「みつき(三ツ木村)・柏原名主百姓中」宛に出されている「欠年九月二日蜂須賀小六感状」という文書が三木家文書の中にあります。
この文書については、次のように評価されてきました。
①近世初期には蜂須賀小六から三ツ木・柏原の名主・百姓に渡された感状で
②惣村連合としての種野山を構成する惣村の三ツ木柏原名にあてて、天正13年(1585)蜂須賀氏の阿波入部に際して抵抗する勢力の鎮静化の功績を賞したもので
③惣村の惣有文書として位置づけられる。
ここからは、三木家文書の中には、近世初頭の惣村文書があったことが裏付けられます。それが近世半ばになって、多くの偽書が作成されて、その中に紛れ込まされたことになります。それでは、偽書がどんなどんな背景下で、何を目的に作られたのか、それを行った人物は誰なのかを今回は見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
まず近世に三木家が置かれた状況を、押さえておきます。
天和元年(1681)「乍恐申奉訴訟之事」には、次のように記されています。
「御入国之側、在々為御仕置黒部兵蔵様・久代市兵衛様御廻り被成候節、近村之百姓共右御両人様へしたかい不申候処二私祖父天田兵衛丞。同長左衛門罷出、彼者共しつめ、三つ木村迄御供仕、(中略)
如先年之刀指申様二被為仰付、井名字之義も御赦免被為成被為下候ハヽ難有可奉存候」
意訳変換しておくと
(三ツ木村庄屋長左衛門は、先祖の天田兵衛丞が蜂須賀氏の入部の時に挙げた功名について、次のように申し出た。代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様の見廻りの際に、近村の百姓たちが両人様に従わず抵抗しようとしたときに、私の祖父天田兵衛丞と長左衛門は罷り出て、百姓たちを鎮め、三つ木村迄御供仕、…」という勲功をたてたが、近年無姓になり勲功に見合った待遇をうけていません。ついては、帯刀と天田の姓を名乗ることをお許し願いたい。
代官として黒部・久代の名前が出てくるので、この訴状は最初に見た「天正13年9月の蜂須賀小六の感状」を前提にして書かれているようです。ここからは17世紀末の三木家の置かれた状況として次のような事が分かります。
①戦国末期に三ツ木柏原名にいた三木家の先祖は、三木ではなく天田を名乗っていたこと、②17世紀後半には無姓であった子孫は、天田姓を名乗ることを申請したこと③延享4年(1747)に、三ツ木村庄屋長左衛間が庄屋を罷免され、そのあとを分家の元助が引き継ぎ以後惣吉・武之丞と三ツ木村庄屋をつとめたこと。
③については、村内で土地取引に絡む不正事件が起こり、監督責任を問われた三木(天田)家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除,藩主御目見等)を失ったことが他の文書から分かります。その結果、天田(三木)家は経済的にも打撃を受け、またその後に当主の他界・嫡男の早世などが重なり、困難な状況に追い込まれたようです。こうした苦境から三木家を立て直すために、本家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ分家の天田家から恒太を跡取り養子として迎え,庄屋・天田武之丞を後見人としたます。
三ツ木村庄屋を本家に代わって引き継いだ分家の天田家の成長を見ておきましょう。
阿波では宝永3年(1706)に和紙は藩の専売になります。その中で三ツ木村は和紙生産の模範的な生産地に成長して行きます。寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、麻植郡山分のうち川井・三ツ木・木屋平などの村々の和紙生産について次のように記します。
尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、
意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 …木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、経済的指導者であったことが高く評価されています。ちなみにこの天田元助については分家が天田を名乗るのは二代目の惣助からであること、さらに三代目武之水は基助ともいわれていることから、初代の元助ではなく三代目の武之丞基助だと研究者は考えています。三ツ木村は分家三代のもとで和紙生産地として大きく発展をとげ、三代目の武之丞の代には藩役人の注目をも引くようになっていたことを押さえておきます。
藩の信頼を得るようになった天田武之丞は、寛政10年(1798)に「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を藩に提出します。
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為 下置候、其後御国御先祖蓬庵様御入国被為 遊候以来、御順国為 御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而 御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、 御耳ニ相達可申旨被 仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為 仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為 召出、蓬庵様エ御目見被為 仰附、御意被 仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為 下置、猶又小家拾八人無役ニ被 仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候、(後略)
意訳変換しておくと
