長宗我部元親6

長宗我部元親年表

信長による本格的な四国攻めは、本能寺の変で実現しませんでした。長宗我部元親は、ある意味で命拾いしたのかもしれません。

秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

しかし、信長の後を継いだ秀吉は一貫して長宗我部氏に対して対決姿勢で臨みます。これに対して長宗我部元親も「秀吉の敵は味方だ」で、常に秀吉の敵対勢力と手を結んで、秀吉を牽制します。例えば

長宗我部元親の反秀吉政策
①天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」と同盟
②翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」と同盟
③天正12年(1584)に、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。その背景には、毛利氏が秀吉と停戦し、同盟関係を結んだことです。対秀吉同盟戦線としての長宗我部・毛利の利害関係が消滅したのです。
④天正13年(1585)には、秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。
こうして、長宗我部氏は軍事的孤立状態へと追い込まれます。今回は、秀吉の長宗我部元親に対する対応がどのように変化したのか見ていこうと思います。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。 

通説では天正13年(1585)の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。

長宗我部元親の四国平定?

しかし、実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力がゲリラ的抵抗活動を続けていたことが近年には明らかになってきました。そのため元親が四国全土を完全制圧したわけではないとする説が提唱されています。そして、秀吉はこれらの反長宗我部抵抗勢力に戦略物資補給などの支援を行っています。つまり、元親が四国を統一したとは言いがたく、軍事的優位に立っていたにすぎないと捉えるのが現実的な解釈だというのです。こういう状態では、長宗我部元親は秀吉と戦うことはできません。
長宗我部側としては、四国制覇どころではなく、秀吉との和睦交渉に全力を尽くすというのが実情だったのかもしれません。以下、史料で「長宗我部 vs 秀吉」外交の足跡をみてみましょう。
1585年の正月17日付けの、蜂須賀正勝と黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のようなことを伝えています。(『小早川文書』)
①秀吉=毛利間の婚姻締結のこと
②人質の小早川秀包のこと
③秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること
④秀吉は夏に四国を攻める予定であること
⑤秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること
⑥元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。
同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っています。(『山口県史』)。
 ここからは、長宗我部元親は土佐と伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたようですが、秀吉はこれを受け入れずに、その2か国は毛利に渡すことにしていたことが分かります。こうしてみると、両者の交渉は対等な立場での和睦交渉ではなく、立場の弱い長宗我部側が、より有利な形で降伏条件を求める交渉だったことがうかがえます。
 両者は和平交渉の可能性を探っていました。一旦は長宗我部側の要求を一蹴した秀吉ですが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の2点を申し出たため、秀吉も手を打とうとしたようです。
①嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
②信親の他、実子をもう1人人質として提出する。
このような交渉が出兵期限とされていた6月になっても続いたために、出兵は繰り延べられます。しかし、最終的に和平交渉は決裂します。
その背景には毛利氏と長宗我部元親の伊予をめぐる対立がありました。

毛利氏と長宗我部元親の伊予を巡る対立

     瀬戸内から南下する毛利(小早川)氏 宇和島方面から北上する長宗我部氏

毛利氏には伊予と土佐に対する領土的な野心がありました。
本願寺の記録『貝塚御座所日記』には、次のように記されています。

「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」

『小早川文書』等では、次のように記します。
「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」

ここからは、毛利氏が強く秀吉に伊予の割譲を求めていることが分かります。
秀吉の長宗我部元親処遇案が、どのように変化していったかを見ておきましょう。

秀吉の長宗我部元親処遇案

天正13(1583)年正月、秀吉は長宗我部氏征伐を打ち出し、夏に四国出兵を行う事を表明。同時に、毛利氏に伊予・土佐両国の領有を約束。
4月 紀伊雜賀根来寺を制圧し、改めて毛利氏に四国出兵の具体的な準備を指示
5月上旬には、6月3日の出兵と決まるが、下旬に6月16日に延期。この背景には、秀吉と長宗我部氏の最後の交渉が続けられていた。
6月中旬までに長宗我部氏は、阿波・讃岐の献上と実子を人質として差し出すことを条件に、土佐一国と伊予領有分の支配を承認され、和睦がほぼ成立していた。これに対して、伊予一国の領有を求める毛利氏(小早川隆景)が難色を示しめす。
そのため秀吉は一転して毛利側の主張を受け入れ、長宗我部氏との交渉は決裂、四国出兵へと進む。最終的な長宗我部氏の処遇案は、全面降伏を前提条件とする土佐一国のみの領有となる。

 平井氏は、秀吉の四国出兵について次のように評価します
「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」
「秀吉にとって四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」
 一方、藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

