて本勝寺を得た。永享 元(1429)年には京に本応寺を再建永享11(1429)年には、河内に布教して加納の法華寺を得る永享 5(1433)年 京都本能寺を創建した。文安 2(1445)年 宇多津船籍の兵庫北関通関数が47隻 宇多津は讃岐随一の港町宝徳 元(1449)年 西国布教を志し、牛窓本蓮寺を改宗させ、備中高松では川上道蓮を教化して本隆寺を建立し、讃岐宇多津に本妙寺建立の基を開き、帰っては兵庫の久遠寺を末寺とした。宝徳二年(1450)年2月 日隆が讃州宇多津弘教院へ法度の定書下す宝徳 2(1451) 堺に顕本寺を建立。寛政 5(1464)年 尼崎にて八十歳にて没
日隆は法華宗の開祖日蓮の時代から百年以上後の人物のようです。彼は、当時の法華宗を「習損い」と批判し、法華宗再興運動を進めます。上の年表をからは各地に布教し、多くの寺院の建立や復興を行っています。その数は、近畿一円から北陸、岡山・讃岐方面にかけて計14カ寺を数えます。その拠点になったのが京都本能寺と尼崎本興寺です。ここを拠点として、敦賀、河内、堺、兵庫、牛窓、宇多津などの交通の要衝の地に寺院を配置し、弟子、信者などを得たことが分かります。晩年は、尼崎の本興寺に入り膨大な著作の執筆活動と弟子の養成に尽力し、81歳の生涯を閉じます。
本門法華教では、日隆を「蓮師後身 本因下種再興正導 門祖日隆聖人」と呼ぶそうです。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。
①なぜ尼崎を拠点としたのか?②なぜ瀬戸内海の港町である牛窓・備中高松・宇多津・兵庫に布教活動を行ったのか③日隆の教えを受入れて信徒集団を構成した人たちは、どんなひとたちだったのか④瀬戸内海布教のための教団組織は
疑問を解くために、日隆の伝記書から瀬戸内海への布教についてみてみましょう。
本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと
西国弘法(布教)は、拠点である尼崎の本興寺から出発します。まずは西国から海のハイウエーである瀬戸内海東へ登る船が立ち寄らなければならなかったのが兵庫(神戸)港でした。ここには東大寺の「海の関所」が置かれ、大坂に向かう船はここで関銭を納めるシステムが当時はありました。そんなこともあって兵庫港は平清盛以来、瀬戸内海における最大の交易都市でした。
この宿の主人との間の風呂敷袋を預けるエピソードが挿入されます。これが久遠寺建立へとつながります。
是より西国趣二せたもふて まづ備中の国新庄村にいたりたもふ 村中の酋長 川上道蓮・江本蓮光といふ 七月にせったい供養をおこのふ 大上人此供養のかりや入らせたもふて右の酋長のものと清談の時をうつしたもふ 酋長大上人をとものふて我家に帰り本門の深秘をとききかせたもふ所 信伏随喜して蓮光道蓮力をあはせ仮に堂をいとなみ 村中の老若をあつめ聞法結縁をせしめさせたまへ一村こぞって受戒して則一院を創々する 是本隆寺と号(略)
兵庫(神戸)港から向かったのは牛窓かとおもいきや備中の新庄村です。今は総社ICの近くで海岸線から遠く離れているように思えます。しかし、この付近は古代の吉備王国の核心部で「吉備の穴海」と呼ばれる入り江がすぐ近くまで入り込んでいました。その海が新田開発されるのは江戸時代になってからです。中世は児島湾から足守川を逆上れば、本隆寺の背後の庚申山のすぐ東の川港に着くことができました。そういう意味では、ここも水運を利用すると便利な場所だったようです。そこでは、村長の蓮光道蓮力をはじめ村人の心をつかみ「一村こぞって受戒」し、本隆寺が開かれます。
是より讃州卯辰の浜つかせたもふて 大きに宗風を振はせたもふて 周く撃毒破則一院を創たもふて本妙寺と号
宇多津での布教活動に触れているのはこれだけです。讃岐の法華集団と云えば、東遷御家人の秋山氏が建立した三豊の本門寺が「皆法華」の隆盛を誇っていましたが、そこには立ち寄った気配はありません。備讃瀬戸を超えて宇多津の地にやってきます。ここでも布教活動の成果として「一院を創った」とあります。これが最初に見た宇足津弘教院なのでしょう。
享徳二酉年大上人 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇
そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて尼崎に帰っていくのですが、その際に立ち寄るのが兵庫港です。そこで風呂敷を預けた宿の亭主を信者にし、久遠寺を建立させます。
