今日は増田穣三についてお話しします。
「政治家 + 電力・鉄道の起業家 + 華道家元」でもあった増田穣三をいろいろな面から見ていこうと思います。同時にその背後の明治という時代がどんなものであったのか。かみ砕いて云うと「村にやって明治=近代」というものがどんなものだったのかが見えるような視点で進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
さて、増田穣三についてご存じの方は? 私も10年ほど前までは何も知りませんでした。忘れ去
られようとしている存在かもしれません。私が増田穣三と出会は、この銅像です。この銅像が今は、どこにあるかご存じですか?
増田穣三像 JR塩入駅前の像は2代目
やってきたのは塩入駅です。駅を見守るように立っています。正面から見てみましょう。着流し姿で右手に扇子を持っています。政治家という威圧感やいばった感じがしません。どこか茶道や華道の師匠というのが私の第一印象でした。台座の正面は「増田穣三翁之碑」とあります。代議士という言葉はどこにもありません。台座下の銅板プレートを見ておきます。
増田穣三像の台座プレート「銅像再建 昭和三十八年」とある
台座プレートには「銅像再建昭和38年3月」とあります。昭和38(1963)年に再建された2代目の銅像であることが分かります。先代に銅像からの流れを確認しておくと、次のようになります。
昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前 生前建立)昭和14年 増田穣三 高松で死去(82歳)昭和18年 銅像供出昭和38年 銅像再建。
再建時には、町村合併で七箇村役場はなくなっていました。そこで、塩入駅前に再建されたようです。 その時に鋳型は原鋳造に残されていたものが使われます。この銅像は2代目で、最初のものは戦前に役場前に建てられたことを押さえておきます。
増田穣三像の台座碑文(冒頭部意訳)
台座を見てみます。周囲3面には、増田穣三の経歴・業績がびっしりと刻まれています。最初の部分を上に意訳しておきます。ここからは次のような事が分かります。
①春日の増田伝次郎の長男。②明治維新を10歳で迎えた。
人間は「時代の子」なので、どんな時代に自己形成をしてきたかが大きな意味を持ちます。例えば1945年の敗戦を何歳に迎えたかによって「学徒動員世代」「戦後焼け跡世代」「戦争を知らない子どもたち世代」と価値観や考え方に大きな違いがありました。同じように明治維新を何歳で迎えたかがポイントになります。ちなみに大久保諶之丞は20歳前後、増田穣三や景山甚右衛門は10歳前後です。そのため小学校がまだありません。増田穣三が近代的な学校教育ではなく儒学などの江戸時代の教養の中で育ったことを押さえておきます。
増田穣三が教えを受けた人達を見ておきましょう。
A 日柳三州は燕石の息子 のちに大阪府の教育行政の役人として活躍。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
まず春日の生家を訪れてみます。
塩入駅から県道四号塩入線を塩入温泉方面にのぼっていくと春日神社があります。春日神社は、尾野瀬神社や、福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社を摂社としていた時期あります。ここからは春日がこのあたりで最も早く開かれた地帯で、七箇村の中心地だったことがうかがえます。さらにのぼっていくと・・・
造田に抜ける農免道路を越えてさらに南下すると田んぼの中に大きな屋敷が2つ見えて来ます。左側が、戦前に長きに渡って七箇村村長や県会議員を努めた増田一良の家で、こちらが本家です。そして右側が、その分家の増田穣三の屋敷で、こちらが分家です。ふたりは従兄弟同士で、年は一回り違いますが兄弟のように仲が良くて、一良はいろいろな面で穣三を助けています。
増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。
増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。
仲南町史には次のように記します。
1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
現在、増田穣三の家として残っているのは、穣三が本家と同規模で新築したものです。もともとは、塩入街道沿いにあって、穣三が若い頃には呉服商や酒造業も営んでいて、「春日正宗」という日本酒を販売もしていたこと、呉服の仕入れに京都に出向いていたことなどが仲南町史には記されています。
増田一族の系譜を見ておきます。
先ほど見た尾野瀬神社に拝殿を寄進したのが穣三から見て曾祖父の伝左衛門。伝左エ門の子が伝蔵(祖父)になります。伝蔵は4人の男の子がいました。長男の伝四郎が本家(東増田家)、次男が伝次郎(西増田家)、三男が鳶次郎(下増田家)です。しかし、長男には子どもがなかったので、後に末弟の4男伝吾を養子とします。結果的には、四男傳吾が本家を継ぐことになります。
次に伝蔵の孫たちを見ておきましょう。伝次郎の子が穣三・蔦次郎の子が米三郎、傳吾の子が一郎です。彼らは従兄弟同士で穣三が一番上になります。そして、増田穣三を筆頭に、米三郎・一良が村長・県会議員として活躍するようになります。これを見ると戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めていたいたことが分かります。どうしてこんなことができたのでしょうか。
それは後で見ることにして、増田一族の財政基盤を見ておきましょう。
仲多度郡史に載っている大正初めの仲多度郡の大正時代の長者番付です。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
増田穣三はどんな青年時代を送ったのでしょうか。先ほど見た銅像の台座には「華道の家元を若くして継承した」とありました。
それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
法然さんが讃岐に流されたときにここまでやって来たと伝わるので、法然堂と地元では呼ばれています。
園田如松斉(丹波法橋)の石碑 (まんのう町宮田の法然堂)
その境内にある石碑です。「園田翁之碑」とあります。これが園田如松斉のことです。内容を意訳して見ておきましょう。ここには次のように記されています。①丹波からやってきた廻国の僧侶(放浪僧)で法然寺に住み着いて再興に尽くしたこと②晩年は生間の庵で未生流生け花を教えたこと③その結果、600人近くの門弟を抱えるようになったこと。④その高弟が増田穣三で、若くして華道の家元の座を譲られたこと。