 長宗我部氏の「宥免」か「成敗」かの判断は、6月時点でも流動的であったようです。
秀吉・長宗我部・毛利の三者間における国分交渉は、次のように「A→B→C」と変化していきます。
A 「長宗我部=成敗、毛利=土佐・伊予領有」
B 「長宗我部=土佐・伊予(領有分)、毛利=伊予(残り分)」
C 「長宗我部=土佐、毛利=伊予」
ここでは、秀吉の長宗我部氏への対応が、わずか半年の間にめまぐるしく変化したことを押さえておきます。
その一方で、長宗我部や毛利など当事者以外に宛てた秀吉書状からは、別の秀吉の意向が見えて来ます
五月の段階で、秀吉は黒田孝高や一柳直末、加藤嘉明、中川秀政などの家臣に対して、長宗我部成敗を命じています。
 出兵開始時に秀吉から中川秀政らに宛てた書簡には、次のように記されています。
「秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候」
 将亦、秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候、申遣候、諸勢渡海候哉、再三如申聞候、物をしミ不仕、一手二令野陣、所々見斗、無越度様二可申付候、其方一左右次第、不移時日、内府可出馬候、成其意、路次中道橋、同泊々要害以下、権兵衛与相談候て、見刷普請可被申付候、路次伝、渡口、城之何と申所二誰を置候哉、委書付可申越候、何も其表様子、切々可有注進候、不可有油断候、謹言
                       秀吉(朱印)
(天正十三年)六月十七日
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
   意訳変換しておくと
秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する。諸勢が瀬戸内海を渡り、四国出兵を行うことになる。ついては、物見などの敵情偵察を怠ったり、戦場候補地を選定してなかったりなどのことがくれぐれもないように申しつける。内府が出馬した際には、路中の道や橋、港などについて、(仙石権兵衛)と相談して、普請して置くように申付ける。また、道順や、上陸地点、城の位置・名前・城主なども調査し報告すること。さらに、その時々の情勢の変化なども、油断せずこまめに注進すること。謹言
(天正十三年) 六月十七日                                秀吉(朱印)
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
ここでは「秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する意向」とあり、長宗我部成敗を前提としています。
ところが出兵時に秀吉が弟の秀長に宛てた史料には、長宗我部元親の処置について次のように記されています。
 尚、土佐一国にて候い長曾我部可指置候、細甚右衛門尉・三郎四郎二申含候、巳上、書状?蜂須賀其方への書中、遂披見候、
一、長曾我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曾我部かたへ進退候分にて、毛利方・小早川方へ安国寺を以令相談、尤之内義二候て、右之通二国宥免与申聞候処、間違候て、安国寺此方へ罷上、伊与国二不給候者、外聞迷惑候由、小早川申由候条、与州国二小早川二遣候、然間、土佐一国にて言申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎二申含、重而差越候条、定而懇可相達候、

一廿五日・廿八日・朔日、追々人数遣、三日二出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手二居陣候て、無越一度様二調儀専一候、

一甚右衛門尉・三郎四郎二申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀へ相談肝要候、謹言、
(天正十三年) 六月廿日                  秀吉(朱印)
     意訳変換しておくと
 なお土佐一国の長曾我部についての措置については細甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えている。蜂須賀方への書簡を参考にすること

一、長宗我部元親所領の土佐と伊予の配分については、毛利方・小早川方と安国寺惠瓊が協議して決定する。伊予・土佐両国を毛利に与えると漏れ伝わっているのは間違いである。それについては安国寺惠瓊を通じて調整しする。小早川は、与州を小早川に与え、土佐一国については留保するようにとの申し入れがあった。このことについての仔細は尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に言い含めてあるので、そちらに出向いた際に、聞き置くように。

一 25日・28日・30日に、次々と兵を出発させ、私は3日に出馬予定である。ついては、早々に渡海して、木津城でも、どこの城でもなんなりと、攻城することを申付ける。一手に集結して、攻め立てること。

一 甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えているので、そのことを聞き届けた上で、蜂須賀と相談しながらすすめることが肝要である。謹言
(天正十三年) 6月20廿日              秀吉(朱印)
ここには、国分交渉決裂の経緯を事細かに説明したうえで、次のように繰り返し長宗我部氏への対処の指示をしています。
「土佐一国にて侘言申候者可指置候」、
「土佐一国にて候ハ長曾我部可指置候」
この様子をみると、四国出兵の先陣をつとめた秀長でさえも、出兵時には長宗我部成敗と思っていたのも当然です。
 四国渡海後の7月になると、国分交渉決裂の経緯を本願寺が漏れ知ります。そして、四国出兵の背後事情が世間にも漏れ伝わるようになります。しかし、少なくとも六月の出兵開始までは、秀吉が家臣や外部勢力に長宗我部氏を「宥免」すと伝えた形跡はないと研究者は判断します。あくまで「長宗我部元親=征伐」だったのです。
 これに対しする長宗我部元親の動きを見ておきましょう。
秀吉の四国侵攻6
秀吉の四国出兵時の城郭
元親は羽柴軍の渡海に備えて5月17日には、吉野川沿いの阿波大西、翌日には岩倉に着陣しています。その後は「元親記」などには、阿波西部の白地城に入ったと記されます。この間も長宗我部元親は、水面下で秀吉と国分交渉を継続し和睦の道を探ります。一方で秀吉が出兵準備を進め、長宗我部成敗の方針を表明し続けているので、戦いの備えも必要でした。長宗我部方は、基本方針が分からないまま宙ぶらりんの状態に置かれます。

