借耕牛 歴史の見方
借耕牛 まんのう町明神の出合橋
以前に借耕牛のことについてお話ししました。それに対して「牛の貸手と借手側の動きについて、もう少し詳しく知りたい」というリクエストがありましたので、そこに重点をおいて見ていくことにします。テキストは「借耕牛 琴南町誌595P」です。

借耕牛 峠道
借耕牛の越えた阿讃の峠と集積地

借耕牛 搬入ルート
借耕牛の越えたルート図

借耕牛は、どのような仕組みで明神に集められたのでしょうか?
それがうかがえる史料が昭和30(1955)年頃に、旧琴南町中通の博労・岩崎春市が得意先の借手の農家に出した次の葉書です。

借耕牛 貸し出し農家への依頼文

昭和三十年代 仲介業者から借手農家への葉書(琴南町誌)
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます
陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金(レンタル料)も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます
先は取り急ぎ御依頼中止ます           ´   敬 具
昭和  年   月   日      ..
香川県仲多度郡琴南町中通小学校前
家畜商并耕作牛仲介業             岩崎春市
これが琴南町中通の仲介業者が、讃岐の借り手側に送った案内葉書になります。「追出期日」というのが阿波から牛がやってくる日時です。それに合わせて、借手の農民に出された案内状です。気になるのは、「場所」が明記されていないことです。どこで借耕牛の「市(セリ)」は行われていたのでしょうか?。また、「借耕牛」という言葉は出てきません。「耕作牛」が正式の名称だったようです。

今度は阿波側の貸し出し農家から仲介業者(博労:ばくろ)への依頼状です。

借耕牛 貸し出し農家からの依頼文
貸出農家から仲介業者への依頼の葉書(岩崎春市提供)
内容を確認しておきます。
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。
早々
これが阿波の貸し出し農家からの仲介依頼葉書です。要点を挙げておくと次の通りです。
①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること
②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの
③レンタル先の確保の依頼
④牛を追い出す日時の確認
などが記されています。
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
借りる側は、仕事がようけできんの、足元が悪いの言うて牛の苦情を言う。それに阿波から戸川まで遠い所をやあやあ言うて追うて行くきん、弱っとるわ。讃岐の人は戸川から追うていなないかん。牛がもの喰わな仕事にならんぞ、陽に弱いぞと苦情を言う。そこで、ばくろうが、借り手と貸し手と相談したながら、ばっぱっと決めていくんですわ。多いときには、一期に百二十頭ぐらい世話した。

夏と秋の二回あるんじゃが、秋は日にち(レンタル期間)がちょっと長い。秋に弱る(困る)のは残る(借りてが決まらない)ができるんじゃ。秋は、一日を争うて仕付け(麦)せんでも良いので、安い牛がおれへんかと思うとるかも知れん。戸川で四晩ぐらい泊ったこともある。預った牛じゃきん、貸り手を見つけないかんし、牛には、一日に三べん飼料(はご)やらないかん。向うの百姓は牛のこと知らんきに馬喰つれてくるのもあるが、牛を借りたら使わな損というので、牛はやせるのが普通じゃ。

 馬喰の仕事を長いことしてきたんで、得意先じゃった漆川、昼間、足代などの農家はみな顔なじみになった。ことに、山分の人は、上げ荷というて、全部牛で荷を上げよったし、農耕にも使っていたんで、牛が多かったし、付き合いが深かった。

ここからは次のような事が分かります。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、自転車で廻って借り手の注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
以上を図式化すると次のようになります。

借耕牛取引図4
今見てきた琴南や箸蔵の博労たちの活動は、④や⑤のタイプになるようです。

借耕牛の取引システムについて、整理しておきます。
①農繁期が近づくと讃岐の借方農家は、 地元業者(ばくろ)に借牛の斡旋を依頼しる。
②依頼を受けた地元業者は、懇意な口元業者か貸方の業者、あるいは個々の農家に日時、場所を指定して依頼する
③依頼通知を受けた阿波の地元業者はその頭数を集めるためにソラの農家をたずね 「今年も頼みますよ!」と声をかけて歩く。
④仲介業者達は、双方の話が合致すれば、取引の日時と場所をそれぞれの農家に連絡する。
⑤取引当日は、阿波の貸方農家は牛をひいて指定場所までつれいき、借方農家もその場所まで引取りにくる。
⑥そして双方農家と仲介業者が立ち合って, レンタル料を決める。
⑦その際に業者は借り方農家の希望をあらかじめ聞いておいて、その希望に合いそうな牛を斡旋する。
⑧ある意味では「予約制」で、需給にパランスがとれているので、レンタル料は安定している。
⑨取引が成立すると、返却予定日をきめて引渡す。
⑩その時契約書をとり交わすかどうかは、その仲介業者と借方農家の信用度によって決定する。

