徳島高速道路の美濃田SAは吉野川の美濃田の淵に面しています。ここの吉野川は、いままでの瀬から瀞へ流れが変化し、ゆったりと流れます。ここは網場(あば)で、木材が筏に組まれて吉野川の流れに乗って下流に輸送されていたことは以前にお話ししました。しかし、それに関わっていた筏師たちの輸送集団については、分からないままでした。池田町史を読んでいると、「最後の木材流し」というタイトルで、これに関わった人の回想が載せられていました。今回はこれを見ていくことにします。
テキストは、「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」です。
  まずは、池田町史上巻837Pで、吉野川を使った木材の流送を押さえておきます。
吉野川による木材の流送は、藩政時代に始まったとされますが、私は中世の大西氏の時代には行われていたと思っています。吉野川が木材輸送に使用されるようになったのは、元和年間に土佐藩が幕府への木材献上と藩財政建直しのため、吉野川上流の藩林の伐採を行い、流送したのが始まりとされます。そして19世紀になるまでは、盛んに木材の川流しが行われていました。しかし、新田開発などで流域の開発が進むと村々を護るために、徳島藩は天明年間に木材流しを禁止します。
 それが再開されるのは、明治期になって徳島・高知の両県の間に協定が成立してからです。
明治30年代以降になると徳島の木材商人は、高知県の本山周辺の国有林のモミ・ツガを買付け、徳島市場へ流送するようになります。大正期になると人工林の「小丸太」が新たに出回るようになり、官材の購入ができなかった地元の業者が買付けるようになります。

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菅流し 那賀川
那賀川の管流しの再現 

伐り出された木材は「どば」からばらで流し、一本木に乗って、とび口で上手に体をあやつりながら瀬を下ります。大歩危小歩危を越えて流された木材は白地渡しの上流の流れの緩やかなところで、網場(あば:木材を止めるために張った木をつけたワイヤー)に集められて筏に組まれます。敷ノ上の川原には、袋のような「止め」がつくられてあって、増水によって流された木材は、ここに流れ込んで山のように集められます。そして敷ノ上の渡し附近で筏に組まれました。

筑後川の網場
土場 木材の集積地

 こうした仕事を協力して行うために、大正から昭和のはじめにかけて、白地木材労働組合が結成されます。会長には、祖父江勘平や山西崎歳らが就任し、組合員も40名近くいたようです。戦前の白地・三繩は、木材送の根拠地でした。

昭和初期のトラック 阿波池田通運

 それが昭和の初めころからトラック輸送が始まります。さらに高知県に森林軌道が敷設され、越裏門以西の伐採木はすべて軌道輸送に切り替えられます。そのため吉野川流送の木材輸送量は減少します。明治大正を通じて平均年間11万石前後が流送されていたものが、昭和期戦前には数万屯規模に半減しています。
 1回あたり「一山一五万石」が標準で、40人グループの人夫で上流(本川)より、池田まで30日前後で流してきます。流送期間は11月から3月までの冬期で、これ以外の時期には県の許可が必要でした。
以上を押さえた上で「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」を見ていくことにします。
終戦になって、遊んでもいられないので、川向いにあった野田村の工場長から日給二円四十銭ぐらいで来ないかと誘われました。従兄で、流材をやっていた影石涼平に相談に行きましたら「せっかく製材へ入るんなら、本川(吉野川)へ行って村木流しをしたり、寸検もしたり、すべて終えてから入っても遅うはないぞ。」と言われ、食い捨てで日給十円ぐらいになるというので、本川の材木流しに行くことに決めました。
 昭和20年11月9日、大霧の朝、大杉の駅まで行って、トンネルを抜けて大槌へ流してきよるところへ行きました。小笠原という人が庄屋でした。
「庄屋」というのは、山の所有者(秋田木材など)で親方から一切を任された責任者で、仕事の段取りをはじめとして、全てを掌握する役です。一万石なら一万石の山を、親方から庄屋が詰負います。
これを流すために、次のような組を作ります。
「会長」は賃金の会計経理を預かります。「味噌会長」というのは、毎日の味噌とか、じゃことかとかを「人夫」から聞いて「炊き」に指示する役でした。「炊き」は、飯炊きで「人夫」25人に一人の割りで、女もいますが男も構わんので、25人の飯を炊いて、現場へ届ければ、男の一人前と同じ賃金をくれるわけです。

