勝賀城が国の史跡に登録されました。そのための準備作業として調査報告書が刊行されています。第三巻は総括報告書(考察篇)で、以下のような内容です。
ここには香西氏をとりまく情勢だけでなく、讃岐全体を視野に入れた記述がされています。例えば、天霧合戦や元吉合戦などについても、従来の南海通記などの軍記ものに頼らない歴史叙述です。これは20世紀後半から歴史家たちが目指してきた方向です。それが、ある意味で実現しています。讃岐中世史叙述の新たな展開ともいえる出版物だと私は思っています。この調査報告書を読書メモとしてアップしていきます。今回は、香西氏の瀬戸内海へ乗り出していく過程を見ていくことにします。テキストは「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」です。
ヤマト政権以来の中央政権は、瀬戸内海交通路を押さえることが重要な政治戦略の一つになります。
そのためいろいろな対応をとってきました。例えば、ヤマト政権は吉備や讃岐の有力勢力と結びつくことで、瀬戸内海の権益を確保し、それが古代の国家形成につながっていきます。また、平清盛以後も瀬戸内海交易路の確保のために、次のように伊予に拠点を確保しようとしています。
瀬戸内海の有力者を巧みに利用して、瀬戸内海を確保するという政治的戦略を実現していきます。中央政府が備讃瀬戸確保のために利用されたのが香西氏だという見方も出来ます。そういう視点から香西氏の備讃瀬戸進出を見ていくことにします。
勝賀山の北麓に瀬戸内海に面して海浜集落がいくつかありました。これが香西浦です。その中に本津川の下流域の河口を利用する湊が形成されます。兵庫北関入船納帳の讃岐の湊中に「香西」や「幸西」と表記された船が出てきます。この香西浦を支配したのが佐料城を居城としていた香西氏です。香川氏や安富氏のように香西氏も香西浦を拠点として、瀬戸内海に進出することで経済的基盤を固めていきます。
香西氏が海に出ていくきっかけを要約しておくと次のようになります。
香西氏が海に出ていくきっかけを要約しておくと次のようになります。
①平安時代末期になって国家の支配体制が弛緩し、瀬戸内海で海賊が横行②海賊追補の下知が出されるも成果は挙がらず③そこで中央政府は、有力豪族を追補使に任命して、鎮圧をはかりる④これを契機に平氏は西国へ勢力を伸ばし、瀬戸内海の在地武士と結びつき、政権基盤強化⑤日宋貿易と瀬戸内海交易で、平清盛は巨大な富を築き、平家全盛へ⑥平氏を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開くが、西国に基盤を持たないため、瀬戸内海地域では海賊がまたも横行⑦鎌倉幕府は西国沿岸の地頭に海賊を召し捕るように命じた。⑧寛元 4(1246)年 3 月、讃岐国御家人の藤左衛門尉は海賊を搦め捕り六波羅探題へ送った(『吾妻鏡』寛元 4 年 3 月 18 日条)。
⑧の吾妻鏡の記述を『南海通記』(1719年)は、次のようにフォローします。
藤ノ左衛門家資は香西浦宮下に勢揃いし、手島比々より押し出し捕虜百余人を六波羅探題へ送った。その功績により讃岐諸島の警護役に任じられ、直島と塩飽に息子を置いて統治した。これが、直島の高原氏、塩飽の宮本氏の祖と伝える(『南海通記』巻廿一)。
ここでは吾妻鏡に、海賊退治に活躍した藤左衛門尉が、香西家資とされています。そして、香西浦の宮下から船を出して海賊盗伐に出陣したこと、その功績によって「讃岐諸島の警護役」に任命されたとあります。『南海通記』は享保 4(1719)年に香西成資が古老からの聞き書きを基に著した書です。祖先の香西氏の功績を過大評価するなど、史料的に問題があることはこれまでにもお話しした通りです。

吾妻鏡に出てくる「藤左衛門尉」は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の一門のようです。それが香西家資だと云うのです。「古代の讃岐綾氏 → 讃岐藤原氏 → 羽床氏 → 香西氏」という流れを南海通記は強調します。ここでは香西氏が香西浦を拠点にして、備讃瀬戸にでていくのが鎌倉時代の海賊盗伐が契機になったという説を押さえておきます。
それから約200年後のことです。

