弘法大師が「入定」後に、多くの伝記が書かれます。いったい伝記は、いくつあるのだろうかと思っていたら『弘法大師伝全集』に、93種あると記してありました。弘法大師の伝記は、代々の真言僧や蓮華谷聖の手によって何度も増補改制されてきました。さらにそれが高野聖たちによって人々に口伝えに伝えられ拡がって行きます。そして、「弘法清水」とか「再栗」や「三度柿」などの、水と救荒食物の救済者としての大師のイメージが定着していきます。 私が興味があるのは、これらの伝記類に善通寺がどのように記されているかです。そのことについて触れている論文に出会いましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2」です。
一円保絵図 曼荼羅寺3

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。それが同年成立の「弘法大師御伝」には次のように記されています。

「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

意訳変換しておくと
「讚岐国の善通寺と曼茶羅寺の両寺について、善通寺は空海の先祖である佐伯直氏の氏寺で、曼荼羅寺は大師が建立したものである

ここではじめて善通寺と曼荼羅寺が登場します。注意しておきたいのは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたのみ記されています。ここからは11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。これが時代を経るに従って、いろいろなことが追加されて、分量が増えていきます。

以下、大師伝記の中の善通寺に関連する記事を年代順に見ていくことにします。

弘法大師伝の善通寺 高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立
弘法大師伝記の善通寺・曼荼羅寺部分の抜粋

  (1)高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立(上の右端部分)
 
  唐より帰朝後に、仏像を大師自ら造った。また先祖菩提のために善通寺を建立し、その額を書いた。そして、善通寺と曼荼羅寺の両寺に留まり、修行を行った。そのため周辺には多くの聖地がある。この寺の山に塩峰がある。地元では、大師が七宝を埋めた山と伝えられる。これが後世に「七宝」から「塩」に転じてしまった。ここには行道(修行路)の跡が残っている。そこには草木が生えずに、海際に巨石がある。その石は落ちそうで落ちず、念願石と呼ばれている。また、人々が伝えるところによると、弘法大師の遺法が滅したときに、この石も墜ちるとも云う。

要点を挙げておくと
①善通寺と曼荼羅寺は空海が建立したこと
②塩峰=七宝山で辺路修行ルートがあったこと
③そのルート上に念願石があること
ここで気になる点を挙げておきます。
・「弘法人師御伝」(1089成立)に比べると分量が大幅に増えていること
・善通寺と曼荼羅寺の一体性を強調していること。曼荼羅寺への気配りがあったことがうかがえる
・七宝山をめぐる辺路行道ルートがあったこと。五岳山については何も触れられていないこと
・七宝山の行道ルートには海にも面していて、「念願岩」があったこと。

以前にお話しした10世紀末から11世紀の曼荼羅寺をとりまく状況を振り返っておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」となっていた
②10世紀中頃に廻国聖・善芳が、退転した曼荼羅寺の復興開始。
③善芳は弘法大師信仰を中心にして勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功。
④勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと使命であった。
 ここからは弘法大師信仰が高野聖などによって地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支える時代が始まっていたことが分かります。その先例が廻国聖・善芳による曼荼羅寺の復興運動でした。その成果が、高野山にもたらされ伝記の中に曼荼羅寺が善通寺と併記して登場するようになったことが考えられます。同時に彼らは、観音寺から七宝山を経て我拝師山に至る中辺路行道ルートを開いたのかもしれません。

弘法大師信仰と勧進聖

曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。

これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったようです。つまり、中央の支配管理を受けるようになり、東寺から派遣された僧侶達がやってくるようになります。それを追いかけるように、廻国の高野聖たちがやってきて活動を始めます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
善通寺一円保絵図に描かれた曼荼羅寺と我拝師山


2 弘法大師行化記(1219年)
善通寺額事 (高野大師行状図画)
                善通寺額事 (高野大師行状図画)

弘法大師は先祖のために讃岐に善通寺を建立した。その山門に大師自筆の額を掲げた。その額には聖霊が宿っていた。陰陽師の安倍晴明が縁あって讃岐に下向した。暗くなったので識神に松明を持たせて進んだ。ところが善通寺あたりで松明が消えて、寺を通過してしまった。このことについて安倍晴明が疑問に思うと、識神が云うには「弘法大師の額がこの寺には掛けられています。それを四天王が守護しています。そのために四天王が安部清明様の霊力を怖れて路を変えたのでしょうと