豊臣秀吉の四国征伐前

四国出兵は阿波・讃岐・伊予の三方面からの進軍になりますが、阿波・讃岐を担当した羽柴軍の構成メンバーについては、記録上で一部錯綜があるようです
ここでは改めて出兵時の羽柴軍の動向について見ておきましょう。
「大日本史料」では、天正13年6月16日条には次のように記されています。

「羽柴秀吉、弟秀長ヲシテ、諸軍ヲ率ヰテ、四国二渡海セシム」

これをみると、6月16日に秀長が諸軍を率いて四国に渡海したように思えます。しかし、続く関連史料(「多聞院日記』天正十三年六月十六日条)には、「四国ハ陳立在之云々、当国衆ハ不立、如何」とあるだけで、出発したとは記されていません。
 天正13年10月に大村由己が記した「天正記」の「四国御発向井北国御動座記」(以下、「四国御発向」と略す)には次のように記されています。


A 秀長は大和・紀伊・和泉の軍勢を率いて淡路洲本に、
B 羽柴秀次は摂津・丹波の軍勢を率いて播磨明石より淡路岩屋に渡海
C その後、淡路南部の福良に一旦集結し、そこから阿波土佐泊に渡った

讃岐方面を担当した宇喜多秀家は備前・美作の軍勢を率いて、蜂須賀正勝家政父子、黒田孝高らと讃岐屋島に上陸したとされます。

 次に、羽柴軍の四国上陸までの過程を見ておきましょう。
秀次の部隊と同じ明石から岩屋に渡った中川秀政は、6月17日前後に淡路に上陸したようです。
史料に「権兵衛(仙石秀久)与相談候て」とあるので、秀吉の指示を受けながら、現地の仙石秀久と対応にあたっています。ここからは、急ピッチで阿波上陸に向けた準備が進められた様子がうかがえます。そして「四国御発向」とあるので、秀長・秀次らの軍勢は福良周辺に集結して、6月23日に阿波に渡海しています。
【史料3】
書状披見候、早々渡海之由尤候、美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候、不可有由断候、謹言、
                                        秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
  意訳変換しておくと
 書状を見た。早々に阿波への渡海が完了したことは幸先がよい。以後は美濃守・孫七郎と相談しながら事を進めること。由断することなかれ候、謹言、
                                秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
この書簡は、阿波への渡海終了を伝えた中川秀政への秀吉の返書です。中川氏は秀吉から個別に命令を受ける立場にありましたが、ここには「美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候」とあるように、渡海をする過程のなかで、秀長秀次を中心とした軍勢に、次第にまとめられていると研究者は指摘します。

 一方、蜂須賀氏も淡路で秀長と協議しています。しかし蜂須賀氏は「四国御発向」では宇喜多秀家の率いる讃岐方面軍の所属となっています。
さらに、「改選仙石家譜」や「森古伝記」には、蜂須賀氏のほか尾藤・仙石らの諸氏も、宇喜多氏と讃岐屋島に上陸したと記します。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 研究者は次のように解釈します
①蜂須賀氏らは備前・美作の軍勢を率いて渡海した
②しかし、宇喜多氏とは別行動で、淡路・阿波方面から讃岐に渡った
③蜂須賀氏・尾藤氏は、長宗我部氏の最終処遇案を詳しく知る立場であった。
④彼らが淡路で秀長に接した後、別働隊として宇喜多氏に合流した
⑤これは、秀吉からの戦略的な情報を現地で共有するという点においても重要だった。
 四国出兵は、豊臣政権による国内統一戦のなかで唯一、秀吉が現地に出馬しなかった戦いです。
史料でみたように、当初は6月25日、28日、7月1日と順次出兵を進め、秀吉自身も7月3日に出馬する予定でした。それが先陣の秀長への配慮などを理由に、最終的に出陣することはありませんでした。四国出兵は、秀吉が陣頭指揮を執るこれまでの秀吉の軍事行動とは異なるものでです。そのため、命令伝達や作戦指示も、多少ギクシャクしたものになったと研究者は考えていここでは四国出兵における羽柴軍は、秀吉の指示を逐一受けながら、秀長・秀次を中心に一定の戦略方針のもとに軍事行動にあたったことを押さえておきます。
  以上を整理しておくと
①長宗我部元親は、信長政権の後継者となった秀吉にも敵対的な行動を取り続けた。
②一方、伊予をめぐって長宗我部は、毛利とも敵対関係に入り、外交的に孤立化した。
③秀吉は長宗我部元親制圧のために四国出兵を実行した。
④最初のその軍事行動の目的は、長宗我部元親の打倒と、伊予・土佐の毛利への配分であった。
⑤これに対して、毛利方は外交交渉で譲歩し、土佐と伊予の南半分の領有という妥協案が生まれた。⑥しかし、これに対して毛利氏の反発があり、秀吉は毛利側の主張を容れた。
⑦こうして開始された四国出兵は、秀吉が陣頭指揮をとらない初めてのケースで、指揮系統や戦略目標の選定などに今までにない動きが見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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