護摩とは
金光院護摩札 粟島安田屋3
金毘羅大権現の金光院護摩札(三豊市詫間町粟島の廻船問屋安田屋)

粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札です。海上安全・船中安全・渡海安全の願が掛けられたものです。高さ101.8 cm、上幅196 cm、下幅162 cm、厚さ2.O cm、重量1420gです。内容を見ておきましょう。
右に 「寛政第七(1795)年 象頭山」
中央に 「不動明王を表す梵字(カーン)
その下に 「奉修不動明王護摩供二夜三日船中安全 風波泰静祈依」、
左に 「正月吉良日 金光院」
ここからは次のようなことが分かります。
①1795年の正月吉日に、象頭山金光院の護摩木札であること
②不動明王前で二夜三日の護摩祈祷の後に、授けられたこと
③「船中安全 風波泰静」が祈願されていること
トレスされたものを見ておきましょう。

金光院護摩札 粟島安田屋2

左のものは次のように墨書されています。
右側 「寛政第九年 象頭」
中央 「不動明王を表す梵字奉修不動明王護摩供二夜三日海上安全祈(欠)」
左側 「二月吉良日 金光院」
先ほどのものの2年後のものになります。内容的にはほとんど変わりありません。実はこれだけではありません。同じような木札・神札66枚が安田家には保存されていたようです。

金光院護摩札 粟島安田屋4
粟島廻船問屋安田屋の金毘羅金光院の護摩札

この木札に何が書かれているのか研究者が一覧化したのが下図です。

金光院護摩札 粟島安田屋1
粟島の安田屋の護摩札一覧(一部)

これを見ると祈祷内容はほとんど同じで「船中安全 風波泰静」です。同じものがどうして何枚もあるのでしょうか。また、安田家にどうして、金毘羅大権現の木札が残されているのでしょうか? そんな疑問に答えてくれる論文に出会いましたので紹介しておきます。テキストは「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」です。
不動明王と護摩

 安田家の護摩札等について        

研究者が当主の安田憲司氏から聞き取ったことをまとめると次のようになります。
①護摩札や祈祷札などを、新しく拝受するのは正月と出帆前の6~8月の吉日で年2回
②一年間、船に安置した護摩札は、蔵の天井の梁に挟むようにしていた
④処分に困るが捨ててしまうことはためらわれたので、今に伝えられることになった
ここからは、毎年正月と、廻船が活動を始める6月以後の年2回に、金比羅に参拝し、金光院の護摩札を授かっていたことが分かります。そして、持ち船に安置します。その際に、前年までの古い木札は、倉の天井に保管したこと。そのため毎年、持ち船の数と同じ枚数の護摩札が倉の天井には増えていったようです。

HPTIMAGE

安田家に残っていた76点の護摩札のうち、象頭山金光院のものは次の通りです。
A 縦約百㎝の大木札が47点、
B 約20~70㎝の木札が20点
C 紙製の札や掛け軸等が9点
金光院護摩札 粟島安田屋5


その他に神棚の中には天照大神宮御札、出雲大社御玉串、馬城八幡宮御守等などがありました。これらの配札場所は次の通りです。
金光院 47点
金光院・金毘羅大権現  1点
金毘羅大権現  1点
満嶋山系寺院 13点
地蔵院  1点
住吉大神宮  1点
水天宮  1点
鹿鳥大神宮  1点
石鉄寺(石鎚山)     3点
防州室積寺       1点
こうして見ると、金毘羅大権現の別当金光院関係のものが大部分を占めていたことになります。それ以外にも、瀬戸内海各地の神社のお札があります。これらの札が納められていた神棚を見ておきましょう。
粟島廻船間屋安田屋の神棚jpg

栗島の廻船問屋の神棚は、非常に大きなものです。一例を挙げてみると、
徳重家の神棚は、十一社様式 幅368cm
伊勢屋のものは、九社(神段数) 幅260㎝
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
粟島 旧廻船問屋旧家の神棚(2019年 瀬戸芸会場)

