前回は、讃岐との境の猪ノ鼻峠越えの牛荷馬による輸送について見ました。今回は祖谷街道の馬の荷車引きを見ていくことにします。まずは、荷馬車をとりまく背景を、池田町史909Pで見ておきましょう。
池田町周辺の荷馬車数の変遷
ここからは次のような情報が読み取れます。
①三繩・佐馬地村ともに、日露戦争後に荷馬車が普及した②これは馬の大型化と道路整備が急速に進んだことが背景にある。③大正末期がピークで、それ以後は三縄村でも減少④大正末から昭和にかけて増加しているのは、土讃線建設による資材運搬の急増が考えられる⑤昭和になってから急減するのは、土讃線開通後の「運輸革命」による⑥それでも昭和10年ごろまでは荷馬車とトラックは並行して利用されていた
それでは「池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き」を見ていくことにします。
回想者は、明治31年11月1日生まれで、聞き取り調査時点で83歳の男性です。
前略
大正10(1921)年、24歳の時に大利で家を借りて、一年ほどは炭焼きに行きました。そのあと自分で山買うて、自分で窯ついてやりました。そのころは白炭でしたが、山買うて炭焼いていては金儲けにはならんのです。そのうち、①四国水力の隧道工事の土方に雇われて行ったんです。土方をして二百円貯め、それで②馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めたんです。上宍喰橋 沢庵樽の出荷(徳島県立文書館蔵)約二十年馬車ひきをやりました。車は、四つ車で前の車が小もうて、車の軸が自由に動くようになっている。後車は大きくて車台に固定し、四つとも車には鉄の輪を入れとって、手木がついていて、これを馬の鞍につけるようになっとる。後の車が三七貫あった。台も三〇質はあった。前車も十四、五貫ぐらいはあった。荷物は、鉄の輪だと三百貫ぐらいのもんです。
白地―中西―大利―出合―一宇―善徳―小島―和田―京上―下瀬―落合―久保総延長 12里28町55間(約50km)工費総額 420,209円内訳 県費補助金 108,969円郡費〃 51,255円三縄村費 116,512円24銭西祖谷山村費 57,460円48銭東祖谷山村費 79,012円28銭

祖谷街道建設三ヶ村規定
この新道の開通によって祖谷川流域の住民は峠越えをすることなく容易に出合に出ることができるようになります。同時期に土讃線も伸びてきます。つまり祖谷山に「運輸革命」がもたらされ、モノと人の流通量が飛躍的に増えます。これに拍車をかけたのが交通事情の大幅な改善を背景に、水力電源開発計画が進められたことです。四国水力発電KK(多度津本社:社長景山甚右衛門」の年表を見ると、1910(明治43年)に増大する電力需要を賄うために、三縄水力発電所の建設工事に取りかかり、翌年には完成させています。これを皮切りに祖谷川周辺では電力開発事業が進められていきます。①「四国水力の隧道工事」②の「馬と車を買うて祖谷街道の馬車ひきを始めた」というのは、以上のような「交通革命 + 電力開発」が進められる時期と重なります。
荷馬車 築地コンクリート工業のパイル管運搬(徳島県立文書館蔵)
続いて荷車をひく馬についての回想です。初めに買うた馬がオゲ馬(おくびょう馬)でひっぱらんで困りました。家内が、「何とか金は工面するけん、強い馬買うて来なはれ」言うて、四八〇円ちゅう錢こっしゃえたんです。里から借ったんか、娘のときからへそくりしとったか。それで、ええ馬探したら、徳島の近くのハタ(現在所不明)という所にええ馬居るちゅうて、馬喰の大下さんに頼んで四八〇円で買うてもろたんです。その馬は、結局四年しか使わなんだです。日射病にかかって死にました。仕方がないんで、これに負けん強い馬ということで、火傷しとったが良い馬を、大下さんに頼んで徳島から買いました。一六〇円でした。ところが、この馬も出合の奥の壁というところで殺しました。
③四国水力のトランスホーマーという重い機械を石井運送店から頼まれて運んどったところが、馬が後へのした拍子に、急な坂道じゃけん車が後もどりして、狭い道をはずれて、機械積んだまま、馬もろとも下の川へ落ちたんです。山鳴りがして落ちました。

出合発電所(三好市池田町大利 大正15(1926)年10月完成
③の運んでいたトランスホーマーは、時期的に考えると出合発電所のものだったと推察できます。工事のために、多くのモノと人が流入し、運送業も好景気だったことがうかがえます。あのとき、車ひきやめたらよかったんですが、また、方々借銭して馬と買いました。ところが、その馬が、四本のうち三本まで足を痛めて、世話するのに困りました。治療して伊予へ持って行って二〇〇円に売りました。二〇年の間に馬六頭使いましたが、馬は生き物ですので苦労しました。暴れたり、かみついたりする馬もありました。そんなのは、そのときにがいにひつけ(せっかん)するんです。がいにしばいてしばっきゃげるんです。そのときすぐひつけせな癖になる。
そやけど、馬は利口で可愛いもんです。商売道具でもあるし、ふけ取ってやったり、足洗ってやったり、精一杯大事にしてやります。馬屋の中へ、乾いた草やわらを入れてやると、すぐ、まくれまくれしてな。あれで疲れがとれるんですな。
