空海の請雨伝承を伝える史料は『御遺告』と『大師御行状集記』が代表的なものとされます。このふたつは成立年代がちがうので、空海請雨伝承に違いが出てくるのは当然です。しかし、それ以上に両者の内容は隔たりがあり、全くちがう話と言ってもよいほどです。どうしてこんなに内容が異なるのでしょうか。今回はこのふたつを比較しながら見ていくことにします。テキストは「籔元晶 国家的祈雨の成立」です。
『御遺告』は、空海の遺言を記録したものというスタイルなので、成立は空海が没した承和二年(835)ということになっています。しかし、それを信じる研究者はいません。実際は百年後の10世紀半ばと研究者は考えています。御遺告は、空海の祈雨祈願について次のように記します。
従爾以降帝経四朝奉為国家建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺御願祈雨霊験其明。上従殿上下至四元。此池有竜王名善如。元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心。以何知之。御修法之比托人示之。即敬真言奥旨従池中・現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色長八寸許蛇。此金色蛇居在長九尺許蛇之頂一也。見此現形弟子等実恵大徳并真済真雅真照堅慧真暁真然等也。諸弟子等敢難覧着。具注言心奏聞内裏。少時之間勅使和気真綱御幣種種色物供二奉竜王。真言道崇従爾弥起也。若此池竜王移他界浅い池減水薄世乏人。方至此時須不火知公家私加中祈願上而已。
意訳変換しておくと
神泉苑での祈雨が行われる理由は、この池に天竺の無熱達池にいた善如竜王が棲んでいるからである。その姿を空海は、正月の後七日の御修法の時に人々に示した。その姿は八寸ばかりの金色の蛇で、九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っており、その姿を見ることができたのは七人の弟子に限られており、他の弟子は見ることができなかった。そのことを天皇に奏上すると、和気真綱が勅使となって竜王を祀ることとなった。このことによって、真言宗はますますさかんとなったのである。そして、もしこの竜王がよそへ移るようなことがあったならば、公家に相談せずともすぐに真言宗の僧侶が祈願をしなければならない。
読んで気がつくのは、空海による祈雨が話の中心に据えられていないことです。中心は、善如竜王が神泉苑に棲んでいるという所にあります。作者の一番伝えたかったのは神泉苑で祈雨を行うことの意味だったようです。なぜ神泉苑という場所で祈雨を行うのか、神泉苑が祈雨の場所としてなぜふさわしいのか、その理由を善如竜王が棲むということ説明しています。ここでは、話の中心は善如竜王で、空海ではないこと、そういう意味では御遺告の雨乞祈願は「善如竜王出現譚」とも云えることを押さえておきます。
神仙苑に現れた善女龍王
この内容は神泉苑での祈雨を行うことについての理由付けです。この話が生まれてくる前提を考えると、実際の神泉苑で祈雨が行われるようになってから出来上がったことが推測できます。つまり、真言宗が神泉苑での祈雨を行うようになってから作られた話であることを押さえておきます。それでは、その説話の成立はいつ頃のことなのでしょうか 。真言宗による神泉苑での祈雨が定着するのは延喜8年(908)以降のことのようです。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
『祈雨日記』長暦2年(1038)の記事に、次のように記します。
被綸旨云。炎気日増。雨雲永隠。田水忘溝。農業納鍬。皇情御歎。相同湯代。爰聞無熱池水通神泉。阿御竜類移法水。加之祈請者弘法祖師之慈悲願力応化者。善如竜王利生誓力。仰而仰之。憑而憑之。但任先例。〔率〕廿口伴僧。於大師霊験古跡。可被勤修請雨経法也者。綸旨如此。悉之。長暦二年六月十四日左中弁源四匹経 奉勤奉 仁海法印房
意訳変換しておくと
