先日、まんのう町の中寺廃寺と大川山を御案内することがありました。中寺のことをお話ししながら古代の山林修行者の具体的な活動内容が押さえられていないことに改めて気がつきました。そこで日光修験の活動について読書メモをアップしておきます。テキストは「大和久震平 日光修験と偽書の成立」です。
 古代以来の山岳信仰の霊山には奈良時代からの山林修行者が活動し、彼らがのちに修験道に組織されていきます。修験は山中修行によって獲得した「験」で、民衆を救済するという現世利益を目指しました。中世に教団が成立してからは、山中の修行は集団で実施されるようになります。「峰入り」などといい、春夏秋冬の四季の入峰がありました。過酷な峰中修行を体得したものでなければ修験者の資格はあたえられませんでした。
修験の山中修行は秘密の行で、俗人の目には触れることはありませんでした。まして見聞の記録はありません。山中での法の伝授は口伝で、先達の山中手控えが残されていても、ここから分かるのは修行の順路や行事の経過だけです。口伝の部分は何も記されず、内容は分かりません。退転した日光修験の散逸した記録も集められていますが、ほとんどが近世のもので、中世のものはほとんどないようです。その不十分な史料をつなぎ合わせて、日光修験の行事を見ていくことにします。

日光修験行程表

修験の行事の大部分は集団入山修行で、これは入峰・峰行とよばれていました。
このほかに下宮地域である山内の諸堂に奉仕する行があります。これらの修行は専門職のプロの修験者だけに限られていました。このほかに凡俗が参加し、修験が引率して実施する行事があり、これを禅頂と読んでいたようです。
①入峰は、冬・春・夏・秋の四季の峰に分れ,日程や規模を違えて入山します。四季のうち夏峰は中世末に廃絶し、復興することはありませんでした。冬峰は金剛界、春峰は胎蔵界の修行で、このふたつは継続して行われて総称して両峰とよばれます。春峰には、最後に花を供える行事があるため華供虫峰と呼ばれ、四季の峰を三峰五禅頂と総称します。江戸幕府支配下の入峰は日光山内をスタートして、山内に戻る回峰の形をとります。これが中世では日光からいったん出流(現栃木市)に向い、ここから入山することになっていました。その背景にはついては、別の機会に見ていくことにして、先を急ぎます。

冬峰は師走も押し迫ってから入峰し、極寒を山中で過して春に出峰します。

日光修験 第2図冬峰・華供峰順路図今印冬峰口印華供峰
日光修験 冬峰ルート

冬峰は積雪期なので、山野を行道することよりも山中の宿での篭り修行が中心だったようです。順路は危険で登るのが難しい日光山地の高嶺を避けて、中禅寺湖南東部の足尾山地の低い山々で行われました。上図の「1-3-5-8-1」の道筋が冬峰の順路で、横根山から入り,薬師岳・三宿山・鳴虫山と通過して山内に戻るルートです。日程は次の通りです。
2月上旬に山内で入峰山伏に対する饗応
13~25日まで山内で前行
26日出立して古峰原に1泊
27日に山中に入り,深山宿・化荘宿・星ノ宿で長期の参龍を行い
3月2日に出峰し
翌3日に金剛送りを済ませて行事終了
これを見ると山中を動き回らず一か所に寵る修行が中心です。これを「晦日(みそか)山伏」といい、山中修行の古い形態とされています。冬峰は山中移動を含んでいるので、古い形態の修行とその後に発達した新しい修行形態がミックスされたタイプといえます。

春峰(華供峰)は、日光修験独特のものでなく他山からの移入された行事と研究者は考えています
冬峰に引き続いて行われる修行で、冬峰の金剛送りの3月3日に大宿に集合して開始されます。順路は先ほどの図の1-3-5-10-1の道筋で,1-5までは冬峰と同じ道をたどり,薬師岳の手前で分れて中禅寺湖畔の歌ケ浜宿に出,現在のイロハ坂を下って山内に戻る。日程は次の通りです。
3月3~12日が前行
13日に出立
14日に横根山に入り,深山宿・旧谷宿・歌ケ浜宿で長期の寵り修行
4月22日に中禅寺に花を供え,下山して出峰となる。
華供峰も冬峰と同じように寵り修行中心です。この修行で法が伝授されます。

中禅寺湖・男体山(半月山展望台)
中禅寺湖・男体山(半月山展望台)

夏峰 日光山地のほとんどの山を駆ける難行です。
 苛酷な大行で、犠牲者が出ることが度々あったようで中世末には廃絶します。宿の設営に多額の費用が必要だったこともなくなった要因かもしれません。あるいは幕府の思惑があったのかもしれません。この入峰については、中世の直接の史料がないようです。