A 1日目 自宅(大利)から池田へ行って荷物を積み、大利まで帰って来る。B 2日目 大利から西祖谷の一宇まで行って泊る。C 3日目 落合まで行って泊まるんですが、途中、荷物を配達しながら行くんです。D 4日目 さらに久保まで行って荷物を配達し、下げ荷と言うて、村木や、三塁などを積んで泊るんです。E 5日目 久保から一宇まで下り、F 6日目 一宇から大利までが一日
6日目に大利へ帰りつくことになります。その翌日は、また池田へ荷を積みに行くわけです。6日サイクルで祖谷街道を往復していたことになります。
祖谷街道の入口 出合橋
池田から積む荷物は、四国水力の機械やセメントのように、石井運送店などから特別に依頼されるものもあるんですが、上げ荷と言うて、商売人が注文受けて送る荷物がおおかたです。肥料、米、味噌醤油、干竹からあらゆる食料品、雑貨などです。そのころの道路は狭かったし、舗装はできとらんし、金輪(かなわ)の筋が入って、よけ重かったですわ。雨の日は仕事ができんが、降りやんだらいご(動)ける。雪があったらなかなか動けん。車も重いし、馬の足に雪がついて通れんのです。車を川へ落とすやいうことはめったにありませんが、荷物ころがしたりは時にありました。でも、これは荷主さんが損ということです。四川水力のトランスを落としたときは石井将太さんが弁償してくれた。
宿屋へ泊るときは、馬宿というのが別にあった。
そこでは、ちゃんと馬屋こっしゃえとった。出台の奥の南日浦にもあったし、一宇にも、眠谷にも、そこここに馬宿がありました。車に飼葉桶をつけて、休むときにも、宿についても、まず馬に水や飼葉をやります。馬が好きなのはそら豆で、玄麦や粉やわらをまぜて食わす。そら豆一日に六升ぐらい食わすんです。馬だけでも大分いります。
祖谷街道 大宮谷附近
賃金は、大正十年ごろで一日三円でした。
このころ人夫の賃金は最高で一円、普通は七十銭か八十銭でした。人賃の三倍以上ですが、馬糧に大分とられる。それに雨や雪が降って、ひとつも引けなんだら、自分も泊まらないかんし、馬にも食わさないかん。宿賃が七十銭もいるんじゃきん、祖谷へ行って雨や雪が降って滞在したら大けな借銭してもどるんです。馬も向こうの家で買うたら高いし、宿銭も払えんのじゃ。
戦争がはげしくなったころ、馬の微発があって、私も追うて行きました。夜の十二時に三好橋に集まって徳島まで十五、六頭で行きました。一五〇円で買いあげてはくれたんですが、また金足して買うわけです。戦争の終りごろ、池田の建物疎開のとき、壊した家の古材を一週間ほど島の川原へ捨てに勤労奉仕しました。私らは金光さんに泊って、馬は池田のホームにつないで一週間ただ働きでした。
車引きは、私が始めたころからしばらくが最盛期で、そのころ、六十五頭おりました。池田にもようけおったし、出合、大利、川崎、それに祖谷にもおりました。祖谷街道馬車組合を作っていましたが、新年会を清月でやったり、親睦が主だったです。荷馬車も、ゴム輪になって、荷物が倍の六百貫ぐらい積めるようになったり、楽に運べるようになってきたんですが、昭和十何年ごろからトラックが祖谷に入るようになったんです。
何とかいう人が初めてトラックで入って来たときは、荷物とられるっていうんで邪魔しました。我々の生命線を守れ言うて、一宇では自動車の前に大の字になって寝た人もありました。けんど時代の波には勝てまへん。だんだん荷馬車が減っていって、仕方なしに、自動車には道をよけてあげるということになりました。
戦争が終わったのをしおに車引きをやめました。二十幾年車続けましたが、貧乏から抜け出せませんでした。
トラック輸送については、次のような新聞記事があります。
祖谷渓谷
大正時代の祖谷街道の出現の意味を整理しておきます。 徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。これが祖谷街道完成後の大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞も、その日の午後には読めるようになります。昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。
明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
祖谷街道によって祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります。
戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は脇町から、池田へと比重を移します。その結果、昭和25年1月1日には、祖谷地方は美馬郡から三好郡へと編入されます。そして、平成の合併では、三好市の一部となりました。ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1143P 祖谷街道の荷馬車引き
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