景山甚右衛門と福沢桃介
多度津に設立された讃岐電気株式会社は、社長増田穣三のもとで設備投資を回収するだけの利益が上がらず、経営権が「多度津の七福神」のリーダーである景山甚右衛門に経営権を譲ることになったのは以前にお話ししました。景山甚右衛門は、「電力王」と呼ばれた福沢諭吉の娘婿の福沢桃介を社長に迎えるという形で、経営陣容を整えて祖谷川に水力発電所を作って、これを高圧送電線によって讃岐まで送電するという「水力電気開発事業」を進めることになります。電力王福沢桃介の顕彰に重点が置かれた現在の三繩発電所の説明版
当時は石炭の値上りで各電力会社共に経営が悪化していました。そのため祖谷川の豊富な水量に目を付けて水力発電への参入を開始します。1909(明治42)年8月30日、徳島県知事に水力利用認可申請を提出し、12月27日に認可を得てると、翌年3月には工事に着工します。このあたりは、多度津の商業資本家たちが景山甚右衛門を中心として多度津銀行を組織し「金融資本」への道を歩み始めていたことが、事業展開を円滑に進められた背景です。三縄発電所の建設は、投資額からしても会社にとっても「大きな挑戦」となるので、これを期に社名を「四国水力電気」と改称しています。 三繩発電所は77万円の経費で、2年後の1912(大正元)年10月23日に完成します。
同時に、当時最先端の高圧送電線網も姿を現し、11月10日より香川県に送電されるようになります。三繩発電所の設備は次の通りです。
同時に、当時最先端の高圧送電線網も姿を現し、11月10日より香川県に送電されるようになります。三繩発電所の設備は次の通りです。
①高さ13m、長さ7mの堰堤で、祖谷川をせき止め、約1700mの送水トンネル建設②下流の大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50m鉄管四列で水を落とし、③相交流発電機を回転させ、出力2000キロワットを送電する(後、2400キロワット増設)
現在の三繩発電所の廃墟
ここで産み出された電力は、三好郡内の三繩村・池田町・佐馬地村・辻町・昼間村・足代村・井内谷山村で、主に香川県に供給されていくことは以前にお話ししました。それが可能になる高圧送電線の技術をアメリカから技術輸入しています。これも福沢桃介の送り込んできた技術者集団によるものです。
ここで産み出された電力は、三好郡内の三繩村・池田町・佐馬地村・辻町・昼間村・足代村・井内谷山村で、主に香川県に供給されていくことは以前にお話ししました。それが可能になる高圧送電線の技術をアメリカから技術輸入しています。これも福沢桃介の送り込んできた技術者集団によるものです。
1926年 四国水力電気の送電線網
続いて、1925年は三繩村大利字路の出合発電所に着工します。 916P
『徳島毎日新聞』(大正14年4月12二日付)は、着工前の状況を次のように記します。
四國水力電気株式會社の第二發電所(出合発電所)工事 いよいよ起工前略落差四百五尺 發電力九千 水路延長祖谷川で四千三百間 松尾川千二百間 殆ど全部隧道工事にて電氣工費を合せば四百萬円の大工事にて三月二十二日準備に着手したる。請負人は福井市の飛島文吉氏にて四國水力電氣会社大利出張所には村井技師金久保土木擔任者外事務員三十名計りにて目下工夫其他人夫等五百名程が入り込み三縄發電所より西祖谷一宇までは電氣線布設の工事中。近日起工式挙行する筈で竣工は来年十月の予定。工夫は少なくとも一千五百名を使用すべく既に数ヶ所に五六間位宛の開坑をなしあり。附近一帯は此の大工事により大いに活気を呈して居る。

出合発電所
ここからは出合発電所は、西祖谷山善徳にダムをつくり、この水を一宇の上の貯水タンクに導き入れ、このタンクから約8千mのトンネルを掘って出合の中腹の小タンクに落とし、そこから四本の鉄管で123mの落差を利用して、発電機を廻すものだったことが分かります。大規模な水力発電所で作り出される安価な電力が、四水の競争力となり、他の電力会社との競争に勝ち抜いていく原動力となります。この会社が後の四国電力へと発展していきます。四国電力の百年史を見ると、「祖谷川電力開発」には、多くのページを割いていて、この事業が会社のターニングポイントとなったことを物語らせています。
しかし、この電力開発事業が地元との紛争を引き起こしていったことについては何も触れていません。
しかし、この電力開発事業が地元との紛争を引き起こしていったことについては何も触れていません。
池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」という項目を設けて、三繩村と四国水力電気株式会社(旧讃岐電気株式会社)との間の紛争を記します。ここからは、その紛争を見ていくことにします。
1909(明治42年8月30日)、三繩発電所の着工前に讃岐電気株式会社は三繩村との間に次のような契約書を取り交わしています
①祖谷川上流の木材の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材などの川流しに支障のないようにする。②三繩村には他村へ供給する定価より減額して供給する。
