戦国時代の讃岐ついては、過去の研究の多くは近世に書かれた軍記物に頼ってきました。しかし、南海通記などの信頼性が失われる中で、一次史料による新たな記述が求められるようになっています。そんな中で、西讃守護代の香川氏については秋山文書などの発掘で、その解明が進み新たな実像が見え始めました。今回は、東讃守護代の安富氏を一次資料で追いかている論文を見つけましたので紹介したいと思います。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021年」です。

永世の錯乱(1507年)
永正4年(1507)に、細川京兆家の当主政元が、家臣の香西氏によって暗殺されます。これを契機に「永世の錯乱」と呼ばれる権力闘争が細川家内部で開始されます。その余波として、阿波の細川氏が讃岐に侵入し、讃岐はいち早く戦国時代に突入することは以前にお話ししました。この動乱の中に安富氏もたたき込まれていきます。
当時の安富氏の動きを系図化して見ておきましょう。
①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
安富氏の系図(一次史料によるもの)
ず安富氏の系図をみながら当主たちを追いかけて見ます。①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
次に登場するのが永正6(1509)には高国方として④安富元運(又三郎)が確認できます。元運は世代や仮名から元治の遺児である可能性があると研究者は考えています。細川高国が澄元を畿内から追うと、高国は守護代クラスの被官を重臣とする体制の復古に動きます。そこに起用されるのが⑤安富元成(又三郎、元運と同一人物?))です。こうして、元成によって、守護代家としての安富氏は復活します。ところが国元の讃岐には、阿波から澄元方の影響力が及び、元成の東讃岐守護代は実質を伴わなくなったようです。元成は永正11(1514)までに出奔していまいます。
高国は大永三(1513)に嫡男植国付きとして安富又二郎を配して、守護代家安富氏の復活を図ります。ところが、植国が大永5(1525)年に亡くなると、又二郎は出家してしまいます。こうして、守護代家安富氏の復権は挫折します。なお、守護代家・安富氏の傍流として安富家綱が高国に近臣として仕えています。そして、高国方に見える安富氏は享禄3年(1530)七月の安宮(安富)家綱の後継者と思しい又次郎の戦死を最後に確認できなくなります。つまり、在京の安富氏は永世の錯乱に飲み込まれて姿を消して行ったようです。

一方、澄元・晴元方についた安富氏を見ておきましょう。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
澄九・晴元と高国の京兆家をめぐる争いは、結果として細川家の弱体化を招きます。そのような中で、大永7(1527)、高国から離反した波多野几清・柳本賢治兄弟が晴元と結び、高国を破って京都から追放します。高国はその後は京都を奪還できないまま、享禄4年(1531)に敗死します。このような中で、大永7(1527)年以降に晴元方の安富氏が畿内に出陣したかどうかは分かりません。讃岐在国の安宮氏は、晴元方の安富氏のようです。
なお、安富元家は通称を又二郎、新兵衛尉、筑後守と変化させたいます。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
ここでは、安富元家以降、永世の錯乱で両細川が争う中で、安富氏も在京する高国方と讃岐に在国する澄元・晴元方に分裂していったことを押さえておきます。
在京する安富氏は、高い家格を期待されていました。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。
安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。
安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。
【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相違状如件享禄二(1529)正月二十六日 元安(花押)宇多津法花堂
【史料2】安富政保奉書「本妙寺文書」
当寺々中諸課役事、元保任御免除之旨、得其意候者也、乃状如件、享禄二年七月二日 安富左京進 政保(花押)宇多津 法花堂
史料1は享禄二年(1529)に、安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役を免除したものです。
研究者が注目するのは諸役免除特権が書下形式で発給されていることです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。安富元保は自分の判断で諸役免除を行っています。宇多津は、この時期には安富氏が管理権を行使していたことがここからは分かります。
日隆像(宇多津の本妙寺)

