池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

池田町史の下巻には、明治・大正・昭和を生きた町民の回想録が載せられています。これは約半世紀前(1980年頃)に収録されたモノで、私にとっては興味深いものが数多くあります。また史料的にも貴重です。その中からいくつかをアップしておきます。
 まず牛車の普及状況について見ておきましょう。
牛車の普及 池田町
  池田町の牛車 池田町史上巻907P
この表からは次のような情報が読み取れます。
①徳島県内の牛車は、明治26年ごろから増加し、 大正13年~昭和初期頃がまでが最も多く、以停は減少した。
②牛車増加の背景には、四国新道によって基幹道が整備され牛車が通行できる条件整備が行われたこと
③牛車減少は、昭和初期から土讃線整備が進み「運輸革命」が進展したこと。
④三繩村周辺は、後背地が広く、傾斜のきつい道路が多く、牛車が残ったこと

それでは猪ノ鼻越の馬車引きを30年続けられた伊丹久平さん(明治23年5月1日:聞き取り時点で91歳)の回想録を見ていくことにします。(一部、読みやすいように改変)

二軒茶屋コース
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 荒戸
前略
大正元年に台湾で除隊し内地に帰り、それから馬と牛を相手に暮らしました。
わしの親父は、讃岐から米買うて、池田へ運んでいました。わしも若いしになったころは、親父の手伝いをしたもんです。①明治22年までは猪ノ鼻街道(讃岐新道)が抜けとらなんだ。そのため馬を追うて船原へ上り、②二軒茶屋を越してアラト(荒戸)という今の財田駅のあるあたりへ降りる。朝の三時ごろ、州津を出たら、朝が白みかける6時ごろアラトへ着き、③馬に三斗負わせて、自分は一斗担いでもんて来る。そして昼飯食うて池田へ売りに行くんじゃが、わらじも作らないかん、馬の靴も作らないかんし、二日に一回ですわ。その二日で25銭儲かる。四斗で買うたもんを四斗で売るんで、升を上手に計っても茶碗一杯出るか出んかで、駄賃が25銭ですわ。こんなことした人は、もう皆死んでしもうたわ。牛の靴作れる人はあるかわからんが、馬の靴作れる人間は、わししかないだろうな。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①②からは、猪ノ鼻越の四国新道が抜ける以前は、船原→箸蔵寺→二軒茶屋→財田荒戸経由で米が讃岐から入っていた。
③からは、馬に三斗、自分で一斗、合計四斗で25銭の儲けになっていた。
ここからは財田荒戸には、阿波への米の集積店があったことがうかがえます。

四国新道が猪ノ鼻峠を抜けるまでの経過は次の通りです。(池田町史892P)
明治19年3月10日に高知県、3月25日に池田小学校、4月7日に琴平神事場で起工式。
明治19年春、東州津赤鳥居に県土木出張所が設けられ、浅谷付近の雑工事竣工
明治20年春には、落まで開通、
明治23年に猪ノ峠の掘削工事竣工し、香川県財田に通じた。
新道完成後すぐに、猪ノ鼻街道を利用するようになったのではないようです。回想録には次のように記します。
大正元年、馬車引きを始め、やがて馬を牛にかえて猪ノ鼻から荷を運ぶようになりました。
馬は足は速いがよくおぶける(驚く)んです。キン(睾丸)は抜いとるんですが、おぶけて走ったら馬が死ぬか人間が死ぬか、それでなくとも荷物は転落するし、危険が多いんですわ。それで牛車に替えたんじゃ。
大八車を引く牛
大八車(別名:天秤) 
大八車の名前の由来については、次のような説があるようです。
①一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
②牛の代わりに八人で動かすところから(代八車)
③車台の大きさが八尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ
④芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
全国的にも運送車といって、大型の大八車を牛や馬に引かせて、運び賃をとって荷運びをしていたところが各地にあったようです。回想を続けて見ていきます。
牛車いうても大正10年ごろまでは、二つ車の天秤という大八車の大きい奴ですわ。大正10年ごろからは四つ車になって、荷物も三百貫ぐらい積めました。 讃岐の米を阿波へ運ぶんですが、ここの浜から米俵一俵一七貫を井川や池田まで運ぶんが三銭、川口までだと十銭です。池田へ行ったら、あすこ持って行け、ここ持って行けって、配達までするんです。それで三銭です。一五俵積んで、川口まで行って一日一円五〇銭ですな。
 猪ノ鼻から運んで一円八十銭くらいになる。ところが猪ノ鼻へ行っても荷のないときもありました。くじ引きで当らな荷がないんです。それに大具の渡しの渡し賃が一車二五銭とられる。
そやけんど一円五〇銭いうたら当時の人夫賃の三人前以上ですわ。そのころは土方人夫が四〇銭、職人が五〇銭です。米一石が一二円で人夫貨は米三升といったもんです。一円五〇銭
と言えば米一斗以上です。 でも毎日毎日一円二〇銭はなかなか取れん。それに牛は米六石(七十円ぐらい)、馬は米一〇石と言われるぐらい高いんです。田(一反)は米三〇石、畑は麦三〇石と相場です。阿波池田からの荷物は、専売所の煙草が多かった。

