前回は、天文20年(1551)の「讃岐国檀那帳(白米家文書」の三豊郡に記されているかすみのエリアと人名・寺院を見て、次のようにまとめました。
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、三豊一帯に及ぶが、財田や三野・詫間などには道者(檀那は)いないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
  今回は、多度・那珂郡の道者(檀那)たちを見ていくことにします。テキストは「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

  「別紙別筆 四国之日記さぬき(讃岐)之分」とあります。
伊勢御師 四国日記讃岐分1 中府
「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 中府・津森・今津
前回見たリストとは、別の時期に手に入れたリストになるようです。最初に「中ふん(中府)一えん かがミ(各務)殿」とあります。「中ふん」は、丸亀の中府のことでしょう。ここには「其外人数あまたあり いえかす(家数)三十」と記されています。中府には、各務家を中心に多くの伊勢お札を配布する家があたこと、その戸数は30軒ほどであったことが分かります。
 続いて出てくる「つのもり(津森)分一えん(円)には、しきふ(式部)殿が筆頭にあげられ、「ちん蔵坊」という坊名がでてきます。ここには念仏信仰の修験者(聖)がいのかもしれません。前回見たように、四国霊場大興寺の各坊主たちがそうであったように、伊勢御師からのお札を配布して、初穂料などを集めていたことがうかがえます。なお津森の家数は、20戸です。次が「ひろなか(広長)(広水)」で、現在の津森・今津になるようです。筆頭は山崎五郎太郎殿で、家数30ばかり、とあります。
伊勢御師 四国日記讃岐分2 今津・金蔵
            「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 今津・金蔵
「いまつ(今津)の分一円」には、「かいふく寺」「みつかう坊」と寺院名が出てきます。これが今津のどこにあったのかは分かりません。今津の戸数は三十数軒とあります。 続いて「かなくら(下金蔵)上かなくら(金蔵)のふん一円」と、金倉川河口の金蔵が出てきます。筆頭に記されている多だの(多田)甚兵衛殿については、香川氏の氏寺である多度津の道隆寺の「道隆寺温故記」の中に周辺地域の国人たちが地を寄進している寄進状に名前が出てくると研究者は指摘します。その中に、次のように記されています。
天文6年(1537) 卯月二日に「多田兵衛尉頼貞、田地壱段、当西山善右衛門尉寄付給」
同20年10月晦日「於堀江殿領地田地五段、多田弾正忠、弘田右兵衛尉」
 ここに見える頼貞・弾正忠と甚兵衛が同一人物ではないようですが、一族ではあるようです。また、約20年後の永禄三年(1560)秋山家文書に多田又次郎宛ての香川之景の書状があります。内容は知行分に割り当てられた人夫について多田又次郎親子の負担分は諸事情によって免除することとなっています。ここからは、多田氏がいずれも香川氏の家臣であり、甚兵衛も家臣の一人であったことが分かります。上下金蔵の家数は「60軒あまり」とあるので、周辺の集落よりも規模が大きかったことが分かります。
金倉 鴨

  てんまん(天満) → 南かも(鴨) → かつらわら(葛原)と並んでいます。

伊勢御師 四国日記讃岐分3 天満 葛原

           「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 天満・南鴨・葛原

葛原の筆頭に「か川しゆり(香川修理)殿が登場してきます。

香川氏は相模国の出身で鎌倉権五郎景政の子孫が来讃して香川姓を名乗ったことは以前にお話ししました。来讃時期については諸説あって、よく分かりませんが、居城を多度津に置き、要を天霧城に置いたことは一致します。そして、14世紀末頃には讃岐守護細川氏の被官となり、やがて西讃岐の守護代に成長し、天霧城を拠点として勢力を伸張させていきます。室町期の香川氏については系図と資料に出てくる人名が一致しません。そのため人物も確定することが難しいことは以前にお話ししました。なお、葛原に住んでいた香川修理の名は、史料の中にも、系図にもでてきません。
 ただ、嘉吉の乱の時に仁尾浦では香川修理亮から兵船徴発の催促がありました。それが浦代官の香西豊前により拘引されるという事件がおこります(賀茂神社文書)。この時の香川修理亮は守護代として登場しますが、実名は分かりません。また細川家文書の中に年未詳の香川通川書状がありますが、宛名に修理亮の名があります。ここでも修理亮がいたことは分かりますが、これ以外に修理もしく修理亮の名は出てきません。時代的にも一世紀も隔たっていて、同一人物ではありません。次の「同う兵衛」「同四郎二郎」も香川一族のようです。香川氏の一族が、葛原を拠点として周辺に勢力を伸ばしていたことがうかがえます。
伊勢御師 四国日記讃岐分5 多度津
           「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 葛原・多度津
葛原には「しふ屋(渋谷)殿」が出てきます
先ほど見た多田甚兵衛と同じように、「道隆寺温故記』に渋谷氏は、次のように出てきます。
永正一四年(1517)10月9日「渋谷又三郎実家、寄進不断灯明田」
大永三年(1523)2月9日「渋谷右京亮重村、田地四段寄付当明王院」
香川氏の菩提寺である道隆寺への寄進を行っています。実家・重村は渋谷氏の一族のようです。
渋谷殿も香川氏の家臣団のひとりです。香川氏の家臣団が、道隆寺を宗教的な紐帯の核として、つながっていたことがうかがえます。海に伸びた道隆寺の教線ラインを支援したのは、このような香川氏の家臣団であったことがうかがえます。

