三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯

中世になると、中央の忌部氏も阿波の忌部氏も姿を消してしまいます。そのため荒妙貢納は、忌部氏以外の人達が担当していたようです。そして、忌部神社がどこにあったかさえも分からなくなります。それが「復活」させたのが三木氏ということになります。それでは、三木氏はどのようにして忌部氏を復活させたのでしょうか。今回は、阿波における「近世の忌部集団」復活のプロセスを見ていくことにします。テキストは、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。

高越山の麓にある麻植郡川田村は、近世から近代にかけて阿波における和紙生産の中心地でした。
『川田邑名跡志」の「川田渓」項には次のように記します。

「川田村二尺長紙を漉キ侍ル事ハ享保五年(1720)子トヤ、弥五右衛門卜云者始テ漉シト也、今ハ数件繁昌シテ阿波尺長ト云国産トハナリ侍り」

意訳変換しておくと
 川田村では二尺の長紙の紙漉きが享保五年(1720)から始まったという。弥五右衛門と云う者が始めて、今は数軒が従事し繁昌している。阿波尺長というブランド品にまで成長した。

ここには川田村が18世紀前期から先進的な和紙生産地になっていたこと、川田村高尾家は弥五右衛門の流れをくむ紙漉人の中心的な家であったことが記されています。

種補忌部神社のある種穂山
種穂(忌部)神社のある種補(たねぼ)山
『川田邑名跡志』巻一 種穂忌部社の由緒書きには次のように記します。
「当社古事伝来 神代昔天日鷲命ヨリ始メテ今ノ神主中川氏、麻穀ヲ製シテ祓清メ年毎二禁庭二献シ奉ル事也、神祇伯白川殿御役所江指上来り候…」、
巻六川井山項に「麻絹名…三木氏荒妙ノ宣旨下ル書アルヲ以考二、昔忌部姓大嘗会ノ年ニアタリ荒
妙ヲ織り進セラルゝノ地ナルヘシ」
意訳変換しておくと
「当社は古事の伝えによると、神代の昔に天日鷲命が始祖で、今の神主である中川氏まで、麻穀をつくって祓清め、年毎に禁庭に奉納してきた。そして京の神祇伯白川殿にも献上してきた。(中略)三木氏に荒妙の奉納を行うように宣旨が下っていることから、忌部氏が大嘗会の年には荒妙を織り、奉納してきたのは、この川田の地に違いない。
この由緒書には高越山鎮座天日鷲(忌部)神を「紙祖」として信仰し、「忌部の頭官衣笠宇内」の末裔であると主張します。ここからは忌部神信仰が川田村の紙漉人集団の中で復活していったことがうかがえます。この背景には、荒妙と紙漉きの類似性があると研究者は推測します。同時に、忌部神の信仰集団は、排他的特権をもつ講組織に組織化されていたようです。『川田邑名跡志』が書かれたのは1780年代ですが、その頃には種野山の忌部氏人が白川家(神祇伯)を通して荒妙を貢進していたという伝承が語られるようになったことを押さえておきます。
 川田村の背後に位置する種野山も18世紀中・後期には和紙生産地として発展していきます。
三ツ木村庄屋を本家の三木家に代わって庄屋職を引き継いだ分家の天田元助(武之丞=三木家の分家)のことが寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、次のように記されています。
尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、

  意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 … 
木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
 以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、藩からも高く評価されていたことが分かります。
 19世紀になると本家の三木恒太(武之丞の子)の子息・多十郎も三ツ木村の余紙(尺長紙)を扱う「余紙調人」を名乗るようになります。近縁に大阪の紙問屋がいるので、種野山奥地における和紙の生産・販売に関して三木家が中心に集団がつくられていたようです。それは川田の紙漉人集団が高越山に結びついていたのと同様に、三木家集団は種穂忌部社と結びつくようになります。