一、私共の三木家の伊左衛門の家筋の元祖は、忌部佐兵衛尉重村である。元弘・建武の南北朝の兵乱の時には南朝方に仕え、軍忠があり、地領として種野山之内三ツ木村の近郷を領地とした。正平年間から在名三ツ木村から三木佐兵衛尉重村と三木姓を名のるようになった。2代目三木太郎左衛門尉より官途に仕え、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖の領地を相続した。代々の忠切を認められ、天皇からの綸旨・宣旨もいただいている。その後、阿波藩藩祖の蜂須賀小六様が御入国し藩主となられた。国の視察廻遊の際に、代官黒部兵蔵様・久代市兵衛様が三ツ木村に立ち寄られた。その時に、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、抵抗の構えを見せた。それを見て、曾祖父の三木兵衛尉の倅・長左衛門は、三ツ木・柏原の百姓を引き連れて、上山村へ向かった。そして抵抗する百姓たちを鎮め、御両人様を、兵衛の家にお連れし、川田村まで見送った。西川田村の住友五郎右衛門の先祖も、私共の家筋の者なので、そこに一宿し、翌日に舟で徳島城下まで見送った。(後略)
さらに寛政9年(1797)11月には「麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附」を藩に提出します。
この中で零落している三木本家の復興を目指し、自分の子息恒太を養子として送りこんだこと、同時に、三木本家は由緒ある家柄であるので無姓になっているのをあらため、三木姓を名乗ることを認めてほしいと願いでています。武之丞が書いた由緒書と、百年前に庄屋長左衛門が書いている訴状とを比較して見ると、先祖が功績があったとして無姓からの脱却を求めていることでは共通しています。しかし、注意しておきたいのは次のような相違点があることです。
①復活を求めている先祖の姓は天田ではなく三木になっていること。②家の由緒について、蜂須賀氏入部時点の先祖の功績ににとどまらず、中世にさかのぼる由緒をも強調していること
②について恒太由緒書は、中世にさかのぼる先祖について次のように記します。
一、御綸旨之儀、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年方二十二年迄四ヶ度‥永正九年之御綸旨、先祖之者江被下給、数通唯今二捧伝へ居申候、…先祖之儀者、忌部子孫之由二而、忌部宗時入道同佐兵衛尉重村と申候.其後地名ヲ以、三木衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進迄七代相続、右之者其後迄、種野山之内領地二而罷在候、…
意訳変換しておくと
一、(各天皇からの)綸旨については、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年から22年まで四度‥永正9年の綸旨は、私の先祖の者が受け、その数通が今も伝えられています。…私共の先祖については、忌部氏の子孫で、忌部宗時入道・同佐兵衛尉重村と申します。その後は三ツ木村の地名から、三木姓を名乗り、衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進まで七代相続しました。これがその後に、種野山の内領地にやってきました。
ここでは、前半では先祖は天皇からの綸旨を給わっているとし、その目録を提示しています。これを 整理したのが表六です。
上表の27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」
さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
32の「後村上天皇論旨」については、研究者は次のように指摘します。
綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。
48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。とすると自分たちの先祖が中世に遡ることを裏付けるために偽書が作られたことになります。
そして後半では、綸旨を与えられている先祖は忌部の子孫であり、南北朝期の忌部重村と鎌倉後期の宗時を結びつけそれを忌部を名乗る初代とし、二代目以降は地名をとって三木を名乗り戦国期に至る七代にわたり種野山内を本拠として続いていたとします。
そして後半では、綸旨を与えられている先祖は忌部の子孫であり、南北朝期の忌部重村と鎌倉後期の宗時を結びつけそれを忌部を名乗る初代とし、二代目以降は地名をとって三木を名乗り戦国期に至る七代にわたり種野山内を本拠として続いていたとします。
ここで研究者が注目するのは、最初に見た百年前の庄屋長左衛門の訴状とのちがいです。
百年前には蜂須賀小六感状が自分たちの由緒の「根本史料」でした。しかし、これでは無姓からの回復はできませんでした。そこで持ち出したのが中世に遡る「忌部氏子孫の三木氏」という大義名分でした。 これを援用するために持ち出したのが次の編纂物です
百年前には蜂須賀小六感状が自分たちの由緒の「根本史料」でした。しかし、これでは無姓からの回復はできませんでした。そこで持ち出したのが中世に遡る「忌部氏子孫の三木氏」という大義名分でした。 これを援用するために持ち出したのが次の編纂物です
①天明8年(1788)の序文を持つ地元の麻植郡で作られた『川田邑名跡志』②天明2年(1782)の序文をもち徳島城下町で作られている『阿府志』
ここには再編された中世三木家文書が引用されています。これに加えて、新たに作られた偽書で再編された中世三木家文書群と三木家由緒が用意されます。これらを整えたのは、庄屋天田家三代のもとでのことと研究者は考えています。1790年代の武之丞作成由緒書も、それらの偽書を裏付け史料として書かれています。ここでは、天田家本家(三木家)由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠として用意されたものであることを押さえておきます。
新たに作られた「再編中世三木家文書」と三木家由緒は、どんな特質をもつのでしょうか?