このような博労(ばくろ)による信用取引が成立するまでには、次のような推移がありました。
明治時代は、ほとんど契約書を取り交わしていました。それが借耕牛慣習が安定化した大正末から昭和初年になると信用取引に変化します。ところが昭和16年以後の戦時下の統制経済の元では、農協が介入し一括して取扱うようになります。そのため仲介業者は閉め出されてしまいました。しかし、この方法では次のような問題点がありました。
①仲介業務を担当することになった村や農協の職員は、牛の良否、能力の判定技術がないこと
②そのため牛の能力に応じた代償額が出せずに公正を欠くようになったこと
③借手側農家の責任感が薄くなり、牛の酷使や過労などが続出して阿波農家が貸出を嫌がるようになったこと
④終戦直後の混乱の中では、牛を酷使するだけでなく、なかには屠殺して肉として売り払ってしまう者まで出てくるようになった。
⑤その結果、借耕牛の流通頭数は激減し、レンタル料は高騰し借り手側農家は困窮した。
⑥こうして敗戦を境として借耕牛システムは終息するかに見えた時期もあった。

そうしたなかで終戦の混乱から世相が安定すると、借耕牛を復活させたのが仲介業者(ばくろ)たちでした。彼らの努力と信用で借耕牛が復活したのです。昭和33年の調査では100%信用取引となっています。これは地元の業者が、各農家の事情をよく捉えていて、農家の信頼を得ているからだと研究者は指摘します。
取引の成立した牛は、讃岐側の農家にひかれて里に下りていきます。
農作業中の全責任は、仲介業者がもつことになっていました。そこで事故疾病などに際しては借方農家から仲介業者へ、 業者は持主に連絡してその処置を協議のうえ補償方法を決定しています。 また農作業が予定日以前に終るような場合には、連絡して日時を早めたり、遅れる場合の連絡なども、すべて仲介業者(ばくろ)が責任をもって行っています。

借耕牛9

 返却日になると、借方農家は牛の弁当 (飼料として普通麦2~3升を煮物にしたもの)を背負わせて、決められた日時に、その場所まで返しに来ます。これを「追い上げ」と云っています。追上げられた牛は双方の業者が立合って、事故の有無をしらべた後で持主に返還されます。その後、代金決済をして取引は終了します。こうしてみると借耕牛システムは、仲介業者(ばくろ)抜きでは成り立たないものであったことが見えて来ます。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

借耕牛が美合の明神にやってくるまでの光景を見ておきましょう。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」
②明神に着くのは午後3時~5時ごろ
③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。
④仲介人(ばくろ)が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立
⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。
⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。
⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
借耕牛 美合落合橋の欄干
俵2俵を背負って阿波へ帰る借耕牛 阿波では、米を持って帰るので「米牛」と呼ばれた

貸し出す側の阿波の農家は、前日に牛に十分な飼料を与え休養させます。そして、一番鶏が鳴くと同時に追い出します。常着の仕事着に股引をはき、尻をからげて手ぬぐいで頬被りをして出発です。牛の背には弁当と牛の糧(麦を煮たもの)や草履をつけます。

借耕牛 岩部

昭和10(1935)年、セリの前日に明神のある宿の宿泊者名簿に記された出身村名一覧表です。
美合口宿帳1935年 借耕牛
これを見ると、夏は美馬郡の一宇村や八千代村の宿泊者が多かったことが分かります。このふたつの村は、貞光側の最奥部のソラの集落です。山の上には、広い放牧場があって牛を飼うには適していました。供給地と移動ルート、セリなどについては、以前にお話したので、ここでは省略します。
 最後に見ておきたいのが、次の町村別貸出頭数表です。