弘法大師行化記は、空海を満濃池修復の別当に任命することを申請した讃岐国司解と、それを中央政府が許可した太政官符の写しを載せている伝記です。そして、もうひとつ新しいエピソードを載せます。それがこの「善通寺額事」です。そこに登場するのは空海の筆による額と安倍晴明です。

ここに記された「善通寺額事」について見ていくことにします。
弘法大師の筆による「額」は四天王が守護したりして、額に精霊が宿っているという奇瑞が、大師伝記の名筆説話伝説に述べられています。それが「五筆勅号」「虚空書字」「大内書額」のエピソードです。
中でも「大内書額」は掲額説話として、最も有名なモノです。俗に「(弘法大師)筆」といわれるもので、次のような有名な説話です。

勅命によって応天門に掲額する字を書き・・・額うち付けて後見たまひければ、応の字の上の円点かき落されける程に、筆をなげあげて点をうたれけり         「大師行状記」巻五)

その他にも宮中の門に関わる説話としては「皇嘉門額」などという似たような伝承もあります。伝記に採用されなくとも、之に類する話は全国にあったことがうかがえます。善通寺掲額説話もその一つでしょう。冷静に考えてみると、掲額は門に掲げられます。そのため百年も経てば、風雨にさらされてぼろぼろになるのが普通です。平安前期の大師真筆が風雨にさらされて中世まで何百年もそのまま残っている方が不思議です。また、弘法大師が書いたものでなくても掲げられた額が、筆ぶりが達者であれば、大師筆と化してしまったものも、少なくかったはずです。弘法伝説の拡がりを考えれば、高野聖たちはそれらを「大師真筆」と語るのは当然のことだったでしょう。この動きに、中近世の書道家家元制度の喧々たる連中たちは、「地元の誇り・光栄」として乗っかっていきます。
 善通寺は大師生誕の地とされたので大師にまつわる伝承には事欠きません。
産湯の水や幼年時代の砂遊び(童雅奇異)などのストーリが創作可能でした。それが伝記には取り上げられていきます。その他にも多くの伝承が語り継がれていたはずです。善通寺のエピソードを伝記作家(僧)が求める中で空海の名筆にちなんだ掲額説話が、後に加えられていくのは自然のなりゆきです。ただ、善通寺掲額説話は筆伝説(大内書額)とちがって、中世期になって登場する話です。それはこの話が『高野大師行状図画』に語られながら、もう一つの中世期の大師伝記代表作品である『弘法大師行状記』には載せられていないことからもうかがえます。93もある大師伝記の中で、枝葉を生やし数を増してきた多くの奇瑞譚の末端が善通寺掲額説話であると研究者は指摘します。その登場過程は次のような流れが考えられます。
①生誕の地の善通寺で「弘法大師名筆」に影響されて語られ始めた「善通寺額事」
②それを流布し、高野山に伝えた高野聖たち
③高野聖たちから聞き取ったエピソードを伝記の中に載せた伝記作家(僧)
善通寺は多度郡司であった佐伯直氏の氏寺として建立された地方小寺院でした。
氏寺であるがために、佐伯直氏一族が平安京に本貫を移し、中央貴族化したり、高野山の管理者になって去って行くとパトロンを失い退転していきます。それは平安時代中期以後の古代瓦が出てこないことからもうかがえます。中世を前に善通寺は、衰退していたのです。そのような中で弘法大師伝説が流布され、弘法大師信仰が広がり始めます。そして「弘法大師生誕の地」と中央貴族の信仰を集めるようになります。大師が有名化するとともに信仰が拡がり参詣者も増えるのに連れて、大師にまつわる伝説も数が増えていきます。大師が善通寺を建立したという伝承など生まれてくるのは、自然な流れです。これが大師伝説を語る時衆系念仏聖たちの流れを汲む中世高野聖によって採録され、そのネットワークを通じて、高野山の真言僧などにもたらされます。
 善通寺掲額説話は先ほども見たように、初期の『弘法大師伝』には出てきません。また93あるというわれる大師説話の中で、重要な地位を占めていません。そして今は、あまり語られないエピソードになっています。私も知りませんでした。それはどうしてなのかは、別の機会に考えるとして、先を急ぎます。
3 弘法大師略欽抄 1234年
 
讃岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺は、弘法大師空海の先祖菩提の氏寺である。また曼荼羅寺は大師が建立したもので、両方の寺にその住居跡がある。