①南朝関係・武家関係の三木家への感状を新たに作成したこと②それにもとづいて蜂須賀氏入部以前の三木(天田)家の先祖は種野山三木名を拠点にしていた在地領主であったことを強調していること
この背景には、次のような動きがありました。
A 1740年代に、美馬郡を中心とした阿波国地誌『阿陽記』が編集されたB 1744年に、祖谷山政所喜多源内が祖谷山と喜多家の歴史を記した延享本『祖谷山蕉記』を編纂C 1759年に、祖谷山の高取名主八家が自らの家の歴史(由緒)を集成した宝暦本『祖谷山奮記』作成
こうして見ると、18世紀半ばに「地域の歴史」ブームが訪れ、各地域の歴史書が編纂されたことが分かります。ある意味で、これは郷土史ブームの到来を招きます。例えばCの宝暦本では、祖谷山高取名主八家のうち阿佐家と久保家(阿佐家分家)の先祖は平氏の落人間脇中納言国盛の子孫で、有瀬家は阿波守護小笠原氏のもとでの領主であったと記します。そして残りの喜多・小野寺・菅生・西山・徳善諸家の先祖は、南北朝時代に活動する在地領主だとします。それを裏づけるために新たに偽書として作られたのが南北朝年号文書です。これらの文書の背後には、高取名上を中核とした名主(惣村を基盤にする在地小領主)連合による祖谷山支配こそが祖谷山の本来の姿であるという歴史意識がありました。「望ましい姿(当為願望)」を裏づけるために、新たに偽書が作られる時代がやってきたのです。
近世半ばになると各村には、古文書・古文献だけでなく棟札・鰐口・石仏・供養塔等の金石文をも調査・学習し、それらに基づく由緒書作成を通じて自前の村落史像を作りあげる村人がいたことが各地から報告されています。その結果、つぎのようなことがもたらされたと研究者は指摘します。
村の歴史を書くことによって村役人層は組織化された村落を時間的にも空間的にも把握することになった」。「それまで文字で示されることがなかった村の歴史が文字によって明確化され,記憶されることになった」「地域の歴史が作成者の人文学的教養によって位置づけられるようになった」
ここでは、文字に置き換えられた歴史が,従来の口頭で伝承される「歴史」を塗り替え,外部の価値観に影響されていく時代がやってきたことを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
以上を整理して起きます。
①1585年に蜂須賀小六の入部の際に、抵抗する山岳武士の中で天田(三木)氏は、鎮圧側に加担し、感状を得た。
②1681年に、藩へ天田氏の姓を名乗ることを申請するも不認可。ここからは、三木氏がそれまでは、姓をもっていなかったか、何らかの処罰で姓を失ったことがうかがえる。
③1747年 庄屋の地位を罷免され、替わって分家(天田家)が庄屋継承。本家は衰退化
④ この時期から郷土史ブームが沸き起こり、編纂物が出版。背後に偽書の作成流行
⑤1790年 天田家は和紙生産のパイオニアとして経済的発展。
⑥1798年 天田家は本家を三木姓として復興することを藩に申請
ここからは、③から⑥の間に、三木家文書の中に偽書が紛れ込まされたことが見えて来ます。

延喜式内社をめぐる争論などでは、自分の住む所にある神社を有利にするための偽文書作成が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されてきたと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」
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