前回は庄内八浦を、ひとつの集団として丸亀藩は捉えていたことを見ました。その中で、幕末には粟島には何軒もの廻船問屋が姿をみせ、対岸の箱浦にも勝間屋(森家)が松前藩と活発な交易活動を行って、富を集積していたことを押さえました。今回は、志々島の「伊勢屋(上田家)」を見ていくことにします。
粟島】香川県の隠れた名観光地!釣りスポットだけじゃない | ARINKO LOG

角川の日本地名大辞典からは、志々島について次のような情報が得られます。
①詫間郷に属す庄内村が幕末に、志々島を含め大浜浦・生里浦・箱,南・積浦・栗島・香田浦・家浦の諸村に分村された。
②村高は、旧領_59石余
③耕地は畑17町8反余。屋敷3反余、
④戸数133・人口673(男329・女334)
⑤漁舟50
⑥泉は水之浦泉
⑦神社は八幡神社・大山祗大明神・十握明神ほか祠6
⑧寺院は利益院(山崎藩時代に京都大覚寺の末寺として創建)
⑨魚業の島として栄え、寛政11年には荘内浦・粟島でナマコ120斤が中国に輸出(詫間町誌)
ここからは幕末には、この狭い島に673人も住んでいて、漁場と廻船に従事していたことが分かります。ただ、廻船に使われた持ち船などは記録には出てきません。

『瀬戸内海 志々島の話』には、伊勢屋(上田家)のことが次のように記されています。(要約)
「志々のいせやか、いせやの志々か」と唄われた。その屋号の由来は、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれた。以下の当主が船持ち、船問屋や志々島の組頭として活動した。
享和期頃  上田善八
文政期     勘蔵
嘉永期     森蔵
志々島の廻船問屋の活動を裏付けるのが八幡神社の拝殿内に貼付されている木札で、次のようなことが分かります。
①「奉納随神寄付」(文政12(1829)年)に、大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、尼埼西町の網屋からの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われた。
②「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前、伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、志々島の廻船問屋が大阪方面とつながっていたこと
①からは、志々島の魚が大阪雑魚場に届けられていたこと、その取引を通じて大阪の網屋とも親密な関係にあったこと、②からは志々島にも廻船問屋が何軒かあり、持ち船も持っていたことが分かります。

伊勢屋の「御客船御祝儀帳」から志々島に来港した廻船を一覧表にしたのが下表です。
志々島廻船来港数一覧
志々島に到着した廻船は、世話料として伊勢屋に「御祝儀」を届けています。それを年次別化すると一番多かったのが嘉永5(1852)の33艘です。幕末から明治にかけての30年間で239艘がやってきています。
 廻船を船籍地別に見ると、摂津の「灘目浦」地区の各湊が98で最も多く、日向・播磨・肥後・伊予などと続きます。こうしてみると瀬戸内海を東西に航行する各地の船が志々島に立ち寄っています。その中には、「因州御手船」「伯州御手船」などもあり、各藩の海上交通の拠点ともなっていたことが分かります。
 また、停泊するのは一泊だけではなく、次のような表現も見えます

「三日、四日逗留」、「死人御座候二付世話料二被下」

来島の「祝儀」の中に葬儀料が含まれています。航行中に亡くなった乗組員の葬儀まで世話しています。

ここで研究者が注目するのは、「たて草代(船を爛でる経費)」や、修理等に使用する「輪木」代金を支払っていることです。
船タデでについては、多度津と櫃石島にタデ場があったことは以前にお話ししました。

多度津港の船タデ場
多度津湛甫に見える船タデと、その背後の造船所(讃岐国名勝図会)
多度津港 船タデ場拡大図
多度津湛甫のタデ場と造船所の拡大図(讃岐国名勝図会)
大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。その背後では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。
 タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。つまり、木造船のメンテナンスに不可欠なタデ場が志々島にはあったことが、廻船を呼び込む要因のひとつだったのです。