四輪車を引く牛
牛の曳く四輪車
州津の人は他に仕事がないきん、牛車買える者は牛車引き、そうでない者は土方でした。
それも昭和4年に土讃線 が池田までが開通すると、荷物がばたりと止まりました。その後はカン木って、薪を運んだんです。個人の家では女子衆が薪しましたけん、酒屋や醤油屋、うどん屋などへ薪運ぶんですわ。そのうちにトラックが入って来まして、仕事がだんだん無くなりました。四つ車では三百貫ぐらい、トラックやったら四〇〇貫積めるし、牛車で一日かかるところが一時間で運べますわ。それでも、ぽつぽつやっていましたが、昭和15年ごろやめて百姓することになりました。 息子は一人戦死し、手元に残って鉄道に勤めていた息子も死んで、長女と末っ子が残っています。長女が今年七三歳になります。
考えてみると、わしの親父は、うもないもの食べて働きづめで死んでまことに気の毒じゃった。わしは親父と違うて、ええ時代に回り会うた。今は孫がアーンと泣いたら、そらそら言うて抱き上げる。昔の殿様の若様じゃ。
 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①四国新道開通後には、二軒茶屋経由から猪ノ鼻越にルート変更があった
②道が整備され、馬の背から牛が曳く大八車にかわり、後に四輪車にグレードアップした。
③猪ノ鼻峠に中継所ができて、讃岐側が運び上げたものを、阿波側に運び下ろすスタイルになった。
土讃線が財田まで伸びてきたのが1923年になります。この時点では、財田駅が土讃線の終点で、人とモノはここで降ろされ、猪ノ鼻越を目指しました。そのため財田駅の駅員は50名近くいて、荷物の扱いにあたっています。この時期が猪ノ鼻越の人とモノの量が最盛期だった時期です。それが昭和4(1929)年に土讃線が阿波池田まで開通すると、人とモノ流れは劇的に変化します。
 
猪ノ鼻峠2
猪ノ鼻峠                                  
猪ノ鼻峠3
かつての猪ノ鼻峠

次に明治34年生まれ(収録80歳)の方の回想「猪ノ鼻峠の運送と馬喰  池田町史下巻921P」を見ていくことにします。
(前略)
わしの家では、二反半に畑二反ぐらい作りよったが、それでは食うて行けん。それで、おやっさんは馬で荷物を運んどったんじゃ。馬買うて、讃岐へ米運びに行っきょった。阿波には米が無い。讃岐には米がようけあるきんな。明治20年代までは、猪ノ鼻の道が抜けとらんきに車が通れん。そこで船原へ上って、箸蔵時から山の峰を通って二軒茶屋を通って財田の戸川へ降りる。そこで讃岐で米買うて、馬に三斗負うせて、自分が一斗かたいで、夜の12時ごろもんて来る。早う出ても、帰るんは夜中になる。そのあくる日(翌日)、渦の渡し舟にのって池田へその米を売りに行く。一番上の姉が口取りに一緒に行くんじゃ。姉が馬の口元持っとる間に、おやっさんは米を運んだり注文取ったりした。姉が16歳で明治30年ごろのことじゃ。姉がよう話しとったわ。私は八人兄弟のおと子(末子)じゃ。
牛の曳く大八車
大八車を曳く牛 
猪ノ鼻街道が抜けると、近くの人はいっせいに車をこしらえて、牛車になった。
二つ車(天秤大八車)で、車の幅が四寸あって、四分か五分の厚さのかね(鉄)を巻くんじゃ。高さ(車の直径)が「ごに(五二)」いうて二尺五寸ある。「ごこう」いうて中心から、木が車の枠まで御光のように出とる。大八車のような形をしていて、米俵が二十俵から二十五俵ぐらい積める。一袋が十六貫六、七百ある。二五俵とすると四百貫以上になる。車が二つじゃきん、前と後がつり合わないかん。天びんじゃ。そして、それに懸けるんじゃ。
   讃岐に米の商売人が五、六人おって、阿波へ注文取りに来る。
百姓の家では、米はよけ食わん。麦一升に米一合か二合しか入れんのじゃ。讃岐の商人は池田の町人や酒屋が得意先で、注文取って帰って米を買い集めて、水車でふんで(精米して)、讃岐の車引きが猪ノ鼻まであげるんじゃ。これを「上げ荷」言うとりました。猪ノ鼻には運送店があって、一袋にいくらか口銭をとってそれを扱う。阿波の車引きは、この荷物を阿波へ選ぶ。これを「下げ荷」言うとった。下げ荷に一五人も(猪ノ鼻に)行ったが、荷が十人分しかない時は五人は仕事にあぶれることになる。が、翌日も行かな権利がなくなってしまう。荷物も、川口の酒屋とか、辻、池田と行先も違うので、くじで決める。くじはホービキという、かたい紙ででこっしゃえとるんじゃ。州津にも、大北と安藤という二軒の問屋があって、阿波からへ行く荷物を扱っとった。そこへ行って荷物があったら、猪ノ鼻まで積んで行く。そんなときは朝早く出ないかん。けんど、下げ荷と言って、わざに昼から行くことも多かった。
 わしが十九のときこんなことがあった。葉たばこが猪ノ鼻の運送店へかかって、池田の専売局へ送ることになった。「六貫の丸」というて、こも(薦)に包んである。米五俵の上に「六貫の丸」を、天びんの車に二十積んで、猪ノ鼻から帰りよった。讃岐からの荷物が遅うなって、猪ノ花で暗うなった。七、八町も下りた所で荷がくずれて積みなおしとった。十人くらい行っとったが、みな先に行って一人だけになってしまった。すると、今下りて来た猪ノ鼻の方から「がじゃがじ」と大きな妙な音が近づいて来る。すかして見ると、何と大きな象じや。足に鎖がつないである。矢野というサーカス団が、讃岐から高知へ行くのにを豬ノ越しに歩かせていたのじゃ。 
大正9年19歳のとき、天びんから四つ車に替えた。
ちょうど池田に煙草専売所が建っとったんで、仕事はようけあった。猪ノ鼻へ行かんでも、砂、バラスを、吉野川の河原から西井川の須賀の道路へ上げているのを、一日に五回ぐらい専売所へ運んだ。
 牛車ひきの賃金は、人夫の三倍というのが標準だった。そのころ、人夫の賃金は一円ぐらい。車引きは四円五十銭儲かった。そのころ、時計買うたんじやが九円だった。車ひきの二日分の賃金で、人夫氏の六日分ですわ。猪ノ鼻までは一俵で三銭五厘じゃった。州津、落、船原、中尾にかけて車が五十五台あった。
 兵隊から帰って、また百姓と車ひきじゃ。大正の終わりごろから土讃線の工事が始まり、坪尻へ砂、バラスを運んだ。一日に二回いった。賃金が一日4円20銭じゃ。昭和に入ると不景気で、それまで一貫目六円ぐらいしとった繭が二円になった。琴平銀行がつぶれたりしたが、鉄道の仕事は昭和四年ごろまで続いた。
昭和四年に土讃線が開通し、運送の仕事も少なくなったんで、牛馬商の資格を取って、ばくろうを始めた。この辺の車ひきもみなやめた。車を置いとったら税金かかるんで、みな売り払った。
たくあん用大根干し作業 徳島県立文書館
沢庵用の大根干しと牛車(徳島県立文書館蔵)