吾妻鏡に出てくる「藤左衛門尉」は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の一門のようです。それが香西家資だと云うのです。「古代の讃岐綾氏 → 讃岐藤原氏 → 羽床氏 → 香西氏」という流れを南海通記は強調します。ここでは香西氏が香西浦を拠点にして、備讃瀬戸にでていくのが鎌倉時代の海賊盗伐が契機になったという説を押さえておきます。
それから約200年後のことです。
応永 27(1420) 年に、李氏朝鮮の官人宗希璟が回礼使として日本を訪れます。
その紀行文『老松堂日本行録』に、瀬戸内海の海賊が出てきます。海賊衆は海賊行為を行わない代わりに海上警固と称して、酒肴料・中立料などの名目で警固料をとっていました。宗希璟が京都からの帰途、備前沖を過ぎる時に護送の一員であった謄資職が乗船してきて酒を飲んでいます。これは酒肴料を支払ったことを示すものです。「謄資職=香西資載」のことで、当時の香西浦付近を航行する船の警固衆だったというのです。そうだとすると、香西氏は塩飽・小豆島を含む備讃瀬戸一帯の通航権を握っていたこと、その基地が香西浦にあったことになります。以上を整理しておきます。
①鎌倉期から香西氏は目の前の備讃瀬戸一帯へと勢力を伸ばした②その拠点となるのが香西浦だった③香西浦は軍港と商港を兼ね合せた湊で、船が多数係留されていた④船と水運に関わる人々によって形成された集落が早い段階から香西浦に出現していた。
ここからは香西氏が、備讃瀬戸一帯に勢力を伸ばし、交易や海上輸送を行う一方で、警固役と称して警固料を徴収するなどして莫大な利益をあげていたことがうかがえます。その拠点となる香西浦にも、多数の軍船や輸送船が停泊していたということになります。
南海通記の「香西氏が塩飽を支配下に置いていた」という説に対する疑問
しかし、史料的には香西氏が塩飽や小豆島を支配下に置いていたと云うことを裏付けることはできません。史料が語るのは次のようなことです。
①管領細川氏は、従来は宇多津と塩飽の管理権を、西讃守護代の香川氏に与えていた。
①管領細川氏は、従来は宇多津と塩飽の管理権を、西讃守護代の香川氏に与えていた。
②文安2年(1445)に、宇多津・塩飽の港湾管理権を、香川氏から安富氏に移管させた。
③文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家へ、兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるようにとの通達が送られている。
④ここからは塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、安富氏の管理下に置かれていたことが分かる。
香西氏が浦代官を派遣し管理権を握っていたのは仁尾なのです。塩飽は安富氏の管理下にあったことは以前にお話ししました。
以上からは南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということをそのままは信じることはできません。時期を限定しても15世紀後半以後は、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。そして、南海通記は香西氏が仁尾の管理権を持っていたことについては何も触れていません。
その後の塩飽をめぐる管理権を見ておきましょう。
香西氏によって管領細川政元が暗殺されます。これによって細川氏内部での抗争が展開し、「永世の錯乱」という大混乱に陥ります。その中で台頭してくるのが周防の大内氏です。永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。大内義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権を握ろうとします。そのために、海賊(海の武士団)村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。
その後の塩飽をめぐる管理権を見ておきましょう。