細川晴元の「堺幕府」樹立の背景には、日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れ利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」を構想していたと考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして自己の影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもありました。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったというのです。三好長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。そのサテライト拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。
史料2は、史料1の「元保書下」を受けて発給された奉書です。
ここに登場するのが「安富左京進政保」です。この人物は、長禄4年(1460)に「安富左京亮盛保」が在国の小守護代として確認できるので、政保は盛保の子孫の可能性があります。元保などの在京の安富氏は、畿内の晴元権力の意思決定には関わることができない存在で、在国の「安富左京進 政保」が国元を動かしていたと研究者は考えています。
本門寺の保護者が安富氏から篠原氏に替わったことを示す文書を見ておきましょう。
【史料三】篠原盛家書状「本妙寺文書」
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富吉筑後守(元保)如折紙、拙者其津可存候間、指置可申也、恐々謹言、篠原雅楽助 盛家(花押)天文十(1582)年七月十七日字多津法花堂鳳風山本妙寺多宝坊参
宇多津を支配することになった阿波の篠原盛家が「安富古筑後守(元保)」の折紙を先例として、本妙寺の諸役免除特権を認めています。「安富古筑後守」の折紙とは【史料1】のことでしょう。篠原盛家は本妙寺の諸役免除特権を引き続き認めていますが、これは安富氏の先例を継承するものです。「史料2」も書状形式なので公的な権限に基づくものではありません。
篠原盛家は阿波守護家の被官で三好氏と深いつながりを持っていました。「右京進」や「大和守」を名乗る篠原氏嫡流と盛家の関係はよく分かりません。しかし天文8年(1529)9月には篠原右京進と盛家が阿波守護家細川持隆の使者となって働いています。ここからは、篠原家の嫡流に近い位置にあったことがうかがえます。またこの文書からは、阿波守護家の被官である盛家が宇多津に進出してきたことが分かります。これは、安富氏にとっては宇多津の伝統的な権益を奪われたことを意味します。安富氏の管轄エリアに三好氏と縁深い篠原氏が進出してきたことは、三好氏への警戒意識を抱かせることになったと研究者は推測します。
【史料4】細川晴元書状「服部玄三郎氏所蔵文書」
去月二十七日砥十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知仔細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及是非候、所詮退治事、成下知上者、安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、恐々、八月十八日 (細川)晴元 (花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
宛先人となっている殖田次郎左衛門尉については、よく分かりませんが「山田郡殖田郷」を名字とする国人のようです。


三好長慶を支えた弟たち
十河一存は、三好長慶の末弟で讃岐国人十河氏を継いだ人物であることは以前にお話ししました。彼は天文17年(1548)を初見として民部大夫を称するようになります。仮名の孫六郎と書かれてるのでこの文書は、それ以前のものと研究者は判断します。一存が十河城を奪った契機やこの事件がいかにして解決されたかは、史料がないため分かりません。ただ分かるのは、これ以前は十河城は十河一存のものではなかったことです。一存が十河氏の養子となり相続したという説に疑問符がともります。【史料4】からは、十河一存の横暴に対して、細川京兆家から命令を受けて対応に当たっているのは安富氏だったことが分かります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。

【史料5】細川晴元書状写「六事家文書」
意訳変換しておくと為当国調差下十河左介候之処、別而依入魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯考入道(宗轍)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、四月十二日 (細川)晴元 (花押影)安富又三郎殿
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、その方が懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属したので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、四月二十二日 晴元(花押影)安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。
【史料5】については「香川叢書』や「香川県史」は「摂州表之儀過半属本意」に注目して、大永7(1527)年のこととします。しかし、研究者は次の点に注目して異論をだします。
①波々伯部宗徹、田井長次ともに晴元の奉行人であること。②波々伯部宗徹(元継)が伯守を称し始めるのは天文17(1548)年8月以降であること
以上から、この文書は晴元が三好長慶に敗れ没落する江口の戦い以降の文書とします。

ここで十河左介が晴元側について活動していることに研究者は注目します。十河左介は十河一存の一族でしょう。江口の戦い後になっても、十河左介は細川晴元に従う武将として三好方と戦い続けていることになります。さらに、安富氏も江口の戦い後も晴元側について動いていたことが裏付けられます。
江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。
そのような中で1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。
そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味すると研究者は判断します。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。これも阿波と讃岐の軍勢が一体化を示す動きです。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていく姿が見えます。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まり、しだいに反三好勢力となっていった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021年」
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021年」
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