日光修験 夏行ルート
                    日光修験 夏峰ルート
 夏峰は「順逆不二峰」とも云われ、順峰・逆峰が一体の峰行という意味です。道筋は上図のように山内からスタートして華供峰の道を逆に入り,中禅寺湖畔の歌ケ浜宿から夏峰独自の道に駆け入ります。
これは南岸を迂回して錫ケ岳から日光火山群の西端に取りつくもので、途中で黒桧岳・宿堂坊山を往
復します。錫ケ岳の山頂からは山稜を渡って前白根山に進み、白根山を往復して金精山・温泉ケ岳・山王帽子山を通過し,男体山周囲の山にとりつきます。その後は、太郎山・小真名子山・大真名子山・男体山を駆け、女峰山を通って山を下り山内に戻るコースです。この縦走だけでも難行です。その上に、途中の行場や拝所で勤行があり,柴宿という野宿の数も多かったようです。宿では定められた修行があり、峰行の眼目である潅頂が執り行われます。これは大峰の奥駆けに相当する重要な峰行でした。その日程は5月12~29日まで前行,30日に入峰,山中の修行を経て7月14日に出峰となっています。40余日を山中で過す大行です。その上に
A 途中冬・春峰と同様の寵り修行
B 古野宿では7日間の断食行
C 出峰直前の一の宿では9日間の修行
こうして見ると夏峰も山行と篭り修行を併用した修行で,単なる山中走行の鍛練行ではなかったことが分かります。ただ歩くだけではないのです。

秋 峰
日光山入峰修行 秋峰
秋峰 秋季の山中修行で、五禅頂と呼ばれました。
入峰者の集団が1日置きに1番から5番まで5組入山したことから、このような名称になったようです。中世では5組でしたが、近世は3組に減っています。

日光修験 秋行ルート 五禅頂
道筋は上図のように夏峰の順路を逆に入って、まず女峰山に出ます。その後、西の稜線を下って小真山頂に登り,太郎山との間の鞍部から裏男体の道をつめて男体山頂に立ち,ここから下ってイロハ坂を通過し山内に戻るルートです。中世では女峰山から太郎山に登頂したようですが、近世になると太郎山の山頂は略されるようになります。日程は8月14~18日まで1番が前行を行い19日に入峰,22日に出峰
以下1日ごとに1組ずつ入山します。
山伏の修行ですから峰中作法や勤行があり、定められた拝所に参詣していきます。秋峰の特徴は、山中3泊と入山の期間が短かく,途中に参寵り修行がないことです。この程度の峰行なら山馴れた登山者なら今でもできそうです。これは修行というより儀式臭が強い行事だと研究者は指摘します。

大千度(遥堂) 修験が行う諸堂・神仏勤仕の遥堂修行で,比叡山の回峰に似ています。
日光山は今は天台宗ですから比叡山の修行形態が移入されます。勝道・空海.円仁によって加持されたという神社仏閣や自然物を拝礼して廻る修行で、勝道の弟子教畏によって弘仁年間に始められたということになっています。古くは3年間にわたって昼夜3回巡っていたようですが、近世では年間を3区分にし,各1000回と定められます。この行の満願によって大先達職が授与されます。大先達の号は本来夏峰を完遂した先達に与えられるものです。ここに日光修験への幕府の宗教支配が強くにじみでています。これに関して、日光修験には強飯式が輪王寺に伝えられています。これは「日光社参の諸大名・富豪に大量の食事を強要するもので、東照宮鎮座の日光山の権威を支配者層に見せつける儀式で、政策臭が著しく強い。」と研究者は指摘します。

俗人参加の行
山伏が先達となって、行人とよばれた凡俗(一般人)を引率する集団行事です。これは入峰とは呼ばれずに、禅頂と呼ばれました。禅定には山頂登拝の男体禅頂・黒桧禅頂・白根禅頂と、中禅寺湖岸に点在する拝所を舟で回遊遥拝する船禅頂があります。船禅頂は浜禅頂・補陀洛禅頂ともよばれました。
 これらの中で、最も重視されたのは男体禅頂でした。
日光山地における山岳信仰の原点で、勝道開山以後今日の登拝祭まで連続されてきた基本行事です。湖畔の中宮伺から上は結界された聖地で、山頂へは定められた時期に,定められた潔斎を経てのみ登ることが許されました。古くは専門職(プロ)のみの行でしたが、次第に凡俗にも解放され、さらに後になると講が組織されるようになります。男体山の登頂のみを目的とする禅頂行の確実な資料は、男体山頂遺跡出土の禅頂札によって13世紀までさかのぼることができるようです。
 
 黒桧禅頂は湖南の一山である黒桧岳の登頂を目的としたものすが、組織や順路・日程などはよく分かりません。この山は夏峰の順路になっていましたが,なぜ禅頂行の対象になったのか理由もわかっていないようです。白根禅頂も同じ様に分からないことが多いようです。

以上、中世に行われていた日光修験の活動を見てきました。
①プロの修験者たちの荒行の厳しさ
②修験中の活動エリアが中禅寺湖を中心に広いこと。
③俗人用のプチ修行版として秋峰(五禅頂)があったこと
④それが男体山への一般人の信仰登山へとつながり、講組織が形成されていくこと
②の修験の活動範囲の広さには改めて驚かされます。これを大川山の中寺で当てはめると、阿讃山脈の稜線沿いに、東は大滝山、西は雲辺寺まで、南は阿波の高越山あたりまでは山林修行者たちの活動範囲に含まれていたことになります。修験者の活動を捉える場合には、ひとつの山と言う視点でなく、周辺の霊山や行場もネットワークの中に含めて見る必要があることを改めて感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和久震平 日光修験と偽書の成立