菅流し

現場の組織は、大材(国有林物で何万石というもの)の場合は、70人から80人ぐらい、小さい材木量の場合は、30人前後で「木鼻(きばな)」「中番」「木尻(きじり)」に分かれ、それぞれに各一名の「組長」がつき、これを束ねる役が「会帳」です。「組長」の下に「日雇」(人夫)がつくわけです。
 日雇は「目先ビョウ」「ムクリビョウ」「セキセイビョウ」など呼ばれる人に分かれていました。「目先ビョウ」というのは頭を働かせて、「この中石のところを通すよりは、こちらを回ったのがええとか、この石をいっちょうダイナマイトかけたら、ツゥーと通るから、こりゃすか」とか、頭を使う日雇いです。
「ムクリビョウ」というのは、言われたとおり仕事をする人夫でした。
「セキセイビョウ」というのは、足元の軽い(身の軽い)日のこと
「木」には「日先ビョウ」や「セキセイビョウ」が道をつけていくわけです。
「ムクリビョウ」は、「トンコの先でもお山を返すわ」というんで「突いとれ、突いとれ」 で材木を突いて流すという風な人夫で「中番」に多いわけです。
「セキセイビョウ」は、「木尻」におって、足元が軽く、一本木に乗って、スースーと、どこへでも行けるので、どんどこどんどこ追いかけてくるという風なことで流すわけです。「木鼻」(先番)「中番」「木尻」という組を作って、「日番」と「ムクリ」を混ぜていくことで一つの流れになるんです。

木材 管流し2

「庄屋」にだれがなるかは、山から伐り出した材木が大川に出たところで決められるんです。今度の山は、大体一万石(七二寸二分五厘、八寸五分の二間材で一石)とか五千石とか、三千石とかいうことで、庄屋が決まります。まあ、あいつにやらしてみたらというようなことで、組長しよったのが抜擢で庄屋になるわけなんです。一万石以上のようなものは、影石涼平のような大物がおって、庄屋しよった奴が組長に格下げみたいな調子になるわけです。
 人夫の中にはお年寄りもいました。            
弁当負うて、次はどこそこの河原で茶沸かしとけとか、豊かな経腕が物を言うことも多かっです。白地の涌谷政一さんは、元老と呼ばれ、天気予報の名人で、重宝がられていました。絶えず空を眺めて、親父どうぜよって言うたら、これはおいとけ、明日の朝は降るぞって言うてな。無理して押し込んどいたら、ようけ流れ出て、陸へ打ち上るで、中半な水だったら平水の時分に流しよるやつが、パァッと水が出て、打ち上げられたら、また、引っぱり込むの大変だから、今日はおかんかという風なことでおいたり、いろいろそういう相談役みたいな元とクラスの人が六十前後、七〇でも元気な人が二、三人はおりました。「ムクリ」は、二〇代から三十四、五歳まででした。
材木流しにも角力界のような厳しい掟が、自然にできていました。  
村木流しになるには、庄屋に対する誓いの言葉があるんです。
「本川煙草のドギツイ奴を、桐の木胴乱しこたま詰めこみ、越裏(えり)門、寺川、大森、長沢、猪、猿、狸のお住いどこまでついて行きます。」というのです。本川煙草というのは、ものすごく辛いんです。私らが持っているのは、黒柿の胴乱なんですが、桐の木胴乱ていうのは、水に浸かっても蓋がビッシャリしとるけん、煙草が湿らんのです、川へ落ちても心配ないわけです。とにかく、猪、猿、狸の住家までもついて行くわけで、これで親分子分の盃を交すんです。
 上下の規律は厳しくて、庄屋とか何とか役職がつくと、個室をくれるんです。旅館でも、組長とか、「トビ切り」の質をもらうものは、個室で、布団もちゃんと敷いてくれるし、お膳も猫脚のついた高膳で、酒も飲み放題なんです。「トビ切り」以上は箔仕がつてくれるが、上質取りになると、脚のないお膳で、自分でついで食べる。一番貨、二番賃やいうものになると、ちょうど飯台の上にレール倣いとりまして、木で作ったトロッコみたいなものに鉢をすえて、「おいこっちへ回してや」と、押して持って来て食べるわけです。
 そのほかに、味噌会長が「コウさん飯八台、じゃこ二〇円とか、味噌何匁」とかいう場合は「モッソウ」という木の丸いもんに入れて計り飯ですわ。そのときでも、「トビ切り」になるとお茶碗でした。本山へ着きますと、別館と本館があり、上質以上は新館、一番貨以下は旧館で寝るわけです。
管流し4
.修羅出し
 木材を運び出すのは大変な力のいる仕事で、集材地点までの、木集めの代表的なものが、修羅(シュラ)で、 丸太を滑り落とす桶のような設備。

昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子 天龍木材110年
木馬出し
 一週間おきぐらいに「スズカケ」じゃ、「大瀬」じゃ、「荒瀬」じゃという瀬があります。
その瀬を乗り切ると「切り紙」ちゅうて、小さいお銭を書いた切り紙をくれるんです。いわば辞令みたいなもんですな。「太郎殿十一円五〇錢、次郎殿十一円二〇錢」という風に、賃金で三十銭、五十銭と違うわけなんです。ほしたら、ゆうべまでは次郎が先へ風呂へ入りよっても、太郎が十銭上へあがると、太郎の方が「ちょっとお先に」というわけなんです。
 寝床も上質取りは、一人一つの布団ですが、一番貨、二番賃になると、二人ずつ、ニマクリ、茶沸かし、日になると雑魚寝というわけです。厳しい上下の規律があり、実力によってどんどん変わるわけです。
賃金を決めるのは、組長の下に「不参回り」というのがあって、みんなの仕事ぶりを見ているんです。あれは仕事しょらなんだ、あれは仕事はしよったが、水に落ちこんで火にあたりよったとか、詳しく見ているわけです。
 前にもちょっとふれましたが、野田製材の工場長が、日給二円四十銭ぐらいのとき、材木流しは、食い捨てで一〇円が上質でした。飲み食い全て親方持ちで一〇円ですから「ヒョウさんかえ神さんかえ」ちゅうぐらいだったんです。私のやめた昭和二十五年の暮、池田通運の方が月一万円取るときに、私など、食うて二万円ぐらいもろうていました。本山で言えば河内屋とか伊勢屋とかいうところに芸者はんがようけおりまして、そこで飲食したりするのは自弁でした。才屋で泊って、才屋で飲み食いする分には全部親方持ちでした。

 庄屋は、名義人というか、親方代人と言っていて、流送許可願に署名するのは庄屋で、秋田木材株式会社親方代人影石涼平と言ったものです。親方から請け負った金で庄屋が差配していたわけです。
材木 管流し3
                  鉄砲堰(テッポウゼキ)
昭和13年 川狩りで川をせきとめている様子 天龍木材
               堰をつくる 左が上流
水量の少ない川で水を溜めて、これに集材し、堰を開けて一挙に流します。