炎気は日増しに高まり、雨雲は見えない。田に水はなく、農民は鍬をおさめたままで旱魃に苦しんでいた。天皇はこれを嘆き、救済したいと願った。ある時に①無熱池水が神泉苑に通じていること。龍が雨を降らせること、②祈請者の弘法大師の慈悲願力によって③善如竜王に祈雨を祈祷して雨を降らせた先例があることを聞き及んだ。そこで20人の高僧を引き連れて、④大師霊験古跡の神仙苑で請雨経法を襲封させた。綸旨如此。悉之。長暦二(1038)年六月十四日左中弁源四匹経 奉勤奉 仁海法印房
ここには次のような事が記されています。
①無熱池水が神泉苑に通じていること。
②空海の験力のこと、
③善如竜王のこと
④大師霊験古跡の神仙苑
④大師霊験古跡の神仙苑
これを書いた人が『御遺告』をベースにしていることが分かります。つまり『御遺告』記載の空海請雨伝承の成立年代は、延喜八(908)年から長暦二(1038)年までの間と研究者は推測します。
次に、『大師御行状集記』(以下『行状集記』)の空海請雨伝承を見ていくことにします。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。
この『行状集記』は、寛治三年(1089)の成立であることがはっきりとしていて、伝承の変遷を考える上で基準となります。そのなかの「被勧請神泉苑於竜王条第六十九」には、「有書曰」という形で先の『御遺告』と全く同じ記事が載せられています。それに続いて「又或曰」という形で、もう一つ次のような空海請雨伝承が載せられています。
又或曰。淳和帝御即位天長元年甲辰。依旱災 奉勅於神泉苑。可修請雨之法者。爰守敏大徳奏状僊。守敏已上陽也。同修之。須先勤仕。而令雨西京者。依請早修者。即以勤仕。七箇日結願之朝。西京如暗夜 雷響尤盛也。其雨成洪水 衆人感嘆也。但遣使令検地之処。雨界内不及山外云々。亦大師勤修 雖経七日無雨。大師入定思惟。守円大徳駈取諸竜 既入水瓶已云々。即出定 延修二ケ日夜。大師告曰。池中有竜王 号曰善如 元是無熱達池竜王之類所勧請也云々。乃至結願之日。重雲覆天雷鳴於四方急降膏雨・池水涌満。至于大壇之上 自是以後。三箇日之間普雨三天下 自然傍佗。水愁已以絶。賀其功一任小僧都慶賀之間不好有威勢出入之処自然施面目・云々。
意訳変換しておくと
天長元年(824)に旱魃があり、神泉苑で請雨経法を修するように勅が下った。そこで、守敏は自分が上陽であることを主張し、先に西の京に雨を降らすことになった。そして、西の京が洪水になる程雨が降った。しかし、検分したところ、狭い範囲でしかなかった。
次に空海が祈雨を行ったが、七日たっても雨が降らなかった。そこで入定して考えたところ、守敏が諸竜を水瓶に閉じ込めていることが分かった。そこでインドの無熱達池の善如竜王を神泉苑に勧請して雨を祈った。そうしたところ、三日間雨が広く降ることとなり、その功績によって空海は少僧都に任じられた、という。
このように『行状集記』では、神泉苑での空海の祈雨は守敏との験比べという形で書かれています。この話は「空海の守敏との祈雨の験比べ譚」とも云える内容です。先ほど見た御遺告の内容と大きく違います。これと同じモチーフが天永二(1111)年成立と言われる『本朝神仙伝』や元永元年(1118)成立の『高野大師御広伝』にも載せられていて、伝承として定着していったことがうかがえます。


ところが、同時期の成立とされる『今昔物語集』には、この「守敏との験比べ」のエピソードは出てきません。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。
巻第十四の「弘法大師、請雨経の法を修して雨を降らせたる語」と第四十二「空海が神泉苑で請雨経法を修したところ、壇に五尺ばかりの蛇が出現した」の2つの話を見ておきましょう。