本島の塩飽勤番所に残された文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録(坂出市史より引用)です。
与島船タデ場 利用船一覧
ここからは、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かります。
これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。そてして、船タデ経費として次のような項目が請求されています。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用
つまり、船タデには周辺の島々から大量の茅が燃料として持ち込まれていたこと、それを集積運搬する専業船乗りたちもいたことが史料からは分かります。備讃瀬戸には、次の3港にタデ場あったようです。
塩飽の与島
多度津(金毘羅大権現参拝の拠点)
庄内八浦の志々島
志々島にも周囲の島々から船タデ用の茅が大量に運ばれていたはずです。
春に大阪を出た廻船の船頭は、瀬戸内海を出て日本海に入る前にどこかの港で船タデを行って、船底を綺麗にして、船の最高の能力が出せるように準備います。廻船がタデ場のある港にやってくるのは、レースの前に必ずコックピットで整備を行うレーシングカーと同じようなものであったのかもしれません。しかし、志々島のタデ場がどこにあったかは、分からないようです。

志々島は広い漁場を持ち、漁業でも活気を呈していました。
「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島(志々島)漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛(タデ)場所を好み競て寄る。」

ここからは、志々島は、漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること、さらに諸国の廻船が立ち寄ることができやすい場所であること、その吸引力のひとつが、廻船航行に不可欠な「爛場(船たで場)」があったことだと指摘します。
 
「庄内八浦」の漁業について、藩の生魚運上徹底の周知文書から研究者が作成したのが次の表です。
庄内八浦 船方運上者

 この史料は、元文元年(1736)10月27日、庄内組大庄屋辻佐右衛門(大浜浦庄屋)に、丸亀藩の代官水野理右衛門・福田定右衛門が奉行衆からの生魚運上徹底を伝えたものです。その後、11月7日、大庄屋が浦方へ読み聞かせを行い、それに対して組内の漁人・生船持・組頭が連判しています。ここからは網方運上を納める漁人が62人、生船を持って運搬している者が8人いたことが分かります。研究者が注目するのは、運上銀の吟味を「問屋藤六」(魚問屋)が行っていることです。浦での魚問屋の占める重要性を研究者は指摘します。

『瀬戸内海 志々島の話』は、志々島の漁業について次のように記します。(要約)

①明治初年までは広範な漁場を一手にして、島は鯛シバリ網の本拠地となり、近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要としたのである。

 また、明治2年の文書(原史料は不明)には次のように記します。

「当嶋(志々島)は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」

意訳変換しておくと
志々島は石高60石足らずで、家数は150軒、750人あまりが住む、農業だけでは渡世できないので、古くから漁業に進出し、東は真島上より、西は香田浦和田門磯辺までを網代としての権利を持って、四季に渡って、繰網、蝶網、打瀬小職までの漁獲方法を駆使して操業しています。加子(水夫)役の者はもちろん、菜代米などの運上も滞りなく上納している」
ここからは次のようなことが分かります。
①石高が少ないが家数や人口は多く、多くは漁業や廻船の乗組員として生計を立てていること
②操業区域として、土器川河口の真島から香田浦かけての広域的な漁業権が藩により与えられており、特に鰭や鯛の宝庫であった
③島の漁業が「繰網、蝶網、打瀬網、小職」であったこと
 この漁場獲得については、江戸時代末期に、丸亀藩の財政逼迫の際に、志々島の「伊勢屋」に借り入れの申し込みがあったときに、「伊勢屋」当主は「藩へお金をお貸しすることはできません。御用金として上納させていただきます」と多額の金子を献納した。その報償としての意味合いがあると伝えられています。

次に、魚運上を記録した249件を分析して、志々島の漁業の特色を研究者は次のように記します。
①漁獲された魚種、それらの搬送方法と搬送先が分かる
②漁獲高は、大蛸・鯛・飯蛸の順
③搬送は地船が多くを占め、対岸の備前や遠く淡路などへも送られていること
④その半分を占める「魚種不明」のものは、地船が51件と最も多く、東瀬戸内海各地に搬送
 以上からは、志々島の漁業は単に讃岐一円に留まることなく、東瀬戸内海という広い範囲に流通していたことが分かります。それは、遠隔地からの出買よりも、地船の活動で可能となったと言えます。その地船の動きは、志々島や庄内浦の役所が把握していたのは、先ほど見たとおりです。こうして見ると、「庄内八浦」というまとまりの中で、各浦の漁業が展開していたことが改めて分かります。
  以上をまとめておくと
①志々島は、特権的な広域魚漁場をもって、多くの網元が操業していた
②大型網による操業は、多くの人手を必要としたため志々島に多くの漁師が集住するようになった
③同時に、西隣の粟島の廻船問屋と同じように大坂商人たちとつながり、交易活動を展開した。
④志々島が諸国の廻船を惹きつける吸引力となったのが、粟島湾の良港と志々島のタデ場であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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