 行儀作法もやかましかったもんです。   
まず服装ですが、「わしゃ一生懸命しよるのに、賃金が上がらんぞ、どしたんぞ。」と言うと、
「お前そんな格好でや駄目じゃ」ちゅうことですな。
「一円も二円も違うんだったら、これ縫てもろた方がましじゃ」ということで、きりっとしたズボンをみんなが履くようになったんです。大膝組んだりしても賃金が上がらん。
「お早うございまおたぐちす」「お疲れさまでした」という風なことも口に出さなんだら「あれは半人前じゃから」ということでバッサリ下がる。中には酒飲んで包丁ふり回したり、鳶口でけんかしたり、いろいろあるんですが、これは放逐ということになります。放逐されると、半年なら半年、どこの庄屋も使わんわけです。親分の義理があるから、なんぼ手が要っても使わんのです。
 私が初めて現場へ行ったときは、影石源平の従弟だというので大事にされて、大槌から大田口まで十六日で着きました。十六日で金百六十円、その上に影石の親父にとドブ酒二升と小遣い五十円もらって、影石涼平に報告に行きました。すると、奥へ行けというので、大田口に着いて土場祝いがすむと、一番奥の田の内へ行ったんです。二回目からは厳しくなり、従兄が来てからはもっと厳しくなったんです。もうやめようかと思いましたが、従兄と一晩酒を飲んで、わしの顔に泥を塗らんといてくれと気合を入れられました。その後、一人前にしてやるというので、鴬の引き方、つるの張り方など相当教育されました。もともと川で泳ぐのは達者でしたから、なぁに負けるものかという気持ちでがんばり、昭和二十二年の二月末か、三月ごろから、こんまい川の庄屋か、先前の組長かで、上賃トビ切りということになりました。脚のついた高膳で得意になったものでした。
 (中略)
今は架線で飛ばしますけれど、その当時は、スラガケとかセキ出しというもんで大川(吉野川本流)へ入ってくるわけです。 大川へ入ると、大川入りというお祝いをします。 その大川入りとか泥落しとかを区切りに、古くは越裏門、寺川、大森、長沢から流していたのですが、現在は日ノ浦にもダムができて、流木溝ちゅうて、材木を飛ばす水路が別にあるわけです。それから、高薮の発電所の水路を十二キロほどずっと流して、沈砂池でもある程度足場こしらえて調整し、田之内の発電所へついたとき、流木濤へつっこんで、そこから水といっしょに飛ばすんです。水といっしょに飛ばすんと、空で飛ばすんとでは村木のみが相当違います。我々も、日ノ浦から請け負うて流したのですが、トンネルの中で詰ったり、いろいろしたことがありました。結局、中番、木尻が協力して流してくるわけです。
 途中、高知県にも「渡し(渡船場)」が相当ありまして、「渡し」には上賃取りを二名つけて、舟には一切あてないという条件もあるんです。例えば、「ジヶ渡し」は「今晩夜遅うになっても、こまわりをかけよ」と言うんです。ここまでという請け負いをさせることを「こまわりをかける」と言います。知人の組長に「こまわりをかけて、トキ渡しは切れよ」と言ったら、流して来よる過程でトキ渡しだけは木尻を切って、ここを過ぎたら今日の上質とか、三台つけてやれという風に、こまわりかけてでも、渡しだけは切って行くという風なことでやっておった訳です。

 白地までは(一本一本)バラで流すわけですが、木の上に乗って下るんです。
早明浦(今のダムより上流、橋のあるあたり)の下流、今のダムのある付近を、中島とか大淵と言っていました。その大淵にアバ(網場)をかけて、いったん大水では止める。大水が出ると一万石と三〇〇〇石の木が一緒になるので、それを選り分けつつ流すわけです。早明浦の橋までは筏に組まず、バラ木で来るんですが、村木の浮き沈み(大きい小さい)によって二人で乗って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりする場合もあります。一本に一人ずつ乗るのが普通なんです。
早明浦を越えると四本を縄でくくって筏にし、その筏であっち行き、こっち行きして流すのが普通です。大歩危小歩危も四本で下るわけです。豊永の駅の前に大きな瀬があり、雨でも降れば一本になります。あれがビヤガ、カナワ瀬と言うんです。いちおう、本山から下流になりますと、舟を一杯つけるんです。一丈八尺ある舟を一船つけるんです。
 本山から下には、ワダノマキとかクルメリとか言いまして、材木が流れ込むと舞う渦がありまして、絶対に出ない。このときは、舟で引っぱって出すわけです。それで本山から下は、舟を一杯つけ、筏は二杯三杯に増やすわけです。