今昔、□□天皇の御代に、天下旱魃して、万の物皆焼畢て枯れ尽たるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下の人民に至まで、此れを歎かずと云ふ事無し。其の時に、弘法大師と申す人在ます。僧都にて在しける時に、天皇、大師を召て、仰せ給て云く、「何(いか)にしてか、此の旱魃を止て、雨を降して、世を助くべき」と。大師、申て云く、「我が法の中に、雨を降す法有り」と。天皇、「速に其の法を修すべし」とて、大師の言ばに随て、神泉苑にして請雨経の法を修め給ふ。七日に法を修する間、壇の右の上に五尺許の蛇出来たり。見れば、五寸許の金の色したるを戴けり。暫許(とばかり)有て、蛇、只寄りに寄来て池に入ぬ。而るに、廿人の僧、皆居並たりと云へども、其の中に止事無き伴僧四人こそ、此の蛇を見けれ。僧都はたら更也。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有て、僧都に申して云く、「此の蛇の現ぜるは何なる相ぞ」と。僧都、答へて宣はく、「汝ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池と云ふ池有り。其の池に住む善如竜王、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の験し有らむとて、現ぜる也」と。而る間、俄に陰(くもり)て、戌亥の方より黒き雲出来て、雨降る事、世界に皆な普し。此れに依て、旱魃止ぬ。此より後、天下旱魃の時には、此の大師の流を受て、此の法を伝へたる人を以て、神泉苑にして此の法を行なはるる也。而るに必ず雨降る。其の時に阿闍梨に勧賞を給はる事、定れる例也。于今絶えずとなむ語り伝へたるとや。」
ここには弘法大師の神仙苑での雨乞祈祷は記されますが、「守敏との験比べ」の話はありません。詳しく見ると『行状集記』と今昔物語を比較すると細かな点に多くの違いがあります。これは、時間経緯と共にかなり口承化が進んでいたことをうかがわせるものです。

神仙苑に招来された善女龍王と空海
また、「今昔物語集」には別な話として、「弘法大師、修円僧都に挑みたる語 第四十」があります。その内容は修円が加持をして生栗を煮て天皇に献じますが、空海がそれを妨害したことによりお互いに呪咀するようになります。そこで、空海は死をよそおって修円を油断させて、呪咀して殺すという話です。この二つの話と非常に関係が深い守敏との祈雨の験比べ譚が、『今昔物語集』にはないのです。これについて研究者は次のように記します。
「当時一般に口承化されていた空海の請雨伝承は、『御遺告』に見られる善如竜王出現譚が主流であった。『行状集記』に見られる守敏との祈雨の験比べ譚は、まだそれほど一般に広まっていなかった」
守敏との祈雨の験比べ譚が初めて登場した『行状集記』の時点では、口承伝承としてはこの話はあまり知られてなかったことが推測できます。そうだとすると『行状集記』の成立した寛治三(1089)年を余りさかのぼらない時期に、この説話が誕生したことになります。
実はこれと関係する出来事が、永保二年(1082)7月16日の範俊と義範の神泉苑の祈雨をめぐる事件なのです。『祈雨日記』は「大蔵卿為房記」を引用して次のように記します。
今日神泉苑以阿闇梨範俊匹被行請雨経法。先例先被仰一宗長者。次及此門徒云々。一宗長者信覚僧正一門 上陽義範律師也。義範隠居山門之故欺。人以相傾云々。範俊奏云。義範吾弟子也。越吾不可修此法云々。但宣下修之。爰義範難思登上醍醐山真言参龍居発願云。仰願大師三宝。吾若彼弟子者。雨必降給。若又彼奏虚妄者。不可雨降。心誓願祈念三宝。遂雨不降。範俊此間於真言院勤修愛染王云々。
ここには神泉苑で範俊が請雨経法を行ったことが最初に記されます。しかし、先例からすると義範が行うべきものであったようです。そこで、義範は範俊に対抗して、醍醐寺にこもって止雨の法を行ったというのです。これを読んで気がつくことは、空海と守敏との祈雨の験比べ譚と次のように類似点が多いことです。
①神泉苑での請雨経法をめぐっての対立であること②実施者の決定に際して上屋などの理由がうんぬんされていること③一方が祈雨を行っている時に、もう一方が止雨を行っていること
ここからは、この事件を元にして「空海と守敏との祈雨の験比べ譚」が生まれたことが推測できます。そうだとすると守敏との祈雨の験比べ譚は永保二(1082)年から寛治三(1089)年の間に成立したことになります。