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
上の拡大

ここからは、栗島の海商たちが神棚の大きさや、そこに収める札の種類や数を競ったことがうかがえます。神棚に各地の「海上安全」などのお札を並べて供えることがステイタスシンボルでもあったのかもしれません。

護摩供養の作法は

金比羅金光院以外のお札を見ておきましょう。
まず粟島古利の梵音寺について。

粟島古利の梵音寺

満嶋山梵音寺は、海岸に面した大通りから数百m内陸部に位置する島内有数の寺院です。その歴史は倭寇の時代にまでさかのぼり、平安中期、粟島島民は藤原純友の配下に属し、海賊活動を行っていたと伝えられます。その範囲は、関門海峡を超えて朝鮮、中国、さらに南進し、東南アジアにまで拡がっていたようです。栗島から倭寇が出ていた証拠とされるのが、梵音寺境内の樹齢四百年以上の「竜眼の木」でとおばれる亜熱帯性の「たぶの木」で南方から持ち帰られたされ、香川の保存木となっています。どちらにしても、粟島は古くから「海民」の活躍する拠点だったことがうかがえます。

粟島梵音寺no
粟島の梵音寺のタブノキ

 梵音寺が鎮座するのが下新田地区です。ここは城山に近い所ですが、城山を満嶋山と呼ぶかどうかは分かりません。安田家に残された護摩札からは、満嶋山には梵音寺の他に松寿院、聖寿院があったことが分かります。その他にも史料的には、阿州極楽寺、観音堂などの堂らしきものが三ヶ所ほど確認できるようです。安田家が護摩札を受けた峯堂地蔵院がこの中にあるのかどうかは、よく分かりません。どちらにしても、修験者たちが構える堂や坊などが粟島にはいくつもあったようです。それを支える経済力もあったということになります。

粟島古利の梵音寺no護摩札
粟島の梵音寺・松壽院の護摩札

 安田家のお札の中で研究者が注目するのは、伊予石鉄山前神寺の石鎚講の札です。
粟島廻船間屋安田屋の石鎚山前山寺の護摩札
石鎚信仰といえば、石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)、瓶ヶ森、笹ヶ峰の東側の峰も信仰対象でした。前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降だとされます。前神寺が「先達所」を決定し、村落の指導者層を俗先達に任命し、広域布教のネットワークを形成していきます。それが道後平野や道前平野に定着し、石鎚山参拝登山は村々の若者の通過儀礼的要素も持つようになります。前山寺のお札粟島にあるということは、西讃地域は宇摩郡や越智都、さらには土佐郡などと一つの信仰圏を形成していたことが裏付けられます。このスタイルは、伊勢御師南倉の廻檀地域とよく似ていると研究者は指摘します。
 また木札には防州室積普賢禅寺のものがあります。
 室積は江戸時代に長州藩による港の再開発で室積会所が置かれ、北前船の寄港地として、多くの廻船問屋が軒を並べていた港町です。海商通りについて長州藩は、防長両国を18の行政区両に分け、これを宰判といい、要衝の地に代官所が設置され、それを勘場と呼びました。

普賢寺・普賢堂(山口県光市室積8丁目)- 日本すきま漫遊記
防州室積普賢禅寺
このような海勝通りに海の守護仏の普賢菩薩の縁起が生まれます。普賢縁起には、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、室積で漁人が海中から網で引きLげた普賢菩薩に対面したという逸話が残されています。
 海難守護は寄神信仰に基づくものが多いようですが「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた普賢菩薩を祀った普賢禅寺もその1つです。粟島の安田屋の持ち船も防州に寄港した時に、その護摩札を得たのでしょう。海の神様は、金毘羅大権現以外にも各地に祀られていたことが分かります。
粟島の神社の祈祷札を見ておきましょう。

粟島馬越神社のお札

馬城八幡は中新田の砂州沿いの道から少し奥まったところにあります。馬城という地名は粟島が古代に牧場であった名残です。700年、諸国に牧地を定めた際、「託磨牧」とあり、栗島が指定されたようです。「詫間(託馬)」も同じ関連と研究者は考えています。865年の続日本紀(865年条)には「停廃讃岐国三野郡託磨牧」とあるので、この時期まで詫間には官営の牧場があり、粟島はその一部だったことが分かります。また「西讃海陸予答」に次のように記します。