筏 本川への合流

 流すシーズンは、正規の許可は十月一日から五月末までで、六月になれば徳島県の許可がいりますし、七月以降は絶対禁止でした。鮎釣りの漁業組合との関係もあったのでしょう。ですから十
月初めまでに伐らないと、木の皮がむけんのです。そのため皮をつけたまま来るわけです。ただし、重いので流送賃が高いんです。けれども、伐りだちは皮をつけて放り込まんと、皮をむいたら沈むんです。三〇〇石とか、五〇〇石の少ない場合や、急ぐ場合、注文材だったら皮をつけたまま流してくるんです。その場合はアクがあるというのか、艶が違うんです。

 いちおう秋伐りでも、お盆越えたら伐り初めます。お彼岸を過ぎると杉の皮をむいて使っていた時代です。杉の皮がもとまむけなくならないよう、三尺の元だけむいておくとか、苦心したものです。その当時一坪の杉皮が六十円か八十円もしましたから、杉皮むきは奥さんが、木伐りの方で親父さんがもうけ、夫婦で共稼ぎっていうのが相当いたんです。ぜいたく物も米版と味噌とじゃこぐらいでしたが、一般の家よりは米飯であるだけ贅沢だったかもしれません。

 流材の仕事に従事していたのは、主として大利、白地、川崎の人々でした。
川崎、白地、大利あたりでも250人くらいが従事していたのでないかと思われます。 尼後、石内、松尾、宮石から百五十人から二百人ぐらい行っきょったと聞いています。その中には、川崎の原瀬大作さんや西林さんなど今でも名を語り伝えられた人もいます。大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付したりで、不幸な生まれで苦労したそうですが、帰省するときは、村長さんが迎えに出たほどだったと言われています。

本格的な筏流しは三繩や白地・池田から始まります。
そのため筏師の親方が、この辺りに何人もいたようです。昭和8年の三縄村役場文書には「筏師九名、管流し百名」と記されていることがそれを裏付けます。この管流しの百名は、ほとんどが白地と中西(三繩)出身だったようです。つまり、中西や白地には大きな「木材輸送集団」がいたことになります。「大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付」と記されています。ここからは彼らの信仰を集めていたのが周辺の寺社ということになります。

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管流しの網場(あば:木材集積場)だった猫坊

三縄駅南の猫坊は、吉野川が大きく屈曲して大きな釜となり、下流で流れが緩やかになります。
ここは当時は、網場(アバ)と呼ばれ、村木の流失を防ぐために張る縄が張られていました。アバに集められた木材が筏に組まれる筏場(土場)でもありました。そのため多くのモノと人が集まって周辺は栄えていたようです。そこで三繩の漆川橋と山城谷村猫坊の商人が渡船を共同経営で運営していました。利用者は、船(渡)賃を支払っていた。しかし、昭和3年に三好橋が開通すると利用者が激減し、昭和9年ごろ廃止されています
 ここで池田や白地周辺の神社と木材流しの関係を探っておきます。
池田町上野の諏訪神社は、小笠原氏の氏神として創建されましたが、小笠原氏がこの地を去ると、氏子を持たない神社として退転します。これを復興させたのが商人や水運関係者たちです。諏訪神社は、池田の港から見上げる所に鎮座します。船乗りたちは、水の安全を守る神として信仰するようになります。更に、池田町が刻煙草の町として発達するようになると、氏子の数も増え神社は繁栄を取り戻します。諏訪神社の再建がいつのことなのかは、よく分かりません。ただ屋根瓦・彫物などに舟や魚に関するものが多くみられるので、舟運に関係する人々によって17世紀に再建されたと研究者は考えています。石燈籠や寄付者の氏名を刻んだ石柱などにも、船頭中や刻煙草商人が名を連ね、正面の絵馬にも船頭中の名が見えます。