種穂忌部神社
種穂(忌部)神社

明治3年(1870)5月に三木家当主貞太郎(多十郎の子息)は次のように記します。

「私 自往古御衣御殿人与申、歴代天皇太嘗会之御時荒妙之御衣調進罷候、右は天日鷲神社神孫にて官位等蒙御勅許大嘗会之側者、上京仕御用相勤来申候処、中古以来御儀式被□□側より荒妙御衣調進在事、今に中絶罷居申候、御綸旨並太政官符及御下文等数通処持仕居申候、…前□奉申□□□上代御衣御殿人卜被仰付御座候得者、今般御一新二付而者、何卒私共往古之通御衣御殿人二御復古被仰付被為下候者、以後且麻宇且荒妙調進」
  意訳変換しておくと
 私は往古より「御衣御殿人」として、歴代天皇の太嘗会の際には、荒妙の御衣を奉納してきました。これは天日鷲神社の(忌部神)の神孫で官位もいただき、大嘗会の時には、上京し御用を勤めて参りました。しかし、中世以来この御儀式が途絶え、荒妙御衣の奉納も行われなくなっていました。我が家には御綸旨や太政官符・御下文など数通も保存しています。つきましては、古来のしきたり通り御衣御の奉納を申し付けいただけるように願います。今般は王政復古で古来のやり方を取り戻そうとしている御一新の時です。何卒、私共に往古の通りに御衣を貢納することを申しつけ下さい。

ここでは三木家は、古来から忌部神孫として荒妙貢進をおこなってきたが、新政府が引き続きその称号を認めれば今後も麻を献上したいという請願をおこなっています。ここで研究者が注目するのが最初に出てくる「御衣御殿人」です。これは何を指すのでしょうか?
 京の「白川家門人帳」をみると、伯家に入門し許免状を受ける者として、神官以外に百姓・番匠・柚職・木地師・紙漉などがいます。なかでも阿波と摂津では神元講・榊講など集団での入門が多いようです。例えば阿波の場合には、天保3年(1832)5月に「徳嶋神元講発願中手先世話人十二人」として、佐古・矢上・高原・瀬部・六条など城下町と近郊の村の者の名があがっています。この講が何を目的に結成されているのかはよく分かりません。しかし、商人・職人の集団であることは確かなようです。ここからは御衣御殿人集団も三ツ木村の紙漉人と販売に従事する商人で構成され、種穂社のもとに組織されている講集団と研究者は判断します。明治2・3年は神仏分離政策のもとで神社政策が一新されていく時期です。この時期にそれまでの講集団による種穂社を通じての白川伯家への麻・格貢進も終止符がうたれ、新たな対応策が求められるようになります。それが「麻・苧(格)」を直接に天皇家に献上することだったと研究者は考えています。
三木家文書の中の御衣御殿人関係の文書群をまとめたものです。
三木家文書 荒妙御衣奉仕関係文書

この文書群を研究者は、2から22までの上8通と46・47の下2通に分類します。
これらの文書には形式上、次のような問題点があると、研究者は指摘します。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがある。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。
20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
21について、「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように問題点を指摘します。   
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。

以上からこの文書群が次の2つを伝えるために作られた偽書であると研究者は指摘します。
A 三木氏が率いる御殿人集団を忌部氏の子孫で古い伝統をもつ集団だとするため
B 13世紀後半から都の忌部長者によって、阿波の忌部氏集団は自立性を保証される特権を持っていたこと

  46の「契約書」を見ておきましょう。これは鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。(意訳))
阿波国御衣御殿人子細事
右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23日の定期市とする。契約については件の如し
正慶元年(1332)十一月 日
正慶元年(1332)十一月 日
 中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行
 高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十
 藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道
 赤松藤二郎太夫  永谷吉守  大坂半六
 三木氏村(花押)
 「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙(麁服)御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。しかし、「御衣御殿人」は、近世の紙漉きの生産・販売メンバーの講組織であったことは、先ほど見たとおりです。「御衣御殿人」という言葉は、中世で使われていたかどうか分かりません。
麁服4