ここでも善通寺と曼荼羅寺の一体性が語られます。そして、曼荼羅寺をフォローするかのように、曼荼羅寺にも弘法大師の住居跡があると補足します。そこには、下表のように12世紀になると曼荼羅寺が東寺の荘園となり、善通寺と一体化して経営されていたことが背景にあるようです。

曼荼羅寺の古代変遷

4弘法大師伝要文抄 1251年

善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、弘法大師が唐からの帰国の際に嵐に出会って遭難しそうになった際に、その嵐が収まることを祈り、一難を避けた際の成就御礼として、自ら造ったものである。

ここに初めて、嵐退散のために空海が手造りした白檀の薬師如来像が登場します。これが今の私にはよく分かりません。なお、現在の善通寺金堂の本尊は丈六の薬師如来坐像で、江戸時代前期のものです。 

5 高野大師住処記 1303年

   善通寺は讃岐国にあり、空海の先祖の氏寺である。曼荼羅寺も大師が建立した寺である。両寺に大師が修行した住居が残っている。

6 弘法大師行状要集 1374年
伝記によると、善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、大師が唐からの帰国の際に大嵐に際に風波の収まることを祈願して、自ら造ったものである。言い伝えによると、伝教大師は入唐の際に、風波の禍を避けるために鎮西で薬師如来を造って奉納したと伝わる。弘法大師と伝教大師の両大師が帰国後に、無事帰国を感謝して薬師如来を造った。その意を察すべし。

7高野大師行化雑集(1630年?) 
 善通寺・曼荼羅寺の白檀の薬師如来は、入唐の際の嵐の際に、無事を祈って大師自らが造ったものである。讃岐多度郡の吉原中郷に善通寺を建立する。また中郷は大師が御桑梓の地でもある。また大師は吉原郷に曼荼羅寺を建立した。この寺の南には五岳山がある。第一峰は高識山、第二峰が五筆山、第三峰が我拝師山で、この山の麓に寺がある。寺号は出釈迦寺である。善通寺と曼荼羅寺、并に中郷・吉原は一続きのエリアである。第四峰が火上山、第五峰が獅子山で、この五山の浦を屏風ヶ浦と称する。 
以上を見た上で気づくことを挙げておきます。
A (1)高野大師御広伝(元永元(1118年成立)では、弘法大師が帰朝後に「手ヅカラ数(多)ノ仏像ヲ造った」とある記事は、その約百年後の(4)弘法大師伝要文抄(1251年)では、「善通曼荼羅両寺の薬師如来像、唐ヲ欲スルノ時、風波(安全)祈ル為ニ、手ヅカラ斤斧ヲ操リ彫った」となり、分量が増えています。
B (6)の弘法大師行状要集(1374年)では、伝教大師が登場して真言天台両密教の宗祖が並んで渡海安全を祈ったことに変化します。
C 七宝山が辺路修行の場であり、念願石の伝説が語られていたのが、(7)高野大師行化雑集(1630年)では、七宝山は消えて、替わって五岳山が聖地とされるようになります。これには、五岳山を取り巻く状況の変化があったことは以前にお話ししました。

曼荼羅寺
幕末の曼荼羅寺(讃岐国名勝図会)
 こうしてみると、もともとは平凡な説話だったものが、誇張化し奇瑞化されていく過程が見えてきます。善通寺と曼荼羅寺の両方に「大師御住房アリ」と記されるようになるのも、これも善通寺が大師の生誕地であって、生誕地ならばその帰るべき住居があったのは当然という考えから、後世に追補されたものしょう。
弘法大師伝記の善通寺記述の分類
弘法大師伝記に登場する善通寺関連記事のモチーフ分類 下段番号は登場する伝記 
以上見てきたように、善通寺の関連説話で一番古いのが元永元年(1118)年成立の(1)高野大師御広伝(下)です。しかし、これは12世紀初頭の成立なので、大師伝記中の説話の中では、新しい部類のものにになります。そして、近世以降のものは、それまでの伝記の写しで内容が重なっています。逆に言うと新しいことは付け加えられていません。例えば12などは『高野大師行状図画』の「善通寺額事」とほぼ同じ内容です。以上のように大師伝記伝説の中に出てくる善通寺関連説話は、12世紀以後に付け加えられた「新しい弘法大師エピソード」であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2
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