漆川二宮神社 三好市
漆川二宮神社
 幕末ごろには一万数千人の信者が集まったと言われる漆川二宮神社も見ておきましょう。
この神社は先ほど見た猫坊の奥に鎮座します。吉野川から離れていますが、網場(あば)であった猫坊の筏運送者のから水上安全の神として信仰を集めたようです。そのためかこの神社は、山間部の神社とは思えない壮大な構えをして、本殿前の広場も広大で祭りには大勢の人々が集まっていたようです。この神社も船頭・木材流しなど、林業や運輸に関係する商人たちの寄進によって建立されたものと研究者は考えています。極彩色の花流しの絵馬がその名残を留めています。
 また一宮神社にも「船頭中」と刻まれた手洗いが残されています。箸蔵大権現も、この地域の煙草業者や、船頭など舟運関係者も水上(海上)安全の神として信仰を集めていたようです。それを示すのが本殿前の巨大な燈籠に、「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られています。  
 ここでは、池田周辺の大きな寺社は水運関係者や木材流しの信仰をあつめ、多額の奉納を受けていたことを押さえておきます。回想を続けて見ていきます。

 10月から5月末まで働くと、夏に遊んでいても、かなり裕福にいけたのでないかと思います。池田辺の普通賃金の四倍ぐらいが材木流しの賃金で、木馬引きで七人前というのが、常用としての基本賃金だったのです。賃金が高い原因は、ひとつは寒さです。鳶棹が、川につけて出すとすぐ凍ってしまいます。本川なんかでは、猪が飛び込んで、氷が厚いためによう出んと、水を飲んで死ぬというくらいの寒さです。「寒い日あいの言づけよりも、金の五両も送ればええが」と言うくらいですが、寒さはものすごかったものです。

賃金が高いもうひとつの理由は危険な仕事だったことです。
戦前は、ひと川流すごとに三人、五人と亡くなったこともありました。中石へモッコといって材木がひっかかっているときなど、一本木で乗り込んだりすると、前の方へ乗っているので、ずうっと潜水艦みたいに沈みこんで行って、着いたとき、チラチラッと向うへ走って行く。これが間違うと木の下へ潜って出てこれなくなる。
 吸い込まれたら相当泳ぎの達者な者でも、村木の下でお参りしてしまうわけです。だから、落ちこんだら、精一杯下まで行って、材木のない所まで行って頭をあげないと、材木の下になって死んでしまうんです。そういう命がけの仕事でした。
 朝一番に、ドブ酒を一台か二合飲んで仕事をする。唐辛子を焼いて闇に浮かして、ぐっとやる。加減を知らんと飲み過ぎてドブンと落ち込んでしまう。戦前に、ひと川で「今年は二人で済んだのう。三人ぐらいだったのう」というようなことで、今の交通事故みたいな死に方をしていたらしい。土地の人を「地家の人」と言いますが、一本木に乗るようなことはようしなかったもんです。
 大木のときなど、材木が狭い川の中で詰ってしまうと、バイズナというシュロの三分ぐらいにのうたやつで人間をくくって、岸の両岸から人間をつり込むんです。材木を崩しとるのを上流から村木が押しかけて来たら、両方からしゃくりよったが、あばら骨がばりばりっと言いますよ。「とび切り」という者が、そうした命がけの仕事をやるのです。そうした仕事を見ていて賃金を決める不参回りの制度などは、現在の会社などにも取り入れられると思います。