つぎの回想録は、戦後に中国から引き揚げてきて自動車輸送を始めた人のものです。(1101P)
 昭和二十一年一月の旧正月ごろ三縄へ帰り着きましたが、防寒や下着など今も保管しています。帰ってまた商売始めたんですが、自動車使って運送商売したんは、わしやが早い方だったです。三輪の新車で手木のハンドルでした。五百㎏積みの小まいやつで、十四、五万したと思います。免許証とったんは昭和二十六年だったと思うが、それまではぬけで走りぬいたです。試験は徳島であったが、向うに検定の車がないんで、こちらから乗って行って、その車で試験受けたんですよ。無免許で乗って行っても、それで通ったんです。
 
川島の渡し
川島の渡船に乗る三輪自動車
自転車や荷車と違うて、早くてようけ荷物運べるから、商売はしよかったですな。そやけんど、三輪や言うても、今のと違って弱かったです。猪ノ鼻越えるのに一、二へん止まってエンジン冷やさないかんのです。空冷のエンジンじゃきん十分くらい止まって、団扇であおいでやるんです。エンジンかける時にもようケッチン食うて痛かったでわ。車も頂々に良うなったけんど値段も上ったです。
 終戦後しばらくは統制で苦労したが、まあ乗り越してきました。二人の男の子も、池田と大阪でそれぞれ独立しとります。隠居というわけではないが、孫も三人できて、安心です。
 三人の回想録から分かることを整理しておきます。
①明治22年に猪ノ鼻越えの四国新道ができるまでは、二軒茶屋ルートが物流の主流だった。
②阿波の米を馬の背で運ぶ運送人が箸蔵には、何人もいた
③四国新道ができると、馬の背から牛が曳く大八車に主役が交代し、輸送量も飛躍的に増えた。
④讃岐から猪ノ鼻峠までの輸送を「上げ荷」、猪ノ鼻から池田までの輸送を「下げ荷」とよんだ
⑤米だけでなく煙草などの商品も活発に運ばれるようになり、大八車から四輪車へ移行した。
⑥昭和4(1929)年に、土讃線が池田まで開通すると人とモノの動きは、劇的に変化した。
⑦猪ノ鼻峠を往復する牛車は、薪運びなどに限定されるようになった
⑧戦後は自動車が登場し、牛馬は次第に姿を消した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史下巻 町民の記録889P
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