13人の連署者のなかに高河原藤次郎大夫と大坂平六がいます。
高河原は吉野川沿いの名東郡の村、大坂は大阪のことでしょう。近世の御殿人集団は、紙漉に従事する者のほかに販売に従事する者をふくんでいました。そのためメンバーの住む場所も、三木村以外に広がっていました。そのメンバーが南北朝期の文書の中に持ち込まれています。つまりこの連署者集団は近世の御殿入集団のメンバー名を、中世の文書の中に挿入していると研究者は考えています。
 さらに内容を見ておきましょう。47の正慶契約状では、集団は毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなうとしています。従来は、南北朝期に忌部一族としての御殿人が山崎の天日鷲神社にあつまり会合を開いていたことをしめすとされてきました。そして、それを取り仕切ったのが高越山の社僧たちで、これによって忌部氏集団は団結を確認していたとされてきました。しかし、よく読むと契約状には山崎に市が立つ日に開かれるとしか書いていません。

P1280383
                                               山崎の忌部神社
P1280391


 山崎神社のある山崎村西久保は山間部種野山への入口であるとともに吉野川の船着場にも近い交通の要衝の地です。麻植郡の紙は、紙請取人肝煎の種野山村庄屋明石直衛門の検査を受けることになっていました。近世末にはその紙役所が西久保に置かれており、その役所は20世紀後半まで種野山村旧庄屋私有の家として残っていたようです。
 以上から、契約状にしめされる会合は天日鷲神社とはかかわりなく、西久保の市や紙役所にかかわっての三ツ木村和紙の生産・販売をめぐる会合を反映していたことがうかがえます。つまり、二通の契約状は、近世の紙漉きの講集団の活動を中世の荒妙貢納にまで起源を遡らせようとしたものと研究者は判断します。

三木家文書を、研究者は次の3種類に分類します。 
A 三木家への感状類
B 荒妙御衣奉仕関係文書、
C 種野山関係文書
Aは三木家は種野山の在地領主であったことをしめすために後世に作成された偽書であること。
Bは荒妙貢進にかかわる太政官符など中世からの伝来文書と、阿波で荒妙貢進をおこなう三木氏を中心とする「御殿人」集団にかかわる偽書の混成となっていること。
Cについて在地種野山にかかわる伝来文書が大きな部分しめる。その中に近世に作成された偽書や伝来文書に手直しがされている文書が含まれる。
このうちの伝来文書は、種野山の三木・柏原名という惣村にかかわる中世惣村文書として伝えられてきたものです。天田(三木)家は、この惣村文書群に新規文書の追加や文書の手直しをして文書群の令面的な組みかえをおこなったことになります。その全体が以下の表にしめされた中世三木家文書ということになります。.
三木家文書一覧
最後に再編された中世三木家文書が作られる過程について、まとめておきます。
①峰須賀氏の入部時には天田姓を名乗っていた三木家は、一ツ木村庄屋として存続する
②18世紀中期に三木本家は庄屋役を解任され、分家の天田家が後継者となる
③天田家の元助・惣助・武之丞種野山奥地を新興の和紙生産地として発展さた。
④麻植・美馬郡域で忌部神の「再発見」が人々の歴史意識に大きなうねりを起こした。
⑤庄屋・神官・上層農民層は「地域と家の発見」という動きの中で、系譜造りや由緒書きがが行われるようになった
⑥天田家ももともとあった中世の伝来文書をもとに、新たに偽書を作成した。
⑦その目的は、三木一族が忌部氏の子孫で由緒ある家であることをしめすためであった。
⑧偽書が作られたのは1750~70年代にかけてのことであった。
⑨偽書は、三木家の先祖は南北朝期から戦国期に至る七代にわたる南朝方の在地領主であったことを示すためのものでもあったされた
⑩そのため偽書には、祖谷山高取名主と同じく南朝年号文書を利用された。
再編された中世三木家文書のもう一つの特質は、三木氏を中心に御殿人集団がつくられていたことを強調することです。その背景をまとめておくと
①18世紀になると三ツ木村は天田家を中心に、和紙生産が盛んになり講組織ができた。
②彼らは川田村種穂社の下に「御衣御殿人」として講集団に組織された。
③そして「御殿人集団」は南北朝期にさかのぼる伝統をもち、都の忌部長者の庇護下に荒妙貢進をおこなった集団であると主張するようになった。
④その証拠資料として、新たに偽書が作られた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)
関連記事