 朝、夜が明ける時分には現場へ行って火をたいて、夜が明けたら仕事を始めるんです。
日が暮れての先が見えんようになったら「届ぬかのお」というて帰る。朝は三時半に起きて、行って、火をたいて、鳶の先とかトンコの先とかツルの先を鍛治屋代わりに自分でやって、夜が明けるのを待って仕事にかかる。今の労働基準法みたいなことはなかったです。賃金は、だてにもろうとるのでないというのは、常に頭に置いとったです。
 夜の夜半に、ちょうど手ごろな水じゃけん、何とかせんかとか、それに発電所がある関係で、水が、材木流す手ごろなときが夜の場合と昼の場合と、また春先と冬とも違うんです。どんなに昼のカンカン照りの良い天気で、仕事をしたいと思っても、四花(四国電力)さんが断水しとったら水の流れが少なくで仕事になりません。その時には、昼寝しょっても良い。ところが夕方とか、朝早くでも、ダムから水が出た場合は、どんどん流さないかんという具合です。


管流しは、漆川の猫坊の浜がひとつのゴールでした。
ここに集められて筏に組まれます。川幅百mあまり両岸の岩にはローブをくくる太い留め金跡がいまも残ります。管流しの木材を受けとめるため、両岸の留め金の間にロープが張られ、そのローブに沿って村木が一列に結びつけられます。これが網場(アバ)です。筏師は網場の中で材木を集めて筏に組みます。11月から3月までの間の作業で、朝の寒い日でも筏師たちの勇ましい掛け声が猫坊の川から流れてきたと伝えられます。
私らの仕事は、バラ流しとか管(くだ)流しとか言って、その後は白地や猫坊などで筏を組んで徳島へ流すわけです。大体は、材木を流して来た者が、夏仕事に筏流しをやんりょったです。水量がありますと二日、穴吹で泊って行くんです。ちょっと水が出たら一日で徳島へ着きよったです。筏を宵に組んどいて、朝ちょっと早よ出たら一日でした。ハイタというて、端寸の板で、手元持ってこいで行ったんです。白地が主体です。筏流しは、中西、白地など三好橋から下が筏流しというわけですが、猫坊辺の人も行っとったです。

網場での筏組
網場での筏組
 集材組合っていうのがありました。あれは、大水に流れた流材を集めて保管して、拾得賃(保管料や用地費)を取る組合でした。
流村主は金を払って、また川へつけて流していく。自動車の入る所は自動車で積んでいったものです。一例をあげると「一本ここへかかっとるから損害十円払いましょう。」と言うと、「そりゃ困る、うちは十円もらいとうてしとるんじゃない。一晩中かけまいとして、つき放しつき放ししょったんじゃけど、力つきて帰んて来た後へかかったんじゃ。つき流した一晩の賃金をくれんかったら渡さん。」ということになる。
 材木を買うた方が安くつく場合もあるが、刻印を打ってあるので会社のメンツで受け取るということになる。河原にソネという名の石グロがあるが、あれが集材組合がこしらえたものです。集材の収入を白地のお宮へ寄付したとも聞いています。(中略)
  管流し中に洪水で木材が漂流した時には、どうしたのでしょうか?
その時には、所有者は流れた木材を取得した人に収得料を支払って引き渡してもらいます。
明治41年の三縄村役場文書によると、受渡しには世話人があって、出水の高低により取得料が定められています。収得料には一定した標準はなく、低水には長さによって一本につき一五銭より、中位は20銭前後、最高位は30銭ぐらいと記されています。沿岸住民は、このため出水時には夜を徹し、時には組を作り、舟を出して漂流木材を拾いをして稼ぎとしたようです。

筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門
附近を下る筏(徳島県立文書館蔵)
 私が最後に池田まで流送したのは、昭和24年でした。
そのころから、時代が変わりはじめ、早明浦に橋がかかり、どんどん道路が吉野川の奥に伸びていきました。これでは陸送に勝てん、村本流をしょったんでは食えん時代だなと考え、昭和25年の暮からトラックの助手をして、26年に自動車の運転免許をもらいました。
 一日に二万円ももらっていたのに、三〇〇〇円のトラックの助手になったのは大変なことでしたが、やはり流送というものの見通しが全く立たなくなったからでした。それに、年齢のいかないうちに免許を取っておかないとと考えたわけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと
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