明治16年に亡くなっていますから、穣三が26歳の時になります。それから7年後の七回忌の明治23年4月に、この碑は建てられています。裏面を見ておきましょう。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。その先頭にくるのが増田秋峰(穣三)です。これは穣三が、園田如松斉の後継者であることを裏付けています。穣三の次に田岡泰とあります。この人は穣三の幼なじみで、この年に初代七箇村町長となる人物です。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順です。以下、細川・泉・近石・山内など、十郷や七箇の有力者の名前が並びます。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。
これは未生流家元の秋峰(増田穣三)が出した免許状です。
「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
作品を見ると大きな松が一本真ん中に生けられいます。このように大きな作品が特徴だったようです。こんな花材が手に入るのは山村だからの強みでしょう。金毘羅の旅館の依頼で伝次は旅館の玄関をこのような作品で荘厳して好評だったようです。当時は生け花や作法は、裕福な家の男たちの社交場でした。女性が多くなるのは女学校で、茶道や華道が必須科目になって以後のことです。


未生流華道の流れ
いずれに20代の穣三は未生流一門を束ね、指導していく立場にありました。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながります。そして後の政治家としての素養ともなったと私は考えています。園田如松斉の七回忌に追悼碑が建てられた年は、初めて七箇村会が開かれた年でもあります。
増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出されています。政治家としてスタートの歳になります。次に、その模様を史料で見ていくことにします。
増田穣三が法然堂に師匠の石碑を建てた明治23年は、新しい村が生まれ、初めての村の選挙が行われた年でもありました。この史料は仲南支所に残されたい七箇村の村会議事録です。ここに明治23年の年号があります。前年に大日本帝国憲法が施行され、各村々に村議会が開設されることになった年です。右側が香川県知から七箇村村会議長の増田傳吾(増田家の本家)への認可状です。「田岡泰を村長として認可ス」とあります。議長の増田傳吾は、増田家の本家当主で穣三の叔父にあたります。それでは議員や村長がどのように選ばれたのかを見ておきましょう。
①選挙権が与えられたのは、2円の税金納付者です。農民なら2㌶程度の田甫をもっていないと納められません。つまり普通の農民には参政権がありません。②さらに選挙人を差別化します。たくさん税金を納めている選挙人たちを1級、残りを2級に差別化します。その分け方は、納税総額の半分を納めている上位選挙人が議員定数の半分を選出できました。多度津だと上位9人で税金の半分を納めていました。そのため9人で議員の半分を選びます。のこりをその他大勢の2級選挙人が選ぶということになります。そのために大口納税者の増田一族は、親族の近石氏などを含めると過半数の6名を送り込めたのです。そして、村長は議員の互選です。こうして増田一族の中から村長や助役が選ばれます。さらに、村長や助役は名誉職(ボランテア)で、給料が一般職員よりも安かったのでだれでも立候補できるものでもありませんでした。議会録を見ておきましょう。
県への村長選挙の報告書です。田岡泰11点と増田喜代太郎(穣三)1点とあります。ふたりは幼なじみで同級生で、未生流門下の高弟同士です。年齢は二人ともに33歳です。続いて助役選挙の結果です。ここでも増田穣三は4票を得ています。次期の村長候補であったことがうかがえます。明治維新の面白さは、年寄りが自信を失って道を若い人達に譲ったこと。そのために若い人達によって国造りが担われていくことです。地方議会でも、50・40歳台の人達が道を譲って、30代の若者を村長に選んでいます。
今までの所を年表で整理して起きます。
①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。
①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。
七箇村村長としては、丸亀三好線の開通が大きな課題でした。これは現在の県道4号線で、阿波昼間から男山・東山峠・塩入・切通・琴平までの里道開通です。
明治32(1899)年3月15日の日付の増田穣三宛の書簡が残っています。
宛先は七箇村長増田穣三殿で、送り主は善通寺歩兵第二十二旅団長小島政利とあります。内容を見ると
「新練兵場の地ならしすは、目下の急務である。貴村人民の内60名の助力を頂いた結果・・・」スムーズに完成したことに感謝する内容です。練兵場は、現在のこどもと大人の病院と農事試験場に作られましたが、その整地作業に七箇村から60人のボランテイアを出した事への礼状です。日露戦争前に急速に進められた整備に周辺の村々からも奉仕作業が提供されていたことが分かります。
次に県会議員としての働きぶりを見ておきましょう。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を紹介したものです。(読み上げながら下の解釈を同時に行う。)どんな風に表されているのか見ておきましょう。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。
「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」
ここでも議場における寡黙さが強調されています。しかし、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の下で実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一だったようです。それが「寡黙ながら西讃の頭目」と評されたのでしょう。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や景山甚右衛門や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないかと私は考えています。
大久保諶之丞のような名言や大言壮語はない。議場では静かなもので、夜の料亭で根回しを充分に積んで周到に進めておくというやり方がうかがえます。その際にお花の師匠としての客あしらい・接待方法は役だったはずです。粋でいなせな姿が見えてきます。
今回は、生育歴とお花の師匠・政治家の側面を紹介しました。次回に実業家としての増田穣三をみていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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