室町時代の国人館や大名館の居館レイアウトは、よく似ています。
飛騨の江馬氏館と、洛中洛外図屏風に描かれた幕府(将軍邸)や細川氏館と比べて見ましょう。

江馬氏下館
飛騨の江馬氏館 下は発掘平面図

飛騨の江馬氏館

ふたつを比べて見ると
A 館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門を開け
B 門を入ると広場と建物群
C 右に大きな園池
これを見ると飛騨の江馬氏は、都の花の御所をモデルにして自分の館を造営したことがうかがえます。 江馬氏は、南北朝初期から室町幕府と密接な関係がありました。飛騨の在地支配を行なう上でも、幕府の権威を目に見える形で表す建造物を目指したのでしょう。鎌倉期に在地性を強めた国人領主たちが、室町時代になると幕府と個別に関係を結びつき、国人領主同士が協働して地域秩序を形成するようになります。そのような中で、将軍家の舘のレイアウトを真似た建物群が地方にも現れるようです。これを研究者は「花の御所体制」と読んでいます。
 応仁の乱後になると守護が戦国大名化するようになります。そして国衆(国人領主)は、その被官となり組織化されるようになります。
 この時期の守護大名も室町幕府のモデルをコピーにしたようで、その構造はよく似ています。

朝倉一乗谷舘復元
 越前の一乗谷 朝倉氏館
大友宗麟武家屋敷
豊後の大友氏館(豊後府内)

今川義元居館
今川義元居館
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、今川義元居館などの発掘調査で、分かってきたのは
「館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門 + 広場と建物群 + 池のある庭園」の共通点があることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。

岐阜城の信長居館2
岐阜城下の信長舘と庭園
ここでは信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、室町幕府の「花の御所」モデルが規範となっていたこと、それを真似て戦国大名達は自分の居館を造営したこと押さえておきます。
 戦国期までは、室町幕府に連なることを目に見える形で示すために、京都の将軍と同じような館を築くことが、ステイタスシンボルとして求められたようです。これは、前方後円墳というモニュメントを築くことで、広域的政治連合に加わり、地元での地盤を固めた古代豪族と共通点があるようにも思えてきます。
 次に犬追馬場と儀礼の共通性を見ていくことにします。
犬追物は40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです。つまり、競技場となる「犬の馬場」には、共通の規格性があったことになります。

犬追物 洛中洛外図屏風(歴博甲本)
洛中洛外図屏風歴博甲「本」に描かれた「犬追馬場」

犬追物に熱心だったのが管領の細川政元でした。
彼は15世紀末に、細川一族をまとめて上げて権力を握ります。しかし、天狗になろうとして修験道に凝って奇行が多かったとされます。その細川政元に可愛がられたのが香西又六(元長)です。政元は、犬追物を頻繁に行っていますが、その中心として活躍している元長の姿が、史料から次のように見えて来ます。
1489(長享3)年正月20日 元長の最初の登場記録

 細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

1489年(長享3)年8月12日
蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
(「蔭涼軒日録」同前、3巻470頁)
 都に300人を集めての「犬追物」が行われています。ここからは次のような情報が読み取れます。
①軍事的示威行動でもあり、権力示威イベントでもあったこと
②「香西一党」は、在京武士団の中では最強の軍事集団だったこと
 管領細川政元が越後に下向した際の記録でも、連日のように馬場に出ています。これは政元が熱中していたと云うこともあるでしょうが、別の意味があったことが考えられます。それは犬追物が屋外での接客の場で、中央権力者と地方有力者をつなぐ「名刺交換会」の役割をもっていたことです。
 中央の権威を反映した館(モニュメント)を建造すると同時に、有力国衆は、犬追物を行うための施設・装置も求められていたことになります。また、そこで名を上げるためにも大小の国衆たちは自前のトレーニング場が必要になってきます。犬追物は、縦の武士社会の中で求心力を持つための装置であったと研究者は考えています。

三宅御土居の復元模型
                                                            益田市七尾城 三宅御土居の復元模型
 そのため武士居館の付属施設として犬追物が馬場(犬の馬場)が設置されています。地名から残る犬の馬場の一例を挙げると
①益田氏の七尾城の麓にある小字名「上犬ノ馬場・下犬ノ馬場」
②朝倉氏の越前一乗谷
③大友氏の豊後府内
④六角氏の近江観音寺城
⑤上杉氏の越後府内
など、多くの事例が挙げられます。

佐料城周辺図
例えば香西氏の居館跡とされる佐料城跡の西側にも「馬場の谷」が見えます。ここでも乗馬以外にも、騎射や犬追物のトレーニングが行われると同時に、一族の「犬追物大会」が行われていたことが推測できます。ここでは武家としての儀礼を行なう場として、居館とセットで犬追物の施設が作られていたことを押さえておきます。 
 犬物は、多くの参加者が集う場で、地域の武士を集め、自らの権威を増すための装置として機能もあったはずです。

犬追物屏風3 17世紀
犬追物屏風(右2枚) 17世紀

犬追物屏風2 17世紀
               犬追物屏風(中央) 17世紀
犬追物屏風 17世紀
                犬追物屏風(左2枚) 17世紀
最後に中央の権威を反映した館(モニュメント)と共に、「犬の馬場」は、武士社会の中で求心力を持つための装置であったことを押さえておきます。そこで犬追物が行われる時には、物見高い民衆が集まってきたはずです。犬追物は、地域の一大イヴェントに成長して行きます。武士の居館は、イヴェント会場の施設でもあったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
小島道裕 儀礼の場としての武士居館
参考文献