香西氏によって管領細川政元が暗殺されます。これによって細川氏内部での抗争が展開し、「永世の錯乱」という大混乱に陥ります。その中で台頭してくるのが周防の大内氏です。永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。大内義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権を握ろうとします。そのために、海賊(海の武士団)村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言(細川)高国(花押)卯月十三日村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から能島村上氏へと移ったのです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
ここでは16世紀初頭には、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させ、塩飽は村上水軍の管理下に置かれたことを抑えておきます。ここでも香西氏による塩飽支配は認められません。
村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえます。香西氏は、このような中で大伴氏と結び、村上水軍に従う形で瀬戸内海や東アジア交易で富を獲得していたとしておきます。
村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえます。香西氏は、このような中で大伴氏と結び、村上水軍に従う形で瀬戸内海や東アジア交易で富を獲得していたとしておきます。
室町期になると、産業経済の発展に伴い、各地の特産物などの多くの物資が瀬戸内海を利用して輸送されるようになります。香西湊へも周辺地域から物資が集積され、畿内へ輸送されるとともに、各地へと出向きその地の特産物などを輸送する輸送船が活動するようになります。
『兵庫北関入舩納帳』は、東大寺が摂津国に設置した兵庫北関の通行税徴収台帳です。ここには文安 2(1445) 年 の約 1 年余りの入関船の記録が記されています。この史料の研究が進むにつれて、瀬戸内海の人とモノと富の動きが見えてくるようになりました。例えば讃岐については、西讃守護代を務めた香川氏が多度津を拠点にして、交易活動を行い、大きな富を得ていたこと。それが戦国大名への脱皮の原動力となっていたこと。また東讃守護代の安富氏も宇多津や小豆島などの備讃瀬戸東部の交易を通じて富を得ていたことは以前にお話ししました。つまり、讃岐の有力武士団は、瀬戸内海への進出拠点(湊・浦)を持ち、瀬戸内海や東アジアとの交易活動を通じて富を得ていたことになります。それが武士団成長の原動力でもあったのです。それでは、香西浦はどうだったのでしょうか?
兵庫北関入船納帳の讃岐の湊分布図
中世の瀬戸内海交易の持つ重要性が史料として見えるようになったのが『兵庫北関入舩納帳』の発見でした。


『兵庫北関入舩納帳』は、東大寺が摂津国に設置した兵庫北関の通行税徴収台帳です。ここには文安 2(1445) 年 の約 1 年余りの入関船の記録が記されています。この史料の研究が進むにつれて、瀬戸内海の人とモノと富の動きが見えてくるようになりました。例えば讃岐については、西讃守護代を務めた香川氏が多度津を拠点にして、交易活動を行い、大きな富を得ていたこと。それが戦国大名への脱皮の原動力となっていたこと。また東讃守護代の安富氏も宇多津や小豆島などの備讃瀬戸東部の交易を通じて富を得ていたことは以前にお話ししました。つまり、讃岐の有力武士団は、瀬戸内海への進出拠点(湊・浦)を持ち、瀬戸内海や東アジアとの交易活動を通じて富を得ていたことになります。それが武士団成長の原動力でもあったのです。それでは、香西浦はどうだったのでしょうか?
兵庫北関入船納帳の讃岐の湊分布図
兵庫北関に入港して関税を納めた讃岐船の船籍と、その数が示されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①讃岐からは17の湊の船が入港していたこと。船籍地の数は、播磨国に次いで第 2 位。②入関回数は合計237 回で、摂津・備前・播磨に次ぎ第 4 位③香西(幸西)湊の入港数は1年間で6隻、一番多い宇多津船は47隻
それでは、讃岐の船は何を積んでいたのでしょうか?