日隆が布教対象としのは、どんなひとたちだったのでしょうか
日隆が瀬戸内海への布教活動を行った同時代の史料として「兵庫北関入船納帳」があります。これは、文安二年(1455)3月3日から12月29日までに摂津国兵庫津の北関を通過した船舶の船籍地・積載品目・数量・関料・納付月日・船頭・船主(問丸)の各項目を列記した記録簿(通行記録)です。この船の船主(問丸)の中に日隆聖人と関係がある人物名があるのが分かってきました。例えば問丸として記されている「衛門太郎」は、日隆が宝徳三年(1451)12月3日に曼荼羅本尊を与えた「信男衛門太郎 法名道妙」と同一人物のようです。
また船頭と記されている「衛門二郎」も、聖人自筆の「寺領屋敷地所当収納日記」中に永享二年(1430)11月28日付で京の千代寿に土地を売却した「奈良屋衛門二郎」と一致します。。
「兵庫北関入船納帳」には記されていませんが、「衛門五郎」にも注目点があります。
「衛門五郎」についてみると嘉吉三年(1441)七月下旬に、聖人より曼荼羅本尊を授与された「信男妙浄衛門五郎」(本能寺蔵)です。彼は「収納日記」の中で、日隆に本興寺敷地として五貫文で屋敷地を売却した者として記されています。このことから、衛門五郎は初めは日隆に対してビジネス相手として対応していた関係が、時を経るに従って信者の立場に変ったのではないかと研究者は指摘します。
もしそうであるなら、日隆の信者獲得や瀬戸内海沿岸布教について、具体的な姿が浮んできます。こんなSTORYが作れないでしょうか。
日隆の信者たちの中に、町衆と呼ばれる富裕な商人たちがいました。その金持ちとは、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭などです。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を願い、支援したかもしれません。
岡山牛窓の本蓮寺については、堂塔が整備できたのは石原氏の貢献が大きかったと伝わります。
石原氏の一族の石原遷幸は土豪型船持層で、船を持ち運輸と交易に関係したようです。石原氏の一族が自分の持ち舟に乗り、時折、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくというSTORYは考えられることです
このように日隆が布教活動を行い新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆の何らかのつながりのあったことることが見えてきます。
それでは、当時の商業交易圈と信仰伝播の方法の関係を探っていきたいのですが、
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。先に述べたように、日隆の信徒の中にはこのような裕福な問丸達がいたようです。そして、彼らは牛窓と同じように讃岐の宇多津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。
その中に服装や宗教などの文化情報も含まれています。あらたな流派の宗教活動についても強い好奇心と関心を彼らは持っていたはずです。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われたというのが私のいまの仮説です。
最後に、日隆がこのような布教活動を行ったのはなぜでしょうか?
日隆が尊敬する大覚大僧正の跡をたどたのではないかというのが一つの考えです。ルート場には、妙顕寺末からの転派寺院が多くあることから想像されることのようです。
もう一つは、先師の大覚大僧正が布教と共に妙顕寺維持のための銭貨を集めて本寺に送った例があります。これを知っていた日隆は65歳という高齢ながら、本興寺や本能寺護持や勧学院運営のための財源確保というような目的もあったのではないかと考える研究者もいるようです。そうだとすれば布教活動だけでなく「募金活動」も含まれていたということになります。そして、それならお金を持っている人が多く住んでいる瀬戸内海の各港町を訪れたというのもよりリアルに納得できます。
参考文献 小西轍隆 日隆聖人の瀬戸内海沿岸布教についての一試論
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