これ以外にも四水は、相当額の寄付金を口約束で支払うことを申し出ていたようです。こうして両者は円満のもとに工事は着工します。ところが三繩ダムが竣工直前の1912(大正元)年9月に堰堤上部に亀裂が生じ、近くの民家が被害を受け、四水から見舞金が支払われています。この補償額をめぐって両者の関係がギクシャクし始めます。さらに発電所が完成しても事前に結んだ契約書の内容が守られません。材木の川流しのために発電用のトンネル内を流すというのは、どう考えてもできるものではありません。出来上がった材木運搬用の施設も、形ばかりで使えるものではありませんでした。京都の琵琶湖疏水のようにはいかないのです。出来ないことを、四水は約束していたことになります。
その上に次のような種々の問題が続出します。
①土地買収のトラブル②開通した祖谷街道の荒廃③風俗の悪化
地元住民にとっては発電所の建設は何のメリットもなく、犠牲を強いられることばかりでした。
これに対して四水は、三繩村に2200円を寄付を申し入れています。これも事前の口約束よりも、はるかに低額だったようで、村側は受理を保留し受け取りません。
このような中で1913年9月に、三縄村長に就任した坂本政五郎は、強気の態度で会社と交渉します。これに対して四水は、のらりくらりと要領を得ない対応をとります。村民の怒りは更に高まり、1915(大正4)4年3月18日に村民大会が三縄小学校運動場で開かれます。村民は「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決議します。 その理由として挙げられているのが、次の10項目です。
一、個人有土地ヲ強制的に安価ニ買収シタル事。一、堰堤ノ不完全。一、個人(所)有土地ニ損害ヲ与ヘ居ル事。一、地方民ニ各種ノ横暴手段ヲナシ居ル事。一、上流地ノ水害・山崩壊・保安林・殖産。一、魚道ノ件。一、地方民俗ヲ悪化シタルコト一、負担ノ重課ヲ忍と開盤シタル道路ヲ破壊シタル事。一、軌道ノ設備不完全ナル事。一、道路変更ノ不備。(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
これを受けて村民大会で、次の三項を決議します。
一、四国水力電氣株式会社へ対シノ契約基キ三繩全部電灯ノ供給ヲ要求シ 若しセサル其筋ニ訴訟提起スルコト。二、同会社ノ事業ニシテ将来物質ノ供給の素ヨリ建築物の貸与人民供給等一切拒絶スル。三、本村内者ニシテ従来同会社ノ雇人タルモノハ此際解雇ヲ求亦土地建物等ヲ使用セシメアルモノハ解約セシムル(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
意訳変換しておくと
一、四水に対して契約書に基づいて、三繩村全部への電灯点灯のための設備を要求する。もし、それが実現しない場合は裁判所に訴訟すること二、四水の事業にたいしては、今後は物資・労働力を始め、建築物の貸与などを一切拒絶する三、三繩村村民で四水に勤めている者に関しては解雇し、借用している土地建物は解約返還すること
これを受けて村長は、村民492名の連判をとり、会社あてに上記内容の「催告状」を内容証明書付で送付しています。これに対して四水は、8月になって次のような返答書が送られてきます。
①全村への電力供給については、県の工事施行認可がないので期日は明言できない。②電気料割引率は需要の多少によるので、調査の上決定する
村民には誠意ある回答とは受け取れなかったようで、両者の関係はさらに悪化します。これに対して、12月になると徳島県と郡が仲介に入ります。その結果、同意した和解書の内容は次の通りです。
四国水力気株式会社は、6800円を十か年に分割で、毎年680円を三繩村に寄付する。
寄付額が2200円から三倍近くに上がっています。四水からの寄付金で、三繩村は妥協したようです。しかし、三縄村地域への電燈の点火などは未解決のままでした。根本的な解決ではなく、この和解に不満を抱く人達も多かったようです。


大正時代の送電線と鉄塔
そのような中で第二期工事計画(出合発電所)が出てくると不穏な空気が出てきます。
1923(大正12年8月2日付の『徳島毎日新聞』は次のように報道しています。
四水に対する三縄の不平四國水電に対する祖谷川筋第二工事損害賠償除外工事につき三好郡三縄村及西祖谷村関係地主に村会より県に対して屡々陳情せし事は既報の通りである。既に一ヶ年を経過するも何ら解決を見ざるは両村会議の不熱心の結果となし村民中は大いに不平をとなえ村当局へ解決を迫るものあり。中略
これに続いて、次のように記します。
①いまだに四水が地元に電灯点灯事業を行わないことに村民の怒りは高まっていること
①いまだに四水が地元に電灯点灯事業を行わないことに村民の怒りは高まっていること
②これに対して四水が誠意ある態度を見せない
③村民は大きな不満を抱き、今回の第二期工事に対して、会社の対応次第では大反対運動を起こすと息巻く者も多い。
③村民は大きな不満を抱き、今回の第二期工事に対して、会社の対応次第では大反対運動を起こすと息巻く者も多い。
電源開発にともなう地元の犠牲と、それに見合うメリットを補償しない四水の動きが報じられています。これは戦後の国による「地域総合開発」事業のダム建設へと引き継がれていく問題となります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」
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参考文献 池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」
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