横欄が讃岐の各湊一覧、縦が積載品目(全30品目)と積載量です。一番多いのは宇多津です。
讃岐船の積載品は 30 品目ですが、積荷の8割が塩です。讃岐船は、「塩船」だったことになります。
左から7番目が香西です。塩がどのように表記されているのかを見ておきましょう。

横欄が讃岐の各湊一覧、縦が積載品目(全30品目)と積載量です。一番多いのは宇多津です。
讃岐船の積載品は 30 品目ですが、積荷の8割が塩です。讃岐船は、「塩船」だったことになります。
左から7番目が香西です。塩がどのように表記されているのかを見ておきましょう。
讃岐船の積荷で一番多いのは・・塩
讃岐の欄の下から2番目に香西湊があります。4回の入港の際の積荷が「詫間2・方本1・小島1(児島)」と見えます。これはすべて塩で、生産地名で呼ばれています。これを「地名指示商品」と呼ぶようです。他の船の積荷の「地名指示商品」を見ると、詫間・方本が当時の塩の主要生産地だったことが分かります。讃岐各地の船が、詫間や方本に出向いて塩を積んで畿内に輸送しています。面白いのは香西船は備讃瀬戸対岸の小島(備前児島)で生産された塩も運んでいることです。香西氏をつうじての関係があったことがうかがえます。船乗りたちにとって、海は隔てるものではなく、船で結びつけるものだったのです。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載量も記されています。
①300石以上の大型船は、30隻で全体数の1/8。
②大型船は塩飽・嶋(小豆島)・方本などに多く、塩専用船であった。
③100石以下の小型船は、137隻で、過半数を占める。
④香西には、50石未満1隻、100石未満4隻、300石以上1隻の6隻が入港している。
香西船だけを取り出して、入港日と積荷を見てみましょう。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載量も記されています。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の入港船規模一覧
ここからは次のような情報が読み取れます。①300石以上の大型船は、30隻で全体数の1/8。
②大型船は塩飽・嶋(小豆島)・方本などに多く、塩専用船であった。
③100石以下の小型船は、137隻で、過半数を占める。
④香西には、50石未満1隻、100石未満4隻、300石以上1隻の6隻が入港している。
香西船だけを取り出して、入港日と積荷を見てみましょう。
5月15日の便は、タクマ350石とあります。これは詫間産の塩350石を運んだということです。研究者が注目するのが、米に混じって「赤米」とあることです。『入舩納帳』全体で赤米輸送は 10 船で、そのうちの77 船が讃岐船です。これは赤米が讃岐の特産物であったことを示すと研究者は考えています。赤米はは西讃地方に多かったようですが、高松周辺では香西船だけが輸送しています。このことから香西周辺で赤米が栽培されていたことがうかがえます。赤米は貧弱な土地でも栽培できます。また、米の輸送量からみると、香西では稲作が盛んに行われていたとは考えにくく、香西周辺は決して豊かな穀倉地帯ではなかったことがうかがえます。
「兵庫北関入船納帳」記載の船の動き 香西湊がひとつの拠点となって機能している
赤米など本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出されたとしておきます。このように『入舩納帳』からは、15世紀半ばの香西浦が讃岐の湊の一つとして機能していたことが分かります。
次に讃岐の各湊の問丸を見ておきましょう。
下から6番目が香西湊で、問丸は「道観」とあります。「道観」の名前は志度にも見えます。更に一族と考える道祐・道念などの名があります。彼らはあるときには競合しながらも、ネットワークを結んで、情報を共有しながら交易活動を展開していたことが考えられます。瀬戸内海交易ネットワークの一端に香西湊もあったことを押さえておきます。
それでは香西浦の湊は、どこにあったのでしょうか?

香西浦周辺
「兵庫北関入船納帳」記載の船の動き 香西湊がひとつの拠点となって機能している
赤米など本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出されたとしておきます。このように『入舩納帳』からは、15世紀半ばの香西浦が讃岐の湊の一つとして機能していたことが分かります。
次に讃岐の各湊の問丸を見ておきましょう。
下から6番目が香西湊で、問丸は「道観」とあります。「道観」の名前は志度にも見えます。更に一族と考える道祐・道念などの名があります。彼らはあるときには競合しながらも、ネットワークを結んで、情報を共有しながら交易活動を展開していたことが考えられます。瀬戸内海交易ネットワークの一端に香西湊もあったことを押さえておきます。
それでは香西浦の湊は、どこにあったのでしょうか?
