池田町史に「お話し歴史教材」として、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に記されていました。それを紹介しておきます。(池田町史(上巻)190P)
応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。
中世になると、新たに開発された谷戸田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷戸田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷戸田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。
昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。
①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
が、それらは貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことが見えて来ます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。
が、それらは貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことが見えて来ます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。
②の備前焼については、鎌倉時代の壺が三好市の馬路・松尾・川崎、白地の各民家に茶壺として伝世しています。
備前焼の壺は、農民のための種壺や酒壺として焼かれたものです。また、池田城跡の発掘の際も、室町末期の備前焼の破片が出土しています。前回見た阿波と讃岐の交通路であった中蓮寺からも、安土・桃山期の備前焼の鉢の破片が出てきています。ここからは備前で焼かれた壺が瀬戸内海を渡り、財田まで運ばれ、中蓮寺を越えて持ち込まれたことが裏付けられます。

福岡の市で売られる備前焼の大壺(一遍上人絵伝)

物語に帰ります。
最近、もう一つ無理をして買ったものがある。下肥を運ぶ桶である。今までは、用便は近くの川へ行ってしていたが、近ごろでは、どの農家でも屋外に便壺を掘って溜め肥料にするようになり、柚子桶がはやって来た。夜なべのないをしながら、父は京都での戦争に連れて行かれた体験を子供に話す。母には③宮座の寄合いのことを話して聞かせる。父は、村の長老である名主が、最近都から取寄せた大鋸の使い方を百姓たちに教えてくれるというので楽しみにしている。
今まで、板を作るのに、木を割ってヤリガンナでけずらねばならなかったが、近ごろ挽鋸と台ができてが安く手に入るようになったと聞いていたが、その製材用の大鋸と台を名主が手に入れたのである。父が楽しそうに話しているのは、新しい道具への期待だけでなく、寄合いの後で行われる酒盛りであるらしい。お面を被って踊ったり歌ったり、夜更けるまで酒盛りは続く。父は、秘かにその様子を想像しながら話し続ける。夜なべ仕事の手を休めることもなく。
15世紀後半の応仁の乱以後)は、「惣」の組織ができ、その団結の核となったのが社寺です。神社に集まって、同じ神事を行い、同じ神社の氏子として、共同体としての意識を強め、時にはお神酒を飲み団結を誓いあいます。一味神水の行事などもその一つでした。田井ノ荘の社寺がどのような状況であったか、記録や古文書は残っていません。ここでも「惣」を中心とする、村落の祈蔵寺が形成せられていたと研究者は考えています。
室町時代になると地域毎の特産物が登場し、流通経済に乗って遠くまで運ばれて行くようになります。

室町時代になると地域毎の特産物が登場し、流通経済に乗って遠くまで運ばれて行くようになります。

池田町史には、田井の庄の特産物として次のようなモノを挙げています。
これらの特産物が登場すると、それを生産する農家にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
山村は平野部に比べて、耕作地が少なく生産力が低いという先入観が私にはありました。しかし、山村でないと手に入らない特産品がありました。それが次のようなモノです。
A 荘内に産する砂金
荘内を流れる伊予川(銅山川)、相川が主産地で、馬路川の谷、川崎・大利付近でも産出したようです。砂金の産出は江戸時代まで続き、近代になっても一時、盛んに採集されました。また、古代からの銅山なども各地に開かれていたようです。金や銅以外にもさまざまな鉱山資源を産出していたことがうかがえます。
B 漆川の地名が示すように、漆は三縄の山分で多く産していました。
漆川の古名は志津川ですが、この地名が漆川に変わったようです。応永年間は志津川と表記されていて、江戸時代に入ると漆川となっています。ここからは戦国時代には漆が多く作られ、大西氏の領内特産品の一つになっていたと研究者は考えています。
C 紙の原料である楮(こうぞ)は、荘内山分の特産品でした。
中世には、衣類は楮を原料とする太布織が中心で、田井ノ荘の山分で生産されていました。阿波の太布織は京都へも送られた記録が残っています。布は、麻が好まれたようですが、この地方は太布の産地だったので太布を人々は着ていた可能性があります。養蚕も三木文書(美郷村)に見えるので、田井ノ荘でも行われていたようですが、製品は調として都へ送られたのでしょう。
D 三好郡は、古代から良馬を産することで知られます。
美馬郡(含三好郡)の名もここから生まれたとされます。宇治川の先陣争いで有名な名馬の生月は井内谷の生まれであると『阿波志』は記しています。池田地方でも牛馬の飼育が行われていたことがうかがえます。
E 吉野川を通じて木材が大量に下流に流されています。これらは撫養から堺などに運ばれていたようです。
美馬郡(含三好郡)の名もここから生まれたとされます。宇治川の先陣争いで有名な名馬の生月は井内谷の生まれであると『阿波志』は記しています。池田地方でも牛馬の飼育が行われていたことがうかがえます。
E 吉野川を通じて木材が大量に下流に流されています。これらは撫養から堺などに運ばれていたようです。
以上が田井庄の特産物で、これらが大西氏の財政基盤となったことが考えられます。三好氏に従って畿内に遠征し、長期間滞在するには財政基盤がしっかりしていないとできません。
これらの特産物が登場すると、それを生産する農家にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には、戦乱を避けて地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが豊かな村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが豊かな村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていく姿です。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。田井の庄の大西氏もこのような中で、大きな勢力へと成長して行ったことが考えられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史上巻190P お話し歴史教材 中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史上巻190P お話し歴史教材 中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活

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