「担馬(詫間)木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

そして寛保3年(1742)に大坂の船宿から寄進された常夜燈が建っています。また、享保16(1731)年の銘のある島居からは島中が氏子であったことが分かります。さらに安田家の約20㎝の「八幡宮御祓船中安全海上無難順風□□」とある神札の内部には祓串が一本入っています。これが馬木八幡のものか、どうかは分かりませんが、海難除けの大麻であったことは確かだと研究者は判断します。
 この他にも栗島には次のように多くの神仕があります。一之宮神社、瀧之宮神社、稲荷大明神三社、妙見宮、栗島神社、弾上神社、荒神、蛭子神社、勝佐備神社、その他にも四社あります。これは、「西讃府志」より多い数になります。それは明治の廃物希釈で神社へと転化した寺院があったためのようです。その他、廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神、粟島伊勢仲宮(通称:お伊勢さん)が有名です。
ここには文化期からの船絵馬が15面本納されています。奉納年代は文化3年(1806年)~慶応3年(1867年)のもので、天保年間(1830~1844年)のものが多いようです。奉納者は地元の伊勢屋庄八をはじめ、大坂や堺、さらには「奥州福山城下」・「奥州函館」と記載されたものもあり、北海道まで見られます。その中には堺の糸荷廻船の舟絵馬もあります。糸荷廻船はオランダから長崎に輸入された中国の生糸・絹織物を江戸に運送するため海路で堺へ運ぶ船です。その船が粟島に寄港していたことを示す史料になります。                         

 安田家は、屋号を安田屋として栗島で廻船業を営んでいました。
安永4年(1775)に亡くなった久大夫が最初の船持ちだったと伝えられます。しかし、史料的に、その活動が辿れるのは享和2年(1802)から天保 12年(1841)になってからのようです。この約40年間に、「金毘羅新造(同名船三艘 初代~三代久太郎、兵助)、稲荷丸(重吉)」の名が確認できるようになります。最初の金毘羅新造は、享和3年(1803)のことで、長崎で店船首の程赤城に依頼して、洋中安全祈願の船名入り神号額を揮毫してもらって、八幡神社に奉納しています。三艘目の金毘羅新造は三代目久太郎が27歳で死去した後、泉州堺の鍋屋船万歳丸で沖船頭をしていた兵助(沖船頭名兵右衛門)が家へ帰り、天保十年に購入したものです。五百石積で兵助が船頭のときは久太郎(四代目)、弟が船頭のときは久治郎とそれぞれ先代の船頭名を襲名しています。
 また、稲荷丸(重吉)は分家のもの、重吉が大坂山城屋惣右衛門の伸占丸(十五人乗)に沖船頭として息子の豊占とともに乗り込み、難風で帆柱が吹き折れ、酒田飛鳥へ漂着した記録も残っています(「鈴木家文書」)。安田屋は箱館(函館)を中心に、青森や長崎へも航行しています。函館の長崎屋(佐藤半兵衛)、大津屋(田中茂占)、青森湊の滝屋(伊東善五郎)の客船ともなっていました。
 表出しは先祖久太夫の一字を取つた「列」(カネキュウ印)、重吉は「列」か「コ」(カネジュウ印)を使用しいます。名前は久太夫以後、久太郎、久兵衛、久平次、久次良、久四良と「久」の字が通字だったようです。これらの情報を「隠岐島島前 津之郷 大山明元間屋船帳」にあてはめると久太夫は、安国家の関係者だと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。
以前に「近世初頭に流行神として登場したときの金比羅神は、海事関係者の信仰を集めていたわけではなく、海の神様とは言えなかった」というお話しをしました。しかし、18世紀後半になると、安田家のような廻船問屋は金毘羅神を深く信仰するようになったことが、残された木札から分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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