借耕牛 貸し出側町村名一覧

ここからは、徳島県のソラの集落から借耕牛がやってきていたことが見えて来ます。注意しておきたいのは、香川県内の美合村(旧琴南町)や安原上西村(旧塩江)からも借耕牛はやってきてことが分かります。美合村の昭和10(1935)年夏の飼育頭数は650頭で、そのうち貸出数が450頭に達しています。これは阿波のどの村よりも多いレンタル数です。最後の雌雄島というのは、髙松沖の女木・男木島のことです。ここでは、讃岐にも牛を提供する村々があったことを押さえておきます。

借耕牛の起源についての従来の説は、次のようなものです。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)
徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
借耕牛 起源

髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。

阿波の国境に近い旧美合の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを放置することはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業の自由」を認められていなかった時代には、藩を超えての借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
 
文政九(1826)年の人口調によると、各村の牛の保有数と本百姓の牛保有率は以下の通りです。
      村の牛保有数  本百姓の牛保有率
勝浦村  97頭 54%
中通村      105頭  108%
造田村   57頭   29%
この表を見ると勝浦村や中通村は、阿波のソラの集落と地理的条件が似ていて、山間部に放牧地を確保して多くの牛を飼育していたことがうかがえます。しかし、平野が拡がる造田村では、牛を飼育する条件に恵まれず、牛耕ができたのは、一部の百姓に限られていて、大部分の百姓は備中鍬を使って人力で深く耕し、耕作を続けていたことがうかがえます。
  水田の面積が広がり、それだけ水利の便が悪くなると、水持ちをよくして収量を増すために、牛耕に頼ることが多くなります。造田村や下郷の村々では、牛の飼育の条件が悪く、請作に転落した小百姓は、牛を飼育する余裕がありません。牛を飼育していなかった小百姓が、農繁期だけ、中通や勝浦の山間部から牛を借りて耕作するようになります。こうして借耕牛は、高松領内の山分と里分の百姓間で、まず始められたと研究者は指摘します。
 それが借耕牛の需要が多くなると、国境を越えて阿波からの耕牛の導入が始まります。しかし、これは、江戸時代には経済活動の自由が保障されておらず、米の阿波藩への流出を髙松藩は規制していました。この体制下では、阿波牛を耕牛として導入することは難しかったはずです。高松藩では、耕牛の藩内での自給自足を目標にして、牛の飼育を奨励し、潰牛を取り締まり、盗れ牛や放れ牛については、領民同様に、五代官連署の御触れを出して調査を命じ、領内各地に牛の墓も立てられていました。つまり、牛の管理が厳しく行われていたことは以前にお話ししました。こうした中で、天保年間(1830~44)になると阿波からの借耕牛が行われた形跡が見えるようになります。
「稲毛文書」の中に 川東村の忠右衛門と阿波の重清村の藤太との間で結ばれた借耕牛の契約書が二枚残されています。 その内の契約書のうち、阿波の藤太の差し出した契約書を見ておきましょう。

借耕牛 江戸時代の契約書
    覚
一 米 二斗二升也
一 丸札 二匁也
右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件
                          阿州重清村 沼田  藤太
天保十一年六月七日
讃州川東村      忠右衛門殿
意訳変換しておくと
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
 
二枚とも墨で斜線が引かれています。これは何を意味するのでしょうか。髙松藩が認めていない借耕牛の契約書を無効と見せるためのものと研究者は推測します。この契約書の下部に、次のような書き入れがあります
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事

意訳変換しておくと

十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。

ここからは、一頭の借耕牛が、6月7日に藤太に追われて阿讃の峠を越え、夏と秋の農繁期を働き通したこと、10月10日に米二斗二升を背に載せて、藤太に追われて阿波に帰っていったことが分かります。この牛が、川東村の忠右衛門の家だけで働いたのか、丸亀平野の里分へ又貸しされて酷使されたかは分かりません。
    藩政期の借耕牛に関する文書は、ほとんどありません。ここからは、借耕牛の制度は高松藩によって公認されたものではなかったこと。そのため、借耕牛が盛んに行われるようになるのは、明治維新以後のことと私は考えています。
 阿波からの牛のレンタルは認められませんが、同じ藩内なら話は別です。美合村や安原・男木・女木島は、牛の飼育に適しています。そのため里の農家に牛をレンタルすると云うことが江戸時代の後半には始まったようです。それが明治以後に「経済活動の自由」が認められると同時に、借耕牛需用の増大に伴って、県境を越えて多くの牛がやって来るようになったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛 琴南町誌595P 355P
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