幕末の讃岐国名勝図会の香西浦を見てみましょう。
②中央の小高い岡の上に藤尾八幡が鎮座し、中宮寺などが囲んでいます。ここが藤目城跡です。
③手前に愛染川が流れ、髙松街道にかかる橋の北側から広くなります。
④ここには多くの船や、川をさかのぼって行く川船が描かれています。
⑤ここが香西浦で、加茂明神が鎮座しています。

香西浦周辺
②舩入川の岸に沿って家屋が並んでいる。
③湊から町中への通路は迷路化していて、袋小路・かぎ形の様相を呈している。
④江戸時代には、漁業基地として多数の漁民が集住していた。
⑤「香西の町はむきむき」と称されるように、多数の民家が勝手な方向を向いて立ち並んで繁栄していた。
⑥平時は漁業に従事していたが、参勤交代の際には臨時御用として水主役が課せられた。
以上から、「愛染川=舟入川」で河口部に舟入があり、漁民たちなどが密集した集落を形成していたようです。現在の香西港も愛染川の河口部にあって、いまもそこには多くの漁船の船溜まりがあります。以上の史料から、愛染川の河口に湊があって、香西氏はこの湊を水運・水軍の拠点として、備讃瀬戸へ勢力を伸ばしたとしておきます。
③湊から町中への通路は迷路化していて、袋小路・かぎ形の様相を呈している。
④江戸時代には、漁業基地として多数の漁民が集住していた。
⑤「香西の町はむきむき」と称されるように、多数の民家が勝手な方向を向いて立ち並んで繁栄していた。
⑥平時は漁業に従事していたが、参勤交代の際には臨時御用として水主役が課せられた。
以上から、「愛染川=舟入川」で河口部に舟入があり、漁民たちなどが密集した集落を形成していたようです。現在の香西港も愛染川の河口部にあって、いまもそこには多くの漁船の船溜まりがあります。以上の史料から、愛染川の河口に湊があって、香西氏はこの湊を水運・水軍の拠点として、備讃瀬戸へ勢力を伸ばしたとしておきます。
また藤尾城は、天正3(1575) 年に築城されたといわれています。湊は城のすぐ北に位置するので、藤尾城の築城は湊と連携する地を選んだことがうかがえます。
最後に当時の香西浦の地形復元を見ておきましょう。
北山氏は、地形図や現地踏査を行って中世の香西浦を次のように復元しています(北山 2009年)。
①精密地図で見ると、北山氏が砂堆とする場所は微高地にはなっていない②髙松平野の扇状地形成過程からみても本津川が運んだ堆積物によって香西浦は陸地化していて、砂堆があったとは考えにくい③北山氏が入江とした部分からは、中世の遺構が出土している
そして、次のような復元図を示しています。
香西浦の海岸線復元図(黒太実線)
これだと愛染川に河口にあって、すぐ海に出られたことになります。本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出すには最適な場所だったようです。
以上を整理して起きます。
①佐料城を拠点としていた香西氏は、香西浦を勢力下に置いて備讃瀬戸への進出を計った。
②それは海賊盗伐や瀬戸内海航路の安全確保など中央政府の意向に沿うものでもであった。
③香西氏は、塩飽や小豆島を権益下を置くことによって備讃瀬戸警護の役割を担った。
④兵庫北関入船納帳には、香西浦が瀬戸内海交易ネットワークのひとつの拠点として機能していたことを示す。
⑤瀬戸内海交易や情報は、香西氏に経済的利益をもたらし、これが京都で活躍する財政基盤となった。
⑥香西湊は愛染川河口にあり、後にはその近くにあらたな拠点である藤尾城を築城した。以上を整理して起きます。
①佐料城を拠点としていた香西氏は、香西浦を勢力下に置いて備讃瀬戸への進出を計った。
②それは海賊盗伐や瀬戸内海航路の安全確保など中央政府の意向に沿うものでもであった。
③香西氏は、塩飽や小豆島を権益下を置くことによって備讃瀬戸警護の役割を担った。
④兵庫北関入船納帳には、香西浦が瀬戸内海交易ネットワークのひとつの拠点として機能していたことを示す。
⑤瀬戸内海交易や情報は、香西氏に経済的利益をもたらし、これが京都で活躍する財政基盤となった。
⑦これは瀬戸内海交易への積極的な進出を示すものと考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」
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