大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野
江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。
①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山
このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。2月末に行われることになった鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。


A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。
「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。
B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月三日 西村市大夫宮井清上様
意訳変換しておくと
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。A 一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上二月三日 西村市大夫宮井清上様
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日 西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様
C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月四日 西村市大夫杉上加左衛門様徳永二郎八郎様
意訳変換しておくと
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。二月四日 西村市大夫杉上加左衛門様徳永二郎八郎様
D 今までに送った情報の修正です
意訳変換(簡略版)しておくと一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り宮井清上様十河亀五郎様尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月四日
D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。
E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上´二月四日 庄屋 西村市大夫安富弥右衛円様森 人右術円様尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上二月五日 十河亀五郎宮井清七西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上二月五日 森 太右衛円安富弥右衛門西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
意訳変換しておくと一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、一 犬の墓一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上二月六日 西村市大夫宮井清七様十河亀五郎様
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。一 犬の墓一 中寺堂所 但し寺号なども分かりませんこの外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上二月六日 十河亀五郎宮井清七西村市大夫様
意訳変換しておくと
殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上
大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。
J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候一末寺ノ岡犬の基御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候一 中寺堂所御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候右の通リニ御座候、以上庄屋 西村市大夫宮井清七様十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。一 末寺ノ岡犬の基鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。一 中寺堂所コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上九月六日 十河亀五郎西村市大夫様尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上九月七日 西付市大夫十河亀五郎様
笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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