 「たとつ(多度津)」の筆頭に出てくるのが「西谷殿様」です
これは西谷藤兵衛のことのようです。藤兵衛はもともとは豊中町にあった岡本城主でした。それが戦国大名化する香川氏の重臣の一人になっていきます。天文8年(1539)6月、守護代香川元景から藤兵衛尉へ出された書下(本門寺文書)には、香川和景の跡を継いだ元景が秋山奉忠の置文や細川勝元の定書・和景の書下に示した旨に相違なきよう命じたものです。三野の秋山家の氏寺である法華教の本門寺を媒介として、領域支配を図るため西谷藤兵衛を活用したことがうかがえます。
 なお、多度津の多聞院(真言宗醍醐寺派)には、藤兵衛の肖像画が残されています。

西谷藤兵衛 多度津多聞院
西谷藤兵衛画

この賛に弘治三年(1557)の年紀があります。画像が多度津に残されていることから、藤兵衛は多度津に屋敷を構え、香川氏に仕えていたいたこと、多聞院を多度津の氏寺としたことがうかがえます。そのため西谷殿様と称されたと研究者は考えています。
 この服装について、研究者は次のように評します。
大紋直垂(だいもんひたたれ)に烏帽子(えぼし)という室町時代の礼装ではなく、室町時代後期から戦国時代に広まった肩衣(かたぎぬ)を着、頭部に何もつけない露頂(ろちょう)で描かれる。年代が分かる肩衣袴姿の肖像画としては最初期の作品であり、服飾の歴史を探るうえでも貴重。


この肖像画は、多度津町の多聞院に次の夫人の肖像画とともに伝来しました。

西谷藤兵衛の妻 多度津多聞院

西谷藤兵衛夫人像(多聞院蔵)

  前後に屏風をめぐらせて座し、小袖を着て打掛(うちかけ)を腰巻きにした礼装で描かれます。戦国時代の女性の様子がうかがえる貴重な肖像画です。

このほか多度津には「そうめんや(素麺屋)真吾殿」「かち(鍛冶)吉五郎殿」「かち(鍛冶)又五郎」も伊勢道者のメンバーとして名を連ねています。
伊勢御師 四国日記讃岐分6 多度津
       「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 多度津・白方

以前に見た長宗我部元親の金毘羅大権現の二天門寄進は、同盟者となっていた香川氏が中心になって奉納しています。そこには、大工や瓦職人など多度津の職人の名前がありました。香川氏の城下町で港町だった多度津には、いろいろな職種の商人や技術者たちが住んでいたことが分かります。
また多度津の末尾には「三百斗の所にて、内被官一円」とあります。ここからは多度津が城下町として、家臣団が居住する一方で、都市的な機能を持ち的な賑わいを見せていたことがうかがえます。

 「善福寺」は、明王院道隆寺の末寺で、宝塔山多聞院のことだと研究者は指摘します。多聞院は、香川氏の帰依した寺で、香川信景の末子・西谷藤兵衛寄進の石塔や肖像画二幅を伝承する(『西讃府誌』)ことは先ほど見たとおりです。「明ちょう寺」というのは、よく分かりません。

白方 → 山階 → 原田と進みます。
伊勢御師 四国日記讃岐分7 白方・山階
 「四国之日記さぬき(讃岐)之分」 白方・山階・原田伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山


「こんそうしの内 おやこ三人家あり」とあるは、鶏足山宝幢院金蔵寺のことです。智証大師円珍の生誕地と伝え、和気氏(旧因支首)の居館があった所とされます。この時期は、いくつもの子坊の連合で維持されていたようです。その中に伊勢御師からお札を預り、配布する僧侶(聖)がいたようです。
 えとさかや(酒屋)殿とあり、酒造業をいとなむ者が、金倉寺周辺にはいたことが分かります。このあたりは金倉川の地下水が豊富で、今でも金陵の酒蔵は、この近くにあります。
次の「小松の分」は、小松荘で現在の琴平町、きしのうえ(岸上)はまんのう町になりますので、次回にします。
 ここまでをまとめておきます。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」