空海請雨伝承の成立期の内容は、『贈大僧正空海和上伝記(寛平七年(895)成立』にあるように、天長年中に空海が神泉苑で祈雨を行い、その成功によって少僧都に任じられたというシンプルなものでした。それに続いて、十世紀に『御遺告』の善如竜王出現譚が成立します。御遺告は『贈大僧正空海和上伝記』の伝承をもとにしていること、そして直接的には祈雨場面について語っているものではないことは、先ほど見てきた通りです。空海の遺言という形を取りながら、神泉苑が祈雨の場としてすぐれている理由が述べられていて、その重点は神泉苑と真言宗の深い関係にあります。つまり、空海の祈雨そのものを説いた説話とは言えず、空海請雨伝承から少し離れた位置にある説話であったと研究者は考えています。 ここでは『御遺告』の善如竜王出現譚は、厳密には空海請雨伝承とは言えないことを押さえておきます。


唐服姿の善女龍王
しかし、時間とともに空海の祈祷場面の方が重視されるようになります。
空海の伝記の一つで『御遺告』より成立が後とされる『金剛峯寺建立修行縁起』は、次のように記されています。
天長元年甲辰依旱災奉勅於神泉苑修請雨経法 長八寸許金色竜王。現在二九尺許蛇頂是無熱池河女危
①天長元年の祈雨の場面となっていて、そこに善如竜王が出現したこと
②『贈大僧正空海和上伝記』などの初期の空海請雨伝承に、『御遺告』の善如竜王出現譚が挿入・接ぎ木されたもの
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること
③祈雨の修法については何も触れていなかったのが「請雨経法」と限定されていること
上表を見ると神泉苑での祈雨については、初期の段階では請雨経法と孔雀経法の両法が行われています。また請雨経法がまさっているとは書かれていません。いろいろな流儀で雨乞が行われていたのです。それが延長七年(929)からは、請雨経法だけが行われるようになります。この時期に、空海の祈雨法が請雨経法へと限定されたことが分かります。それは醍醐寺の聖宝から観賢の時期にあたります。この二人によって弘法大師伝説は作られていったとされます。
こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
こうしてみると聖宝から観賢の頃に、『御遺告』を参照しながら空海請雨伝承の充実が行われたことがうかがえます。内容的には、天長元年のこととし、請雨経法を修したとして『金剛峯寺建立修行縁起』を継承しています。また研究者が注目するのは、善如竜王について「所勧請也」としている点です。つまり、空海が善如竜王を勧請したことになっています。これまで善如竜王は天竺の無熱達池より神泉苑に来ているとしか記されていませんでした。それが、初めて空海の勧請によって天竺からやってきたことが記されるようになります。善如竜王が神泉苑に棲む理由について説いている中に、「空海伝来」という言葉が書き込まれたことになります。これもまた伝承の発展でしょう。
また「結願之日(中略)自然傍詑水愁已絶」の文は、これは『行状集記』の守敏との祈雨の験比べ譚の中の文とほぼ同文です。ここからは、守敏との祈雨の験比べ譚が、『弘法大師伝』を参考に書かれたことが分かります。
以上のように、『御遺告』から『行状集記』までの期間は、『御遺告』の善如竜王出現譚を取り込む形で空海請雨伝承の発展が見られ、そこに天長元年のこと、請雨経法のこと、善如竜王勧請のことが盛り込まれていったことになります。その中心にいたのが聖宝や観賢ということになります。
観賢について、佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。
「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」

左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
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